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短編小説(異世界恋愛)

追い詰められた令嬢は、腹ぺこ令息の胃袋を掴む ~私の血、そんなに美味しいですか?~

作者: 三羽高明

「行くわよ、モニカ……」


 燦々さんさんと降り注ぐ日の光を浴びながら、私は気合いを入れた。


「大丈夫、難しくないわ。この店のドアを開けて、一言言うだけよ。『ここで働かせてください』って。この一週間、私は同じセリフを何回も口にしてきたじゃない」


 ブツブツ言いながら大きく息を吐き出す。そして、店のドアに手を触れた。


 けれど、その途端に腕に力が入らなくなる。足が震え、呼吸も荒くなってきた。


 ……ああ、もう! しっかりしなさいよ、私!


 ふがいなさのあまり舌打ちしそうになる。


 でも……こうなってしまうのも仕方ないのかしら?


 私は別に、特別に臆病だとか引っ込み思案というわけではない。だけど、流石にこの場所で働くことには躊躇いを覚えずにはいられなかった。


 だってここは春を売る店――娼館なんだから。



 ****



 私はかつて、裕福な商人の娘だった。けれど、実家の商店が大がかりな詐欺に遭い倒産。結果、私たち一家は路頭に迷うことになってしまったんだ。


 困難にもめげず、両親は新しい店を立ち上げた。でも、その経営はあまり上手くいっていない。


 そんな状態だったから、私が働きに出るのは当然の流れだった。


 しかし、老齢の店主が店を閉めたことにより、勤め先の居酒屋は一週間前に閉店してしまった。それからずっと新しい仕事を探しているけれど、まだ見つかっていない。


 しかも、悪いことは重なるものだ。体の弱い弟が高熱で寝込んでしまうなんて。なのに、お医者様に診せるお金もないんだもの。


 このまま放っておいたらあの子はどうなってしまうのかと思うと、不安で息ができなくなりそうだ。


 つまり、私は絶体絶命の危機に陥っている。でも、お金があればなんとかなる。少なくとも病気の弟は助かるかもしれない。


 そのためには怯えている場合じゃなかった。さあ、勇気を出すのよ、モニカ! 人気の娼婦になって、がっぽり稼ぐの!


 チリン


 軽快にドアベルが鳴り響き、あんなに重厚そうに見えた扉がいとも容易く開いた。


 と思った時には、私はドア板に体を嫌というほどぶつけ、石畳の上に無様に転がってしまっている。


「すみません!」


 店から男性が出てきた。


「まさか人がいるなんて思っていなくて……」


 男性は私を助け起こそうと膝を折る。視界に飛び込んできたのは、端正な容貌の青年だった。


 どこか憂いがにじんだ神秘的な面差し。涼やかな瞳は赤みの強いオレンジ色で、沈む直前の夕陽のようだ。


 透き通った肌は蒼白く、体温が低そうに見える。少し癖のある髪は銀色で、後頭部で団子状に結われていた。


 突然現われたこの美しい人から、私は目が離せなくなってしまう。彼もまた、こちらを情熱的な瞳で見ていた。


「素晴らしい……」


 青年が感激したような声を出す。私の手を取って、顔の高さまで持ち上げた。


「なんて……なんていい匂いなんだ!」


 生暖かいものが肌に触れる感覚がして、うっとりと彼に見入っていた私は我に返る。


 ……この人、私の手……舐めてない?


 とんでもない光景を目の当たりにし、口からけたたましい悲鳴が飛び出た。


「な、何するのよ!」


 青年を突き飛ばし、這うようにして後退した。唐突な奇行に、少しも理解が追いつかない。


「待ってくれ、怖がらないで!」


 尻もちをついてしまった青年は、体勢を立て直しながら慌てる。


「ひどいことをしようとしたんじゃない! ただ血が……」


 私は先ほど彼が舌を這わせていたところへ視線を遣った。そこには、擦れたような傷がついている。


 きっと転んだ時にできたんだろう。この人はこれを何とかしようとしたってこと?


