1話 キミヲオクル(前)
──山が動いた。
『それ』を見た猟師はそう思った。不意に空気を震わせた木々のざわめく音の方角に目を凝らすと山の輪郭がぐにゃりと波打ったのだ。猟師歴20年のそのベテランは自身の経験から大規模な土砂崩れが発生したのだと推測した。雨のよく降るこの季節、それはさほど珍しいモノでは無い。そう安堵した束の間、猟師の目に信じられない光景が写った。沈下した山が再び隆起したのだ。しかもそれだけでは終わらない。まるで一人の巨人が木々をかき分け前進するかのようにして山の一部がこちらに向かってきたのだ。
──尋常ではない量の殺気を乗せて。
死の権化と例えられる死神にでも出会ったかのような得もいえぬ恐怖に駆られた猟師は一目散にその場から逃げ出した。その場にとどまれば自分がどうなってしまうかを容易に想像できてしまう。
慄然する間も無い、がむしゃらに救いの無い森の中を走り続ける間、猟師はただ自身の命が助かることを祈り続ける他なかった。
紺青の空の下、鋭い打撃音が鳴り響いた。手に握る木刀から相手の骨が軽くきしむ振動が伝わってくる。どうやら勝敗が決まったようだ。
脇腹に木刀の一振りをもらったルルクは地面に倒れ込み痛む脇腹を押さえ転げ回った。
「いっってぇえ~~!! うおぉぉぉぉぉぉっ……! これ骨ひびはいってね!? 大丈夫師匠? 俺の身体大丈夫!?」
…………やっべ。ルルクの師匠を担うアランの頬に一粒の汗が流れる。
ルルクがアランから師事を受けるようになってから6年という月日が経つ。二人の力量は雲泥の差とまではいかないがまだまだ大きい。よって木剣を用いた稽古はアランが数段手加減しルルクにバランスを合わせることが二人の間での約束だ。
だが最後の一振りは実際かなり本気の一太刀になってしまった。
「大袈裟な。手加減したから大丈夫だよ」
嘘だ。よくルルクの身体が持ってくれたと内心安堵している自分がいる。
最後にボソッと「たぶん」と口から漏れた己の確証の無さをルルクは聞き逃さなかった。
「『たぶん』!? 『たぶん』って言いやがったなっ!? ……おい! 目逸らしてんじゃねぇよ!」
どこか気まずそうに遠くを見つめるアラン。稽古の間は後ろに縛ってある彼女のポニーテールが申し訳なさそうに揺れている。今日の稽古はかなり熱が入った激闘であったこともあり勢い余って力加減を誤ったらしい。今すぐにでも奇襲を仕掛けてやりたいところだが脇腹の痛みはまだとれそうにない。さて、どうしてくれようか?
罠に掛かり己の死期を悟った獣が向けるようなこちらを威圧してくる眼光にいたたまれなくなったアランは弁解にかかる。このままでは何をされるか分かったもんじゃない。
「ま、まぁ……私がこれ程本気になったってことはそれだけルルクの実力が上がったって証拠じゃん。 要するに夢の『最強』にまた一歩近づいたってこと。 だから……そんな怖い目は止めて? おねえさん怖いから。 ね?」
「……ほんとに剣の腕が上がったんならそれは素直に嬉しいけど、なんか上手く話の本筋を逸らそうとしているような気が……?」
「そっ、そんなことないよ! 師匠の言うことは絶対。これ常識」
どこかばつの悪い顔をしたお師匠ことアランはいまだ患部を押さえ地面にうつ伏せ状態のままのルルクを起き上らせる。そして「きっと当たり所が悪かっただけだよ」と言いながらルルクの腕を自信の首に回し支える。
自宅に帰還するまで肩を貸してくれるようだ。だがそんなことではごまかされない。すぐ横でうるさく吠え続けるルルクの罵声に暫時無視し続けるアランだったが何を思いついたのかルルクの顔を覗き込み、悪人面で挑発するかのようにこう言った。
「そう。じゃあ、そんなに納得いかないならこのままもう一戦交えてもいいけど?」
脳内翻訳。『鳴き止まねば殺すぞ?』以上。本当にありがとうございました。
沈黙を以て応える。それだけは勘弁と。
ルルクの降参したと言いたげな表情にアランは満足気に頷く。聞き分けの良い子だと。
恫喝という名の暴力で他者を捻じ伏せる、そんな汚い大人にだけはなるまいとこの日ルルクは人知れず誓った。
「それにしてももう、6年か……」自宅までの道中、不意に郷愁を誘うような口調でアランが呟いた。
アランは6年前のあの日の出来事を想起する。
16歳のアランはその日、このシルカ村の村長オンミルに呼ばれ一人の少年に引き合わされた。初めて見る子だった。オーバーサイズの黒いローブを羽織る自分よりもかなり年下の華奢な体軀の男の子。黒鉄色の荒い髪に目尻が若干つり上がった、髪と同色の双眸。獣の犬歯のような八重歯。
まるで獣のようだ。昔、父が山から捕ってきた山犬の子の姿が頭に浮かぶ。緊張で身体をこわばらせ、絶えず周囲を警戒する姿はまさに獣の子だ。
オンミル村長から事情を聞くとその子は母親を失ったらしく居場所の無い彼をその母親と知り合いだったオンミル村長が引き取ったのだという。母親を失い更に知らない場所に一人連れて来られたこの10歳の子供をアランは気の毒に思った。この子に自分は何かできないか。どうすればこの子を安心されられるのか。相手を警戒させることの無いようそっと歩み寄ったアランは微笑を浮かべながら優しい手つきで手を差し伸べた。
────私の名前はアラン。君の名前は?
