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2話 見習いの少年と殺人事件と無双する殺し屋(2)

お久しぶりです。本業と同時並行なので本当にゴミ投稿頻度。でもやりたいことやれて楽しいな。

翌朝早く、ノアは階下で大勢が慌ただしく動き回る足音と切迫した話し声で目を覚ました。覚醒しきっていない頭では昨日の出来事がすぐに思い出せず、冷たい空気に身を震わせて再び毛布に包まろうとしたところで、ドアが勢いよく開いてシルヴェスターが飛び込んできた。

「ノア!起きなさい、大変なことになった」

滅多に聞けないシルヴェスターの大声で、やっとノアの頭が覚醒する。それと同時に昨日の出来事がフラッシュバックした。シルヴェスターはノアに急いで着替えるよう促しながら早口で事情を説明する。

「デレクが死んだそうだ。突然のことで私も何がなんだか分かっていないんだが…連合に呼び出されて、今すぐ出なきゃならない。ノア、お前は家にいてくれ」

それだけ言い終えてすぐに部屋を出て行こうとするシルヴェスターをノアは慌てて引き留めた。

「何だ?詳しいことなら後に———」

「っと、父さん、俺も行く」

「…だめだ、家にいなさい」

商会連合の会議に行けば『オットー様』に繋がる情報が得られるかもしれない。そう思って捻りだした嘆願はあっさりと切り捨てられた。

「デレクが誰に、なぜ殺されたかもまだ分かっていないのに、こんな時にお前を外に出すわけにはいかない。…カミラとルシアを頼むよ」

シルヴェスターはノアの肩を宥めるように叩いて出て行ってしまった。ノアは憮然としたまま着替えて階下に降りていく。ノアを起こした喧噪は去り、そこには不安そうな面持ちの母がひとりで待っていた。

「おはよう、ノア」

カミラはノアに駆け寄るなり、彼女といくらも背丈の変わらない息子を抱きすくめた。

「ああ、本当にあなたが帰って来てくれてよかった…!」

ノアは心臓が一瞬爆発したかのように思われた。よく考えて見ればカミラが昨晩のことなど知る由もないのに、思ったよりもノアは臆病で心配性なのかもしれなかった。シルヴェスターとカミラに知らされたのは、デレクが昨晩殺されたということ、それから愛息子が昨晩遅くまで外出していたこと、ただそれだけだった。それだけだったが、ノアの心配性の遺伝元であろう母にとっては、起こりかねなかった最悪の事態を想像する材料としては充分すぎたようだった。ノアは母の背を安心させるように擦る。

「父さんはいつ頃帰ってくるのかな」

「分からないわ。緊急の呼び出しだったから…ああ、ノア、あなた、迎えに行くなんて言わないでちょうだい」

「言わないよ、父さんに母さんとルシアを守れって頼まれたから、家にいる」

カミラは心底ほっとしたようだった。結局その日シルヴェスターが帰宅したのは日が暮れて暫く経ってからで、一日中じりじりと新たな情報を待ちわびていたノアは、しかし、げっそりして朝よりもひと回り小さくなったようにも見える父に何も尋ねることなどできなかった。父はノアの顔を見るなり、その朝のカミラのようにノアをぎゅっと抱き締めた。

「…父さん?」

カミラのそれにはもう慣れたものだったが、触れたとて頭程度の父の突然の抱擁にノアは不自然ささえ覚えた。

「ノア、昨日はあの路地を通ったか?」

「……え?」

「どうなんだ、通ったのか?」

「と、通って…ない」

ノアの目が泳ぐ。嘘を吐いているかはどうあれ、真実を言っていないことはシルヴェスターには一目瞭然だっただろう。しかし、父は少し上がった口角の隙間から、分かった、と呟いて寝室へ消えてしまった。

翌朝もその次の朝も、ノアが起きるとシルヴェスターはいなかった。コールマン商会の次に大きいと言われていたガーランド商会が主を失ったことでミネルバの商業界は大きく揺らいでいた。内情を知りたくてたまらないノアの苛立ちは日に日に募っていき、シルヴェスターの心労もまた蓄積されていくようだった。


デレクが殺されてから一週間が経ったころ、シルヴェスターはノアを商会連合に連れて行った。突然のことでノアも父の真意が掴み切れないまま、怖さ半分興味半分、シルヴェスターの後をついて豪奢な商会会議所の門をくぐった。