 真相は分かったものの、呆れずにはいられない。


 「舐めときゃ治る」なんていうのはよく聞く言葉だ。だけど、それを実行に移したりする? しかも、初対面の女性相手に。


 この人、大丈夫なの……? さっきとは違った意味で不安になってきたんだけど……。


「君の血、美味しいな」


 私が困惑していると、青年はさらに訳の分からないことを言い出す。


「よかったら……もう少しくれないか? 傷が塞がる前にもう一吸い……」


 青年が喉を上下させるのを見て、私は顔を引きつらせた。


 よく見れば、彼の薄い唇の向こうには尖った犬歯が覗いている。まさかこれを私の肌に突き立て、そこから生き血を啜ろうとでも言うんだろうか。


 嫌な想像をしてしまい、怯えずにはいられない。「この人はおかしい」「一緒にいてはいけない」と頭の中で警戒のベルが鳴り響く。


「私、用事があるから……」


 そそくさと逃げようとしたけれど、青年がそれを許してくれなかった。「もちろんタダではと言わない!」と、熱心に引き留められる。


「対価ならきちんと払う! 欲しいものがあれば言ってくれ!」

「え……」


 思ってもみなかったセリフに、私は目を見張る。「これ以上彼と会話するな」と警告を発する脳内の声を無視して、ある提案をしてみた。


「本当に何かくれるの? たとえば……お金とか?」

「もちろん構わない」


 青年は頷いた。背後の娼館と私を見比べ、「もしかして、ここで働こうとしていたのか?」と尋ねてくる。


「……苦労が多いみたいだね」


 青年は私の服装を見ながら言った。持ち物を売り払って生活費の足しにしていた私は、粗末な一張羅の古着をまとっていたんだ。


 青年の言葉に、私は黙って首を縦に振る。


「それなら僕が力になれる」


 青年は胸を叩いた。


「僕が君を雇おう。娼館なんかより、ずっといい稼ぎになるぞ。仕事内容は簡単。その美味しい血を少し分けてくれればいい。そうだな……週に金貨十枚でどうだ?」


 金貨十枚ですって!?


 私は飛び上がりそうになる。


 金貨十枚! それだけあれば病気の弟をお医者様に診せて、家族全員に温かくて栄養たっぷりの食事をさせてあげてもおつりが来るわ!


「乗った!」


 目下の心配事がいっぺんに解決すると分かり、私は身を乗り出す。お金の力に目が眩んでいるせいか、血をあげるなんて少しも怖いことだとは思わなかった。


「血、いくらでも持っていってちょうだい! 一滴残らず、さあ!」

「そんなことしたら死んでしまうだろ」


 律儀にツッコミを入れた青年は、姿勢を正して一礼した。


「自己紹介が遅れたな。僕はエーリッヒ。じゃあ、早速君を職場へ案内しよう。と言っても、僕の家だけどね。郊外の丘に建つ屋敷だよ」


「私はモニカ……えっ、丘の屋敷?」


 聞き捨てならないことを言われ、耳を疑う。丘の屋敷って、あの「黒魔術一家」が住んでいるっていう?


 丘の屋敷の黒魔術一家について、この街で知らない人はいない。


 大金持ちの貴族だが、その構成員は誰も彼もが変人奇人で、まともな人は一人もいないそうだ。


 それに、家の中では連日のように怪しげな儀式や式典が執り行われ、一度足を踏み入れれば帰れなくなるとも言われている。


 これからそんなところへ行かないといけないの?


 どうしよう……。もしかして、私ってばとんでもなく軽はずみなことをしちゃった? よりにもよって、あの黒魔術一家の令息と雇用契約を結んでしまっただなんて……。


 屋敷に入ったが最後、悪魔召喚の生け贄に選ばれたらどうしよう! もしくは、人体実験の末にキメラにされちゃうとか……!


