第七章 異能の目覚め
夜の闇が街全体を包み込み、高層ビルのガラスに映る灯りが冷たく瞬く。まるで無数の目が、暗闇の中を彷徨う人々を静かに見つめているかのようだった。
イリンは祖父の旧宅の書斎に立ち、指先で一枚の黄ばんだ契約書をそっとなぞった。文字はかすかに滲んでいたが、「夜梟」という名前だけははっきりと読み取ることができた。彼女の胸中に複雑な感情が渦巻く。これまで家族の栄光は父祖の努力の賜物だと信じていたが、その裏にこんな秘密が隠されていたとは思いもしなかった。
シンチェンは彼女の背後に立ち、静かな眼差しでその書類を見つめた。そして低い声で言った。
「この契約は、君の祖父が『夜梟』に助けを求めたことを示している。そして今、彼は君にとって最大の敵になっている。」
イリンは深く息を吸い込み、慎重に書類を机に戻した。そして毅然とした口調で言った。
「『夜梟』が何を狙っているとしても、私は彼の思い通りにはさせない。イリン家の誇りは、祖父の過去によって汚されることはない。」
シンチェンは頷いたが、その目には一瞬、何か異なる光が宿った。最近、彼の身体には異変が起きていた。聴覚や視覚が異常に鋭敏になり、ときには空気のわずかな揺らぎすら感じ取ることができた。これが何を意味するのか分からなかったが、一つだけ確信していた――イリンを独りにするわけにはいかない。
その頃、街の別の場所では……。
夜梟は薄暗い密室に座り、銀色の仮面が微かな光を反射していた。指先で机を静かに叩きながら、前に立つ黒衣の女性を見つめた。彼女の姿はしなやかで、闇夜に潜む刃のように鋭い。
「魅影。」夜梟の低く冷ややかな声が響く。
「ご命令を。」魅影は軽く頭を下げ、恭しく応じた。
「イリンは我々の存在に気づき始めた。」夜梟は微笑み、その目に冷たい光を宿した。「彼女は家族の影響力を取り戻そうとしている。だが、それこそが彼女を罠へと導く最良の機会だ。」
魅影は冷ややかに微笑み、自信に満ちた眼差しを向けた。
「彼女は甘いですね。祖父の遺したものだけで、一族の栄光を取り戻せるとでも?私がその幻想を打ち砕いてみせます。」
夜梟は満足げに頷き、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今日から、お前の任務はイリンの世界に入り込み、彼女の弱点を見つけ、すべてを掌握することだ。」
魅影は頷くと、静かにその場から消え去った。
……
数日後。
イリンとシンチェンは、街東部のクラブで開催される社交パーティーに出席していた。これは、彼女が家族の影響力を取り戻すための第一歩だった。
豪華な宴会場では、シャンデリアが輝き、ワイングラスの音が交錯していた。その陰では、さまざまな勢力が静かに駆け引きを繰り広げている。イリンは深い青のドレスを纏い、上品さの中に確固たる意思を漂わせていた。彼女は次々と各界の人々と会話し、協力者を探っていた。その傍らで、シンチェンは常に周囲を警戒しながら見守っていた。
そんな中、一人の冷ややかな美貌の女性がゆっくりと近づいてきた。
「イリンさん、お会いできて光栄です。」
イリンが顔を上げると、黒いスリット入りのドレスをまとった女性が微笑んでいた。
「私はアンナ。」彼女はそう名乗った。
イリンは一瞬驚いたが、すぐに微笑み返した。
「アンナさん、どうぞお座りください。」
シンチェンの眉がわずかに動いた。彼はこの女性の気配に何か違和感を覚えたが、その正体はまだ掴めなかった。
アンナ(魅影)はイリンと軽やかに会話を交わしながら、巧みに彼女の思考を探っていった。
「最近、ご家族の過去について調査されているとか?」魅影はさりげなく問いかけた。
イリンの目が一瞬鋭くなったが、すぐに平静を装った。
「少し気になることがあったので。」
「もしお力になれることがあれば、お気軽に。」魅影は優雅に微笑み、ワイングラスを持ち上げた。
イリンはグラスを軽く合わせながらも、内心で警戒を強めた。
その頃、シンチェンは静かに目を閉じ、集中した。すると、微かな心臓の鼓動が耳に届いた。それは魅影のものだった。規則正しく落ち着いた鼓動。しかし、それは「作られた平静」だった。
彼は目を開き、魅影を鋭く見つめた。
「イリン、そろそろ行こう。」彼は低く囁いた。
イリンは驚いたが、すぐに立ち上がった。
魅影は二人を見送ると、唇にうっすらと笑みを浮かべた。
夜の冷たい風が吹き抜ける中、イリンとシンチェンはクラブの外で足を止めた。
「さっきのアンナ……怪しいわね。」イリンは低く呟いた。
シンチェンはじっと彼女を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「彼女の心拍が不自然だった。」
イリンは目を見開いた。
「……あなた、聞こえたの?」
シンチェンは静かに頷いた。
「最近、聴覚や視覚が異常に鋭くなっている。それに……闇の中でも光の揺らぎが見えるんだ。」
イリンは息を呑んだ。
「シンチェン……あなたの体、一体……?」
シンチェンは苦笑した。
「分からない。でも、これが『夜梟』と戦う鍵になるかもしれない。」
イリンは深く息をつき、目を強く閉じた後、静かに開いた。
「何があっても、私たちは真実を突き止める。」
シンチェンは彼女を見つめ、静かに頷いた。
そして、その頃——
魅影は夜梟の前に跪き、低く報告した。
「イリンは私の存在に気づき始めました。」
夜梟はワイングラスを回しながら、冷ややかに笑った。
「問題ない。彼女がもがけばもがくほど、深みに嵌るだけだ。」
外の夜は、ますます深くなっていった……。