シルヴェスターの真意云々はさておき、ノアが商会連合に連れてこられた理由はすぐに分かった。会議所の中には、ミネルバ中の商人とその跡継ぎがコールマン家の到着を今か今かと待ちかねていたのだ。シルヴェスターら商会連合員は、この事態を跡継ぎにだけは知らせておかねばならないと判断したらしく、そこからデレクの身に起きた悲劇について、子細に入り説明がなされた。跡継ぎたちの多くは語られる内容に目を剥き、驚きを隠せないようだった。ノアは言うなれば第一発見者になり損ねた人物で、語られる内容以上のことまで頭に入っていたのだが、目立ってはならないという直感に従い周囲の跡継ぎたちと変わらない表情を作ってみせていた。目の周りの筋肉がSOSサインを出し始めたあたりで、ノアは眉間を抑えて小さく唸った。凝り固まった首を動かすと乾いた音が鳴る。跡継ぎたちへの情報伝達はそれからいくらか、ノアにとっては永遠にも思われるような時間をかけて終わった。

正午を過ぎた頃、連合の集会は解散し、それぞれが帰途につこうとしていた。ミネルバ最大手との呼び声高いコールマン商会の主のもとには、それでも多くの人間が話をしようと群がってくる。彼らが持ちかける話題は、デレクが死んだことには関係のないものが半分ほど含まれていた。ひとつひとつ話を聞くシルヴェスターの懐の深さに感心しつつ、ノアは話し掛けてくる人物の顔と名前、話題を脳内でまとめあげていく。ノアにとっては情報を仕入れるまたとない機会だった。きょろきょろとシルヴェスターの周囲をかこむ顔ぶれを眺めていると、視界の端を知った顔が掠めた気がした。全身の血管が縮み、血流が早くなる。どくどくと脈打つ心臓に周りの音が掻き消される。顔こそ知らない人間のものだったが、纏う雰囲気は変わらない。一週間前、デレク・ガーランドを殺した男———『ゴルゴン』が、ノアを見ていた。

トイレに行ってくる、先には帰らないから、と父に耳打ちしたノアは男に向かって一直線に歩む。男は、シルヴェスターから大分離れた壁に寄り掛かっていたが、ノアの真意を汲み取ったのか手洗いの方に誘導するように歩き出した。

人気の無い会議所の冷たい廊下で、ノアは前を歩く背中に問うた。

「何しに来たの、殺し屋さん」

歩みを止めずに彼は笑った。

「殺し屋さん?何のことでしょう」

「分かるよ、ゴルゴン。顔変えたって、歩き方や癖、雰囲気も一緒だ」

男はぴたりと止まった。肩が細かく震えている。

「敵わねえなあ」

男はノアに向き直る。顔の傷は消え、骨格さえも変わって、柔和な笑みを浮かべた人の好さそうな青年は、一週間ぶりだな、と微笑んだ。


「———何でここに?もうそっちの目的は達成されたんじゃないの?」

「まあ、興味ってものがあるだろ、人間には」

ゴルゴンとノアは小さな会議室の椅子に腰掛けて話していた。殺人鬼と同じ空間にいるという事実はノアの思考を邪魔しなかった。ゴルゴンは至って普通の若者のようだった。

「おっと、依頼主が誰かとかそういう質問は受け付けないぜ。仕事にならん」

ノアが尚も口を開こうとしているのを見て、ゴルゴンは先回りするようにノアを制した。ノアも負けずに畳みかける。

「ねえ、ゴルゴンとか殺し屋さんなんて呼ぶの物騒だから、何か他にいい呼び方ない?」

「懲りねえなあ」

カカカ、と高笑いしたゴルゴンは、ノアの目をじっと見つめた。色素の薄い瞳の奥に糸を引いて絡みつくような闇が垣間見えて、思わずノアは目を逸らした。

「メルヴィンだ。姓は無い」

「えっ」

突然の告白にノアの思考は真っ白になる。はち切れそうなほどの思考で渦巻いていたのが嘘のようだ。

「本名…じゃないよね」

「好きに捉えてくれていい。ただ、俺はお前を面白いやつだと思っている」

イエスともノーとも取れない返事に、ノアはぐるると喉を鳴らした。

「それで?コールマンの坊ちゃん。何でここにいるんだ」

「…兄さんのことなら俺に聞いても無駄だよ、俺もよく分かってない。それから」

ノアは米神に人差し指を当ててぐりぐりと皮膚を捏ね繰り回した。考え事に集中しなおしたい時の癖だった。

「俺はアレン。アレン・コールマン。…本名だよ」

「知ってるよ、ノア坊ちゃん」

「よくご存知で」

ノアはゴルゴン——メルヴィンに名前を知られていることを知っていた。そして恐らくメルヴィンもノアに気付かれていることを知っていた。そのメルヴィンが自分の握っている情報をいかに開示するのかに興味があった。ふたりの間では言外のやり取りが繰り返され、その度にノアは息さえも無駄に思われるほどに脳を酷使していた。

「そっちこそ…メルヴィンこそ、どうしてここにいるのさ」

「さっき言っただろ、好奇心に耐えかねたんだよ」

「嘘つけ、もう別の依頼でしょ」

「さあな」

ノアはまるで軽い布切れ相手に格闘しているような気分になった。目と耳を酷使してメルヴィンの一挙手一投足、どんな動きや乱れも逃すまいと前神経を集中させるノアのことなど意にも介していない様子で、メルヴィンは気が抜けるほどに飄々としていた。