「向こうに馬車が止めてあるよ。お手をどうぞ、甘美な血のモニカさん」


 エーリッヒはにこやかに手を差し出してくる。「今ならまだ間に合う、逃げろ」という声が聞こえてきた気がした。


 けれど、私は頭を振ってそれを打ち消す。お金のため、お金のため……と必死で自分に言い聞かせた。


 どの道、この体は娼館へ売ろうとしていたものなんだ。どっちに転んだってひどい目に遭うのなら、稼ぎは多い方がいい。


 私は硬い笑みを返し、エーリッヒの手を取った。



 ****



「着いたよ」


 馬車に揺られることしばらくして、エーリッヒが声をかけてくる。外に出た私は、初めて近くで見る丘の屋敷に目を細めた。


 どこか物々しさを感じさせるたたずまい。室内も荘厳な雰囲気で、玄関ホールにはあちこちに異形の生き物の彫刻が飾られている。まるで邪神を祀る礼拝堂みたいだ。


「どう? 気に入った?」


 エーリッヒが尋ねてきたけれど、曖昧に微笑むしかない。「すごく不気味だわ」と返すなんて、いくらなんでも失礼すぎるもの。


「僕の家族も紹介した方がいいかな? ……いや、今日は皆出払ってるんだった。墓場ピクニックとか、ヒキガエルと井戸端会議とか、透明人間の観察大会とか……」


 ……やっぱり黒魔術一家ね。常識が通じないことだらけだ。これから先は、何を見てもスルーしておくのが賢明かもしれない。


 エーリッヒの後に続いて大階段を登り、彼の部屋に行く。扉を閉めるなり、エーリッヒは熱を込めて私を見つめた。


「初仕事を頼めるかな? 悪いけど、少し服をはだけさせて欲しい」


 まさかの申し出に躊躇する。けれど、彼の声にも表情にも色っぽいところが全くなかったので、何も言わずに従うことにした。


 ボタンを外し、鎖骨全体が見えるくらいまで服を引き下げる。エーリッヒが屈み、私の首元に顔を寄せた。微かな吐息が肌にかかり、私は思わず肩に力を入れる。


「いただきます」


 首筋に尖ったものが当たる感触がした。一瞬襲ってきた痛み。けれどその後に待っていたのは、想像もしていなかった感覚だった。


 まるで幽体離脱をしたように急速に重みをなくす体。頭に霧がかかり、視界が白くかすむ。自分が誰なのか、どこにいるのか、何をしているのかも忘れ、ただ漠然とした多幸感だけが全てを支配していた。


 ……気持ちいい。


 こんな快楽が存在するなんて思ってもいなかった。欲しい。もっと、もっと味わいたい。心ゆくまで堪能したい。


 この逸楽を、陶酔を、法悦を……。


「ごちそうさま」


 耳元で声が聞こえ、現実に引き戻される。私はエーリッヒの腕の中から顔を上げた。


「痛くなかった?」


 エーリッヒが心配そうに尋ねてくる。私は笑顔で「全然!」と言った。


「むしろ最高よ! 血を吸われるのって案外悪くないのね!」

「それならよかった」


 エーリッヒはほっとしたようだ。


「人によってはかなり痛むらしいからね。もし君もそうなら、この仕事を続けてもらうのは申し訳ないし……」


 エーリッヒは机の引き出しを開け、巾着袋を取り出した。


「初任給だよ。今回は特別に前払いにしておこう」


 手のひらに十枚の金貨が乗せられる。


 一気に体温が上がったような気がした。


 気持ちよくなれて、お金までもらえる。


 ひょっとして私、ものすごくいい仕事にありつけたんじゃない?



 ****



「おはよう、モニカさん」


 翌朝。ノックの音がしてドアを開けると、私の雇用主が立っていた。


「おはよう、エーリッヒ」


 オフショルダーの豪奢なドレスのスカートを摘まみ、挨拶を返す。背後から妹が「お姉ちゃんをよろしくね、エーリッヒさん!」と言うのが聞こえた。


 エーリッヒが妹に軽く手を振り、私をエスコートする。馬車に乗り込むと、「似合うよ、その服」と言われた。


 もちろん、これは私の私物じゃない。エーリッヒの言葉を借りれば、「制服は付与しよう」とのことだった。最初から首元が開いた服なら、はだけさせなくても済むというわけだ。


 しかも、服だけじゃなくてアクセサリーや靴まで貸してくれるという至れり尽くせりっぷりだった。


 この送迎にしても、彼が雇用契約に盛り込んできた内容だ。「歩いて通勤するのは大変だろう?」ということらしい。


 まあ、どう考えたって別の意図があるようにしか思えないけど。


「モニカさん、いいか?」


 期待を込めて聞いてくる。私はショールを肩から落として「どうぞ」と返した。


 思った通り、エーリッヒには少しでも長い時間私と一緒にいて、思う存分血を吸おうという目論見があるようだった。


 でも、別に嫌じゃない。最初に血を吸われた時の感動を私は忘れていなかった。


「仕事熱心なんだね。ありがたいよ。でも……ここじゃ少しやりにくいな」


 私の向かいのシートから立ち上がろうとした途端に車体が揺れ、エーリッヒは軽くよろめいた。「仕方ないか」と言ってこちら側に席を移し、あろうことか私を膝の上に乗せてしまう。


「これでよし」


 いや、よくないでしょ。


 と言いかけたけど首筋に牙が当たる感触がして、言葉を飲み込む。後はただ、心地よい感覚に身を任せることにした。


「今日は昨日と髪型も違うんだね」


 私の肌から唇を離したエーリッヒが言った。


「こっちの方が、血が吸いやすいかと思ったの」


 用は済んだはずなのにまだ私を膝に乗せたままだったけれど、特に気にせずに返事した。


 普段の私は髪を下ろしている。けれど、仕事の時はアップスタイルにしようと決めていた。首元が露出するからだ。


「それにね、この髪型、エーリッヒとお揃いなのよ」


「……気のせいじゃなかったのか。職務に忠実で雇い主思いで……僕はいい働き手に恵まれたよ」


 エーリッヒは私が冗談めかして付け足した一言に感じ入ったらしく、後ろから抱きしめてきた。


「この仕事、ご家族も反対していないみたいだね。本当によかった」

「ええ、私も安心してるわ」


 本当のことを言うと最初は皆仰天して、「今すぐに辞表を出せ!」としつこかったのだ。「黒魔術一家の令息に血を与える仕事だ」なんて言って納得してもらえるわけがないから、当然と言えば当然だけど。


