知識の泉
旅好きの若者がいた。彼は明るく好奇心旺盛な性格で、興味を引かれた土地があれば、一人でひょいと出かけ、現地の人々とすぐに打ち解けることができた。社会人になった今も、時間を見つけては旅に出る生活を続けている。
「辺境の賢者……?」
ある日、彼は海外の小さな街の飲み屋で妙な噂を耳にした。遠く離れた辺境の村に、膨大な知識を持つ老人がいるというのだ。どんな質問にも答えられる、まるで生きた図書館のような存在らしい。
好奇心を大いに刺激された彼は、すぐさま旅支度を整え、その村へ向かった。
三日かけて辿り着いた村は、ごく普通の集落だった。藁と土壁の家々が並び、道端では擦り切れた服の子供たちが遊んでいる。観光地らしさは皆無で文明の影すら薄い。若者は人当たりの良さそうな村人に声をかけ、老人の居場所まで案内を頼んだ。
「それで、どこからきたの? ……へえ、知らないなあ。でも彼ならきっと知ってると思うよ。彼はねえ、草の種類や寝違えたときの対処法だって知ってるんだ!」
村人によれば、その老人はあらゆる事柄に精通しており、村の誰もが尊敬し、重宝しているという。
しかし、村の中を歩くうちに、若者の心には次第に疑念が湧いてきた。
この村にはパソコンやスマートフォンどころかテレビすら見当たらない。もしかすると、村人たちはそうした文明の利器の存在すら知らないのかもしれない。だとすれば、老人だけが隠し持ち、密かに外部の情報を仕入れ、それをあたかも自分の知識として語っているのではないか、と。
もし膨大な知識を持っているなら、もっと豊かな暮らしを築いていてもよさそうなものだ。だが、村の暮らしは質素そのもの。やはり、ただの噂。実像は大したことはないのだろう。
そう思いながら辿り着いた老人の家は、彼の疑念をさらに強めるものだった。そこは薄ピンク色の小さな古びた家で、室内には甘い煙が漂っている。
その老人は痩せ細り、虚ろな目でソファに身を預けており、どこか呪術師のような雰囲気を漂わせていた。落ちくぼんだ目と頬――心ここにあらず。まるで魂が半分抜け落ちたかのような姿だった。
もしかすると、この煙はお香ではなく、麻薬の類ではないか? そんな考えが頭をよぎり、若者は思わず身構えた。
「あ、あの、こんにちは……」
「やあ、こんにちは」
若者は驚いた。流暢な自国の言葉が返ってきたのだ。
「あ、話せるんですね……でも、どうして僕の国がわかったんですか?」
「見分けるのは簡単さ。それを知る者は少ないがね」
穏やかな口調と微笑みにふっと警戒心が緩む。しかし、同時に背筋がひやりとした。もしかすると、村に入った時点から監視されていたのではないか、と。
――いや、さすがに考えすぎだろう。しかし、僕はなぜこんな疑いを抱いたのだろう……。
若者は床に腰を下ろし、老人との会話を続けた。言葉を交わすうちに、彼は徐々に気づいていく。自分の中にあった違和感の正体を。そして、ふいに頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんだい?」
「僕は、あなたを見くびっていました……いや、見下したかったんです。こんな辺鄙な村に住む老人の知識量なんて、たかが知れているだろう。どうせ地球が平面だと思っているんじゃないか、なんて勝手に決めつけて……。僕が旅をする理由も、結局はちっぽけな自分を飾り立てたかっただけなのかもしれません。何か国行ったことがあるって、経験を得た気になって……」
「他の鳥の羽で自分を飾った鴉のように、か」
老人はふっと微笑んだ。
「それは、恥ずかしいことではないよ。向上心と知識欲を持つのは素晴らしいことだ」
「ありがとうございます……ああ、もうこんなに時間が経っていたんですね」
「ああ、まったくだな。こんなにな……」
老人は遠くを見つめるように目を細めた。そろそろ帰るべきか。若者はそう感じ、軽く咳払いをして立ち上がりかけた。
「あの、そろそろ――」
「君になら、秘密を教えてもいいかもしれないな」
「え?」
「私がこの膨大な知識をどうやって得たのかを。笑わないで聞いてくれるかい?」
「え、ええ、もちろんです」
若者は姿勢を正し、唾を飲み込んだ。部屋の空気が変わった気がした。
「実は……私は知識の泉の水を飲んだのだ」
「知識の泉……? それは比喩か何かですか?」
老人はゆっくりと首を振り、過去を語り始めた。若かりし頃、彼もまた経験と知識を求めて旅をしていた。まるで、自分の体の中の空洞を埋めるかのように。
そして、行き着いたのがこのあたりに伝わる『知識の泉』だった。泉の水を飲めば、瞬時に膨大な知識が頭に流れ込み、しかもそれを決して忘れることはないという。
「ここに地図がある。興味があるなら行ってみるといい」
「え、でも、いいんですか? 僕みたいな余所者に、そんな大事な場所を教えて……」
「ははは、私もかつては余所者だったさ。そして、今や君も私の仲間だ。知識の探究者としてな」
若者は、老人の骨ばった手から差し出された地図を恭しく受け取った。そして、一晩村に泊まり、翌朝、泉を目指して村を飛び出した。
道のりは険しかった。林の中を縫うように進み、目の前に現れた聳え立つ山を岩肌を削るようにして登る。ひたすら歩き続け、ようやく泉に辿り着いたとき、日はすでに傾き、疲労が全身を覆っていた。喉はカラカラに乾き、立っていられないほど膝は震えている。汗で目が染み、彼は目を細めて正面を見つめた。
「あ、あれが……」
視線の先に小さな泉があった。木々の隙間から差し込む夕日が水面を照らし、黄金に輝いて見えた。
若者は四つん這いになり、震える指先を見ずに触れさせた。ひんやりとした感触が手のひらを包む。彼はそのまま、がぷりと口をつけた。やがて、手ですくうのはもどかしいと、がっつくように泉に口をつけた。
「これが知識の泉……確かに、なんだか頭が冴え渡るような感じがする。でも、こんなに小さな泉が……ん?」
ふと立ち上がり、山の麓を見下ろした。人の声が聞こえた気がしたのだ。すると、やはりだ。あの村が小さく見えた。
「なんだ、ここはあの村のすぐ近くじゃないか。しかも、あそこに通れそうな道もある。気づかなかった僕も間抜けだが、やれやれ、まんまと担がれたかな……」
若者は苦笑し、ため息をついた。そして、戻ってきた静寂に自然と耳を澄ませる。
すると――
ポタッ、ポタッ……。
水滴の音が聞こえた。
泉の源だろうか? そう思い、若者は音のほうへ振り返ろうとした。
しかし、できなかった。突然、頭が重くなり、膝から崩れ落ちたのだ。
「あ、あ? あ、あああああああ!」
次の瞬間、知識が洪水のように押し寄せた。彼は絶叫し、耳を塞いだ。だが無意味だった。
耳の奥、脳髄をかき混ぜるような感覚。凄まじい轟音。思考が崩壊し、あらゆる情報が混濁しながら流れ込んでくる。
――あっ。
一瞬だけ、静寂が訪れた。
それは、若者が視界の端に映るものに気づいた瞬間だった。
萎びた手――頭――穴――そして、若者の脳内に一文が浮かび上がる。
しかしそれも、すぐさま知識の濁流に飲まれ消えていった。
――知識の泉は、あの老人の頭から流れ出たものだったのだ。