「どうしたんです師匠? 20歳という人生最盛期の一山を超えるとやっぱり時間の流れが早く感じるもんなんですか?」
懐かしい過去の回想から引き戻される。隣で無防備に体を預けてくる弟子の体温が伝わってくる。吹けば飛んでいきそうな華奢な身体はどこへ、年相応のがっちりとした身体になった弟子の体重が重い。ほんとに時間の流れとは早いものだ…………いや待て待て、こいつ今なんて言いやがった?
「22歳はまだまだ現役だよなぁ? なぁ?」アランのこめかみに青筋が立つ。
これはまずい。さっきの仕返しのつもりが。アランの全身からどす黒い殺気がこぼれだす。以前村長から成人後の女性は年齢に敏感な生き物だと教わったが、なるほどその通りだとルルクは自身の身をもって理解する。急速な弁解が求められる。さもなくば命の保障は無い。
「大丈夫ですよ師匠。6年経っても師匠(の胸のサイズ)は何も変わってませんよ」
「………今、『師匠』と『は』の間に不要な間を感じたんだが」
「滅相もございません」
「……まぁ、いいだろう。まったく。そういうルルクは随分と(憎たらしく生意気なガキに)変わったな」
「今明らかに故意の間がありましたよね?」
「ちょっと息が詰まっただけだ」
「…………」
「…………」
この6年、二人は伊達に師弟関係を続けてきたわけではない。お互いの性格は熟知している。今更相手の考えを読むなんて造作も無い。
「あー。そーでしたかー。6年前だと俺が10歳で貧乳師匠が16歳でしたか……えっ? てことは俺、いつの間にあの頃の貧乳師匠と同じ歳に?」
「今気づいたのかこのアホ弟子が。アホだアホだと思っていたがここまで頭の回らんアホだったとはな」
「…………」
「…………」
脳内で大量に分泌されたアドレナリンは痛覚を麻痺させるらしい。脇腹の痛みがすぅと消えていくのが分かる。よし、これなら動けそうだ。アランの肩に回した腕を振りほどいたルルクは、怒りの対象に身構える。木剣は手にしない。
「貧乳師匠、やっぱりもう一戦やりません? できれば今度は拳で」
「いいだろうこのアホ弟子が。さぁかかってこい。師匠の偉大さを教えてやる」
虎視眈々と狙いを定めた獲物に跳びかかる獣のごとくルルクはアランに襲いかかった。
シルカ村という名称はこの村の特産品であるシルカ木が名前の由来となっている。耐水性が高く劣化しにくい耐久力を誇るシルカ木材は調度品は勿論、シルカ村ではその多くが建築材料に採用される。
春先の暖かい春風に運ばれる天然の芳香剤が鼻腔をくすぐる。
都会の喧騒から離れた閑静な町並みが心地良い。のどかな町並みの風景を楽しみながら歩くこと数分、オンミルの家に着いたソードは戸口に設けられたベルを指で軽く弾いた。チリィィンと涼しげな音色に癒やされる。
程なくして家の中から「入れ」とだけ返答があった。
「失礼します」
玄関扉をくぐってすぐ左の応接間に人の気配を感じる。オンミルはそこにいた。
座卓の前で鎮座する気品溢れる老人。後頭部で束ねられた白髪と黒を基調とした着物がコントラストに引き立っている。
「久しいなソード」
「ご無沙汰しておりました」
「そんなに畏まる必要はない」
オンミルの家に着いたルルクは「お邪魔します」とだけ言ってそのまま客間へと上がり込んだ。
案の定オンミルはそこにいた。だがオンミルの他にも来客がいるのが目に入った。女の人だ。
潤沢を帯びた金髪に翡翠色の双眸。整った顔立ち。軽装の鎧からすらっと伸びる手足。その容姿を一目見た瞬間純粋に綺麗な女性だとルルクは思った。いや、おそらく一切の誇張なくその女性はルルクが今まで目にした最も綺麗な女性だった。
少しの沈黙の後、どう切り出そうかルルクが迷っていると女性が立ち上がりルルクに歩み寄って来た。
「久しぶりですねルルク君」