 でも、血を吸われると最高の気分になることを話し、お給料の額を教えると、皆は手のひらを返した。今じゃ、エーリッヒは我が家のヒーロー扱いだ。


 病気の弟を早速お医者様に診せることもできたし、何もかもが好調だった。「エーリッヒはヒーロー」って、意外に間違っていないのかもしれない。


 エーリッヒがまたしても首元に触れてくる。もう一度血を吸うのかしら……と思ったけど、さっきの牙の跡に傷薬を塗っているだけのようだ。


 でも、そうしながらも喉を鳴らしているのが分かる。


「本当に……食欲が刺激される香りだ……」

「血ってそんなに美味しいの?」


 治療されながら尋ねた。


「私は好きじゃないわ。変な味がするもの。エーリッヒって、普通の食事はとらないの?」


「そんなことはないよ。ただ……こういう時ってないか? 無性に甘いものが食べたくて仕方なくなってしまう、みたいな……」


「……なるほどね。ちょっと分かったわ」


「心配しなくても、健康に影響が出るほどは吸わないよ。それに、僕も飲み過ぎると具合が悪くなるからね。とは言え、全然飲まなかったら本調子じゃなくなってしまうけど。それにしても……堪らない……」


 エーリッヒは食欲との戦いに負け、再び私の肌に牙を立てた。


 彼にとっての血は嗜好品みたいなものだと分かると、そうやって葛藤する様子もダイエット中にお菓子を我慢する乙女のようで可愛らしく見えてくるんだから不思議だ。


 馬車が止まった。どうやら丘の屋敷に着いたらしい。私は外に出ようとする。


 けれど、エーリッヒに「待って」と止められた。


「血を採られた後は、急に動かない方がいい」


 エーリッヒは自分が先に降りると、細身の体に似合わない膂力りょりょくで私を軽々と抱え上げた。


 流石にこれには慌てずにはいられない。


「ちょっと! エーリッヒ!」

「照れることないだろ。さっきまで僕の膝の上にいたのに」


 エーリッヒは平然と返す。


 もしかして彼、ちょっと距離感がおかしいタイプ? でも、それも仕方ない……のかしら? 血を吸うためには、どうしたって相手に接近しないといけないんだし……。


「さあ、しばらく休んでて」


 エーリッヒは私を寝室に連れ込み、ベッドに寝かせた。血を抜かれた後は大人しくしている方がいいってことなんだろう。加えて、「食べ物も持ってこようか?」と聞いてきた。


「……眠くないし、お腹も空いてないわ」

「そうなのか? やっぱり人によるのかな……」


 エーリッヒは首を捻っている。私は、ふと気になったことを質問した。


「エーリッヒって、今まではどんな人の血を吸ってきたの?」

「一番多いのは娼婦かな」


 そう言えば、私たちが出会ったのも娼館の前だったわね。


「あの人たちはお金を弾んだら大抵のことは了承してくれるからね。でも、店主は僕のしていることを快く思っていないのか、来るなら営業時間外にして欲しいって言われているんだ」


 彼が店から出てきたのは昼間のことだった。あの時は疑問に思わなかったけど、娼館が夜にしか開いていないことを考えれば、確かに不自然な時間帯だったかもしれない。


「あの店、結構美味しい血が揃ってるんだよ。必ずしも売れっ子が一番いい味ってわけじゃないのが面白いよね」


 エーリッヒは骨付き肉をもらった犬のような顔になる。色気より食い気ってやつね。どうやら、彼にとってはあそこはただのレストランのようだ。


 そうと知って、私は何故だかほっとしてしまう。


「でも、君に比べたらまだまだだな」


 エーリッヒのオレンジの瞳が煌めく。


「君みたいな素晴らしい人には会ったことがないよ。この幸運に感謝しないとね」


 熱烈に囁かれ、私は頬を火照らせてしまう。彼が褒めているのは私の血の味だと分かっているのに、何だか気恥ずかしかった。


「今日帰る時には、馬車いっぱいの食材も持たせるよ。栄養をたくさんつけて、健康でいてもらわないとね。これからも僕の傍にいて欲しいから」


 美味しい血のために、でしょう?


