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薄墨流れる

作者: 深海聡

 畳一畳弱の空白を前に、座る。

 まっさらな紙は宇宙に等しくて、そこに走る線は人生のようだと思った。

 うねり、留まり、時に荒々しく走り、跳ねる。あるいは嫋やかにしなやかに受け、そして受け流す。

 紙の上を筆が走り、生み出される線に魅了され、息も忘れて魅入った。

 岩のように厳しく硬い線も、流れる風のような水のような柔らかな線も、同じ人が書いたと思えないような多彩な印象の文字に、言葉を失った。

 長い修練の果てに辿り着いた一つの境地とも呼べそうな、圧倒的な存在感を放つ文字を私も書いてみたいと、いつかその境地に辿り着きたいと、コピーされたお手本を手にして、思いがけず心が震えた。

 それを生み出すのは、小柄でちょっと頑固そうで、笑うと陽だまりのような笑顔の、どこにでもいるような好々爺。

 それが私の師匠だった。

 いつでもちょっとくたびれた背広を着ていて、大抵袖には朱墨か墨のしみがついていて、手には紙やら筆やら墨やら、仕事道具諸々が入った体格の割に大き過ぎる、書道用具店の厚手のビニール袋。

 書道のこと以外、身支度にも金銭にも頓着しない様子は浮世離れしていて、まさに仙人だと思っていた。

 筆を持つと、目の輝きが違う。俊敏で力強い動きに、運動音痴の私はついていくことさえままならない。

 大きな紙に見合った大きな筆を握り、全身を使って大きな文字を書く。

 見慣れた大きさの半紙の上で描き出される多彩な線にも増して、私には衝撃的な世界だった。

 思いっ切り、全力で書く大きな字の世界は、袋小路にはまり込んで色々なものを持て余していた当時の私にとって、全くの新世界だった。

 持て余したエネルギーの受け皿に、それはピタッとはまった。

 私と師匠と“大字書”の関係は、そんな感じだった。

 出会った時から高齢だった師匠を、そう遠くない将来に見送ることになるだろうという思いは、ずっとあった。

 覚悟の上で門を叩いたから、そういう意味では後悔も不満もない。

 師匠の背中を追ってきたというほど殊勝な人間でもないから、私がこの先に行けるかどうかは自分の道を自分で歩き切る覚悟が出来るかどうかだということは、身に染みてわかっているつもりだ。

 だから私は、今日もまっさらな紙の前に座る。

 美しい滲みが出るように調整した墨を小さめのバケツに入れて、小ぶりのモップぐらいの大きさの筆を手にして、紙の上に踏み込む。

 黒いシャツ、黒いズボン、黒い靴下。

 薄墨は白い紙の上で流れる線になり、宇宙を描き出す。

 変幻自在な動きは、究めれば剣術に通じるらしい。

 激しさも、嫋やかさも、荒々しさも。私の描き出すそれはまだほんの浅瀬をひと撫でしたにすぎず、名人の達する深みには程遠い。

 それでも、その深淵に至る道を、あるいは雲のかなたに霞む幽玄な峰を目指して私は私の道を歩く。

 それは終わりのない修練であり、祈りであり、道そのものなのかもしれない。

 涙に滲むような薄墨は葬送のようで、私は黒に身を包みじっと頭を垂れて祈るように願う。

 目の前に見上げる峰が失われても、この足元に続く道をこれからもしっかりと踏みしめて歩めるようにと。

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