そう言って屈託無い笑顔で握手を求めてくるその女性を見ながらルルクは困惑した。
「ヒサシブリ? えーと、初めましてじゃなくてですか?」
腰に帯びた刀が目に入る。それも村の人たちが使用する錆びた古モノじゃない。この容姿と身に付ける逸品から身分の高い人であるのは間違いなさそうだ。そう推測したルルクはとりあえず失礼のない言葉遣いに変える。
ルルクの返しが意外だったのだろう。その女性は困ったような、また少し悲しそうな顔をしながらこう言った。
「私、君のいとこなんだけどな……もしかして忘れちゃったかな」
いとこ……いとこ……。その言葉を頭の中で反芻する。するとルルクの頭の中に遠い昔の記憶が蘇って来た。
「あっ! もしかしてソードねえちゃん!? え? マジで?! すげえ美人さんになってんじゃん」
お世辞でもありがとうございますと照れながら頬を掻くその姿はルルクが小さい頃によく見た光景だった。
彼女の名前はマーダレット・ソード。ルルクより6つ上だから今年で22歳のはずだ。7歳だった頃病弱だった母が病死しこの村の村長、オンミルに引き取られるまでよく一緒に遊んだ記憶がルルクにはあった。すむ地域が離れて以降ソードとは会うことも無ければ一度も連絡を取らないまま今に至る。
終始静かに二人を見守っていたオンミルが口を開いた。
「積もる話もあるだろうが……そいつは、これから話す案件の後でええかの?」
「っ! これは失礼しました。ルルク、話は後で」
「りょ、了解。じいちゃんもごめん」
先程とは空気を一変するソードの態度に思わず気押される。元々堅物なオンミルも今日は一段と硬い表情だ。二人はオンミルの正面に正座した。
「それで案件とは」ソードが催促する。
「うむ……話さねばならぬことは2つ。1つはルルク、お前……王都の学校に行ってみたいと思わんか」
「え……」
「お前が王都の生活に憧れていることは知っている。ならばそれが叶うよう務めるのが保護者というものだ」
「じいちゃん……」
オンミルの優しさと慈愛にルルクは胸がぐっとくる。そうだ。確かにこの人は自分に厳しかったがそれ以上に自分のことを気にかけてくれているのだ。
そう言いながらオンミルは懐から一枚の用紙を取り出す。紙には文字がびっしりと書かれている。
「だが……お前の素行はあまり褒められるじゃ無い。喧嘩早くがさつで傲慢。おまけに頭も悪い」
おい。ツンデレかよこのじじい。上げてから落とすとはなんという荒技を。
隣村のシン村の住民が山で巨大な魔物を見たと。目撃談より推測するにおそらく魔精霊種の1つ、暴喰木だろう」
「ほぅ……それはなかなか……」
ボウショクギ? 聞き慣れない名前だが、ソードの相槌から察するにその魔物はかなりのものなのか。
「それを討伐するのが私の役目ですか」
ソードの確認にその通りだとオンミルは頷き、知識の足りていないルルクの為に説明を足していく。
「暴喰木とはその名が示すように手当たり次第全てのモノを喰らう。山に自生する植物を、そこで暮らす獣を、そしてそれらを狩る人間をもだ。その獰猛さそして並外れた巨体に生命力……まず間違いなくこの村の男が束になっても敵うものでは無い」
「なっ?! 敵わないってそれ、俺もなのかよじいちゃん!!」
オンミルの口から出た思いがけない言葉に思わずルルクは強い口調で聞き返した。
「ああ……その通りだ。お前じゃ絶対に敵わん」
────っ!
両手を胸の前で組み礼儀正しく頭を垂れるソードに対し、上級民の作法なんて一かじりもしたことの無いルルクの挨拶はぎこちないものになってしまう。なるべく無礼なまねはしたくない。
「」
全くもって理解不能。
困ったように人差し指を頬に当て首を傾げるマーダレット・ソードさん。その表情を見ながらそれはこっちの