 そう返そうかと思ったけど、やめておいた。ここは素直に私自身への願いだと受け取っておくことにしよう。


 だって、その方が嬉しいから。


 少し速くなる心臓の音を聞きながら、私は優しく微笑むエーリッヒをいつまでも見つめていた。



 ****



 それからも私は丘の屋敷に足繁く通う。


 初めは不気味だと思っていた職場にも段々と慣れてきた。いかめしい外観に圧倒されることもなければ、おどろおどろしい室内装飾ももう怖くない。


 それに、ここの住民は黒魔術一家なんて言われて恐れられているけど、気のいい人ばかりだということも分かった。


 そのため、少年にしか見えないエーリッヒの祖父や、透明人間マニアの従姉妹と会っても、少しも動揺せずに挨拶できるようになった。


 誰も彼もがどこかしら変わっているのは否定できない。でも、根は善良なんだ。


 私がそう言うと、エーリッヒは華やいだ顔になる。


「そんな風に感じてもらえて光栄だよ」


 天気がよかったから、今日は庭に出ていた。私は芝生に座るエーリッヒの膝の上にいる。いつの間にか、ここが定位置のようになっていたんだ。


「早速皆に教えてあげないと。きっと喜ぶだろうな……」


 家族思いなエーリッヒを見て、私は温かな気持ちになる。「もちろん、あなただっていい人よ」と付け加えた。


「僕が?」


 エーリッヒは瞠目した。私は「当然でしょ」と言う。


「こんなに私を丁重に扱ってくれているんだもの。何て言うか……あなたが雇い主だってこと、時々忘れてしまうの。対等みたいに思っちゃうのよ」


 私は苦笑した。今のエーリッヒの手にはブラシが握られている。私の髪のほつれを直してくれていたんだ。こんなの、とても使用人の待遇とは思えない。


「それにね、エーリッヒと出会ってから、運も上向きになってきたみたい。今まで何をやっても上手くいかなかった両親の店の経営が軌道に乗り始めて、体の弱い弟も、このところ風邪一つひかなくなったわ。昨日は妹が道でハンカチを拾ったの。刺繍されていた名前を頼りに持ち主に届けてあげたら、その人は資産家で……。謝礼を奮発してくれたのよ!」


「それ、僕と関係あるか?」


「分からないわ。でも、皆は『エーリッヒさんのお陰』って言ってるわよ。それに、私もそう感じているの。ありがとう、エーリッヒ」


「……それほどでも」


 エーリッヒははにかんだ。


「家族以外から褒められることってあんまりないんだよね。……僕の嗜好のせいで」


 エーリッヒはため息を吐いた。少し影のある表情になっている。


「『血が好きなんてどうかしてる』『お前は変だ』。そういうセリフを何度も聞いた。『怪物みたい』って言われたこともあったよ」


「怪物じゃないわ」


 私は体の向きを変え、エーリッヒと向き合う形で座った。こんなに悲しそうな顔をする人を放っておくなんてできなかったんだ。


「あなたはちゃんとした人間よ。ただ血を吸うのが好きなだけの。見た目も他の人と変わらないじゃない」


「牙みたいな歯が生えてるのに? 君だって、最初は僕のこと怖がってたじゃないか」


 自分のことを引き合いに出されて少したじろぐ。けれどすぐに、「今は違うわ」と返した。


「怖がってたらこんな風に膝の上になんか乗らないわよ。誰が何と言おうと、あなたは普通の人間よ」


「……普通の?」


 まるでそれが難解な言葉であるかのように、エーリッヒはゆっくりと発音した。


「普通……普通……」


 エーリッヒは思案顔になる。


「……この家にいると、まともなものとおかしなものの区別がつかなくなくなりがちだ。でも……普通、か……」


 エーリッヒはかすかに笑った。


「まあ、君がそう言うのなら、僕は普通ってことにしておこうかな」


 渋々負けを認めたような言い方。けれど、声色は柔らかく、彼が喜んでいるのが分かった。


 エーリッヒが正面から私を抱きしめる。彼の背中をさすってあげると、「血、吸ってもいい?」と聞かれた。


 「ええ」と答えると、彼は私の首元に顔を寄せる。


 それなのに、中々牙を立ててこない。伝わってくるのは、首筋を唇が這う感触だけだ。


「エーリッヒ?」


 どうしたの? と聞こうとした。だけど、不意に彼が顔を上げ、至近距離から覗き込まれて何も言えなくなる。


 私は反射的にエーリッヒのシャツをきつく掴んだ。


 それを合図とするように、エーリッヒがさらに顔を寄せてきた。彼の口が私に触れる。


 けれど、そこは首ではなく唇だった。


 なのに、嫌じゃない。それどころか、血を吸われるのと同じくらい気持ちよかった。私は恍惚としてその感覚を受け止める。


「……っ!」


 不意に走った痛みに、私は身を竦ませる。偶然エーリッヒの牙が私の唇を裂いたんだ。


 そこから血が漏れ出る。エーリッヒはほとんど無意識にも見える仕草で、それをうっとりと舐め始めた。


 それでもすぐに自分のしていることに気付いたらしく、ショックを受けたように背をのけぞらせる。その動きがあまりにも急だったから、私はエーリッヒの膝の上から転げ落ちそうになった。


「ああ! まったく!」


 エーリッヒは顔を歪める。


「こんな時まで僕は美味しい血の魔力に支配されてしまうのか!」


 エーリッヒは硬く拳を握った。


「……ごめん、いきなりあんなことして。さっきのは、首じゃないところからも血を吸いたくなったとか、そういうのじゃなくて……」


「……分かってるわよ」


 慰めるようにエーリッヒの腕を叩いた。


「それに……嬉しかったわ」


 正直に告げると、エーリッヒの肩から力が抜けるのが分かった。


「好きだよ、モニカさん」


 エーリッヒはもう一度キスしようとしてか、私の唇を指で辿り始めた。でも、指先がさっきの傷口に触れると、気が変わったように手を引っ込める。


「決めた」


 口付けてくれなかったことを残念に思っていると、エーリッヒが重々しい表情になった。


「当分君の血は口にしない。僕は食欲に勝ってみせる」

「ええっ!?」


 いきなり何を言い出すんだと、私は目を白黒させる。エーリッヒは「心配しないで。手当ては今まで通り支給するから」と言った。


「そういう問題じゃないわ」


 私は首を振る。


 最初はお金のためにこの屋敷に通っていた。でも今はそれだけじゃない。エーリッヒに会いたいからここにいるんだ。


「好きな人をおやつとしてしか見れないなんて嫌なんだよ」


 困惑する私だったけれど、エーリッヒは頑として譲らない。


「たとえ血を吸えなくても僕にとってモニカさんは特別だって証明したいんだ。君と、何より自分自身にね」


 エーリッヒの瞳には強い決意の光が瞬いている。どうやら止めようとしても無駄のようだ。


 それに……本音を言ってしまえばちょっとときめいていた。好きな人にここまで想われているのに、何も感じないなんて無理な話だ。


 結局私は「頑張って」と言って、彼の意思を尊重することにしたのだった。



 ****



 断食宣言から二週間以上が経った。今日も私は丘の屋敷に来ている。


 彼は決めたことを忠実に守っていた。あれから一度も私の血を吸っていない。


 エーリッヒは約束を果たせて誇らしそうだった。けれど、満たされる心とは裏腹に、体の方はどうも絶好調とは言いがたいようだ。


「ねえ、大丈夫?」


 ぼんやりとした表情を作るエーリッヒに声をかける。すると、彼は私がそこにいることに初めて気付いたような顔になった。


「え……? うん……」


 魂が抜けたみたいな声でエーリッヒが返事する。本当に質問の意味が分かっているのかしら?


 エーリッヒは、私が堂々とため息を吐いても聞こえた様子もない。ただ、焦点の定まらない目で自室の壁を眺めているだけだ。


 元から色白だったけど、最近の彼はことさらに青ざめた顔をしていた。瞳もどこか精彩を欠いていて、オレンジのガラス玉のようだ。


 色々と考えた結果、そうなった原因について私はある推測を立てた。彼の視線の先に回り込む。


「エーリッヒ、最後に血を飲んだのはいつ?」


 前にエーリッヒが言っていた。「血を飲まないと本調子じゃなくなる」と。今の状態がまさにそうだろう。彼はきっと、長い間血を口にしていないに違いなかった。


「ずっと前……」


 エーリッヒの答えは要領を得ない。私は「ダメでしょう」と腰に手を当てる。


「飲まないと元気がなくなるってことは、血はあなたの体に必要なものってことじゃない。違うの?」


 彼にとっての血は嗜好品なんかじゃない。たとえて言うのなら、必須栄養素のようなもの。体のためになくてはならないものだったんだ。


「……分からない。こんなに長いこと、血を飲まなかったのは初めてだから……」


 エーリッヒは首を振る。先ほどよりは頭もスッキリしてきたみたいで、声に覇気が戻っていた。


「もしかして、私の血以外も飲んでないの?」

本物・・を知ってしまった後じゃ、他の血なんか泥水だよ」


 エーリッヒは顔をしかめる。


「君の血が美味しすぎるのがいけないんだ。濃厚で舌に絡みつくような甘さ。ふくよかな香り。爽やかな後味……。どれをとっても一級品だ。本当に、本当に……」


 エーリッヒは小さく呻く。


「ダメだ……また食欲が……。……モニカさん、悪いけど今日はもう帰ってくれ。僕は少し眠って、誘惑を断ち切るから……」


 エーリッヒは寝室へ引っ込んでしまう。けれど、「分かったわ」なんて素直に言えるわけもなかった。


 このままじゃ何の解決にもならない。ちょっとでいいから血を飲んでもらわないと、ずっとこの状態だろう。


 どうしたものかと悩んでいると、机に置かれたペーパーナイフが目に留まる。何とはなしにそれを手に取ってみた。


 エーリッヒが血を吸わなくなってしまったのは、私への愛情を証明するためだ。


 けれど、そのせいでエーリッヒが不調になってしまうんじゃ意味がない。私だってエーリッヒが好きなんだ。だったら、彼のために何かしないと。


 私はペーパーナイフの先端を指先に押し当てる。わずかな痛みの後には、ほんの小さな血だまりができていた。


「……よし」


 大したものじゃないけど、ないよりはマシだろう。これを含めば元気を取り戻してくれるかもしれないと希望を抱きつつ、私は寝室のドアをノックした。


 しかし、返事はない。少し迷ったけれど、勝手に入室することにした。あんまりのんびりしていると傷口が塞がってしまう。


 天蓋のついたベッドの端に近寄った。毛布を被って丸くなっているエーリッヒの体を揺する。


「起きて」


 エーリッヒが軽く身じろぎする。私はもう一度、「起きてってば!」と言った。


「ほら、あなたの好きな美味しい血よ? 早くしないと飲めなくなっちゃうわよ?」


 私は傷を負った指を軽く振ってみせる。エーリッヒが「血……?」と囁くように言った。


「血……」


 エーリッヒがベッドから這い出してきた。どうやら上手く釣り出せたようだ。


「さあ、遠慮しないで……」


 なおもエーリッヒを煽ろうとしたけれど、言葉を切る。


 何だか様子が変だ。


 瞳には輝きが戻っているものの、そこにいつもの慈愛は感じられない。それどころか、ギラギラ光ってまるで獣みたいだ。


 蒼白い頬に赤みが差す。その口元が残忍に歪んだ。私が後ずさりしようとした瞬間に、彼はこちらへと飛びかかってきた。


「い、嫌っ!」


 捕食者に遭遇した草食動物のような感覚に襲われ、私は戦慄した。大口を開けて牙を覗かせるエーリッヒから、身をよじって必死で逃げようとする。


「エーリッヒ! しっかりして、エーリッヒ!」


 私の抵抗でバランスを崩したエーリッヒは、ベッドの反対側へと姿を消した。けれど、すぐに幽霊のような動きで立ち上がる。私は足をガクガクさせながら、急いで距離を取ろうとした。


「モニカさん……」


 しかし、聞こえてきた弱々しい声に、恐怖は溶けるように消え去る。結んでいた髪が解け、服をしわくちゃにしたエーリッヒは、惨めな表情になっていた。


「僕は……なんてことを……」


 エーリッヒは口元に手を当て、ドアの外へと駆け出していった。


「エーリッヒ!」


 呼び止めようとしたけれど、すでに彼の姿は見えなくなっている。私はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。


 あれは一体何だったんだろう?


 あのまま食べられてしまうかと思った。狂気じみた表情と鋭く尖った牙。震えが込み上げてきて、私は自分自身を抱きしめた。


「エーリッヒは……私の血が欲しかったのね……」


 彼から感じられるのは飢えだった。それを抑える方法は一つだけ。血を吸うことだ。


「……私のバカ」


 今頃になって、後悔に苛まれた。


 吸血なんていつもされているのに。それなのに、ちょっとエーリッヒの様子がおかしかったからって不必要に怯えてしまった。まるで彼を化け物みたいに扱ってしまったんだ。


――あなたは普通の人間よ。


 このままではあの言葉が嘘になってしまう。


 私はペーパーナイフを掴むと、部屋を飛び出した。


 今のエーリッヒに血を与えれば、最後の一口まで飲み干されてしまうかもしれない。


 でも、このまま放っておく気にはなれなかった。元々、私は血を与えるという契約で雇われたんだ。だったら、務めは果たさないといけない。


 それに、好きな人が苦しんでいるのに何もしないなんて、私にはできそうもなかったんだ。



 ****



 エーリッヒは庭の噴水の縁に座り込んでいた。この世の終わりみたいにうなだれている。


 私の気配に気付くと、彼は恐れをなしたように立ち上がった。呼吸を乱しながら「来ちゃダメだ!」と必死の形相になる。


「大丈夫よ、エーリッヒ」


 取り乱すエーリッヒとは対照的に、覚悟を決めていた私は冷静だった。素早くペーパーナイフを振り上げる。


「私の血を飲んで」


 剥き出しの腕を伸ばし、そこに切っ先を突き立てようとした。こちらの意図を察したエーリッヒが飛びついてくる。


「モニカさん! こんなこと止めてくれ! お願いだから……!」


 エーリッヒは懇願しながらペーパーナイフをもぎ取ろうとする。その拍子に、刃先が私の頬をかすめた。


 ピリッとした痛みを感じる。エーリッヒが動きを止め、その手から刃物が滑り落ちた。


「……エーリッヒ」


 呼びかけが聞こえていたのかは分からない。彼は私の顎を持ち上げると、催眠術にでもかかったようなぼうっとした仕草で、出来たばかりの小さな傷に舌を這わせ始めた。


 しかし、そこから漏れ出すわずかな血では、彼の飢えを癒やすことはできなかったようだ。


 エーリッヒは牙を剥くと、私の首筋に躊躇なく噛みついた。


 久しぶりに訪れた、目眩がするほどの快感。立っていられなくなり、芝生に倒れ込む。


 覆い被さってくるエーリッヒの背を、私は両腕で包み込んだ


 この体の中に、私の血が取り込まれている。


 かつて私の一部だったものが、彼の血肉に変わっていく。大切な人の中に自分が息づくのを感じる。別々のものが混ざり合って一つになる。


 吸血の時に生まれる幸福感は、きっとこういうことだったんだろう。


 私はうっすら微笑んだ。


「美味しい? エーリッヒ……」


 段々と意識が薄れていく中、私は尋ねた。体に力が入らず、話し方もひどくのろのろとしたものになってしまう。


「あなたって……本当に私の血が好きよね……。でも……」

「……でも、君自身の方がもっと好きだよ」


 夢の中を漂うような心地になっていた私は、不意に覚醒した。オレンジの瞳を潤ませるエーリッヒと目が合う。


「何考えてるんだ!」


 エーリッヒは私をきつく抱きしめ、涙声を出した。


「僕が途中で正気に戻ったからよかったようなものの、下手したら……!」

「ごめんなさい……」


 私はエーリッヒの腕をポンポンと叩いた。エーリッヒは「ごめんじゃない!」とヒステリックに叫ぶ。


 半狂乱になる彼を、私はどうにかなだめすかす。いつものように膝に座らせてもらいながら、もう一度「ごめんなさいね」と言った。


「もっと他にやりようがあったのは分かってるわ。色んな人から血を分けてもらって、それが充分な量になったところであなたに飲ませるとかね」


「だったらどうして……」


「だって、エーリッヒがおかしくなったのは元はと言えば私が原因でしょう? だったら、私がどうにかしないといけないじゃない。それに……」


 私はエーリッヒの銀髪を撫でる。


「私以外の血を飲ませるの、ちょっと嫌だったの。あなたの健やかさの源が血液なら、それは私のものがよかったのよ」


「……献身かと思ったら、独占欲と庇護欲だったわけか」


 エーリッヒは呆れた顔を作ろうとしたようだ。けれど、その直前に浮かんだ満足げな表情を私は見逃さなかった。


「僕が怖くなかったのか?」

「ええ、平気よ」


 私はしっかりと頷き、彼と息も触れ合う距離から見つめ合った。


 エーリッヒがさらに近づいてきて、私に口付ける。


 けれど物慣れないせいか、またしても彼は私の唇に傷をつけてしまった。前と同じてつは踏みたくなかったのか、エーリッヒは慌てて顔を離す。


 その様子を見て、私はイタズラっぽく笑った。


「飲んでもいいのよ? この程度のことで、あなたの愛を疑ったりするわけないでしょう?」


 完全に降伏だと言わんばかりに、エーリッヒも口角を上げた。


「僕の胃袋も心も、もうモニカさんのものだね」


 そう言って、エーリッヒはついたばかりの私の傷口の上に、そっとキスを落とした。

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― 新着の感想 ―
[一言]  胃袋を掴むのが、男をおとす攻略法とはいいますが(笑)  吸血鬼は、獲物の女性を魅了するものですが、逆に魅了されにゃってますね。  それも善き♡
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