「ノア坊ちゃん、何だってそんなに力んでんだ。お前が殺されるわけでもないだろうに」

心底不思議そうにメルヴィンがノアの顔を覗き込む。ノアはぐっと眉間に皺を寄せた。

「情報がいるんだ。何でも」

「その年でか」

「年齢なんて関係ないだろ」

「長男は」

「…タチ悪いな、ゴルゴンがコールマン商会の内情を知らない訳ないだろ」

メルヴィンは小さく笑って鼻を擦った。

「すまん」

「お詫びはあんたの素顔でいいよ」

「かーっ、強かだなあ」

「…ねえ、メルヴィンはなんでその仕事をしてるの」

ノアが意を決して、しかしそれを感づかれることのないように切り出すと、それまでメルヴィンが表面的であれ纏っていた人慣れた雰囲気が掻き消える。努力するだけ無駄だったか、とノアが半分諦めたところで、メルヴィンが口を開いた。

「それを聞いてどうする?俺の伝記でも書くつもりか」

「『まあ、興味ってもんがあるだろ、人間には』」

ノアはポケットに仕込んでおいた魔導録音機を起動させる。突然流れた自分の声に、メルヴィンは面食らったようだった。ノアはその顔に少しだけ充足感を覚えた。

「タチ悪いのはそっちじゃねえか」

メルヴィンは破顔した。ノアの思い上がりでなければ、メルヴィンは一層ノアを気に入った様だった。それからメルヴィンはノアの質問に少しずつ答えはじめた。メルヴィンに仕事を依頼するのはほとんどが貴族ということ。お抱えの軍人がゴルゴンを探してうろつくようになるのを目印にしていること。大元の貴族の周辺情報を調べてから、ゴルゴンを探す軍人に近づき依頼を受けること。顔を魔術で変えすぎて、元の顔はほとんど忘れてしまったこと。暖簾に腕押し状態だったのが嘘のように、メルヴィンはゴルゴンとしての仕事について話した。その豹変振りに薄ら寒いものを感じたノアは襟元を掻き合わせた。

「どうした」

メルヴィンはノアの微かな怯えを感じ取ったようだった。

「いや…あんまり簡単に話すから、ちょっとびっくりして」

「そうか」

メルヴィンは快活な、それでいてどこか乾いているような笑い声をあげた。

「手に入らないと思っていたものが手に入ると、今度はそれを失うことが怖くなる。全く不器用で愛しいな、人間って奴は」

「俺、あんたに殺されると思ったのかも」

ノアは自分でも驚いて言った。その発言は意図してというよりもつい口を突いて出たような感覚だった。

「俺がベラベラ喋ったからか」

「だっておかしいでしょ。ちょっと会っただけの俺なんかに」

「そんなに大したことは話してない。お前の父親くらいなら知ってると思うが」

ノアの脳裏にムマチョウの一件が蘇った。とっくの昔にムマチョウの存在も、それがエリックを蝕む毒だということも分かっていた父親。ノアは薄い唇を噛んだ。

「なんだ、お前父親と仲悪いのか」

意外そうな口振りでメルヴィンが聞いてきた。

「悪くない。世間一般の親子並みだと思ってるよ」

「へえ。俺にゃその世間一般てのが分からんが、まあ家業が家業だもんな。色々あんだな」

メルヴィンの発言には引っ掛かるものがあった。その身に纏う剣呑な雰囲気のせいか、メルヴィンには家族という言葉が驚くほど似合わない。“親子が分からない”と言うならしっくり来たような気もするのに、この男は今“世間一般が分からない”と言ったのだ。考えもつかないが、この男にも家族と呼べるような存在がいたのだろうか。

「俺は親の顔を知らねえ」

ノアの巡らせた思考を読んだかのように、メルヴィンが話し始める。

「産まれた時に母親は死んだ。父親は何処にいるのかも分からねえ」

「じゃあ、」

誰に育ててもらったの、と続くはずの言葉をノアは呑み込んでしまった。他人の事情に首を突っ込むことにまだ父親ほど慣れることができていなかった。

「変わり者の神父だよ」

「神父?」

「ボロボロの教会にひとりで住んでる、その辺で死んでても誰にも気づかれないような爺だった。そいつに育てられた」

ノアは相槌を打たなかった。相槌を打てるほどの器ではないと感じていた。

「同じ屋根の下に住んじゃいたが、殆ど他人みたいなもんだった。そもそも物心ついてすぐ出自を聞かされたあたり、向こうも家族として接するつもりはなかったんだろうな」

メルヴィンは自嘲気味に笑った。

「それでもまあ、俺をここまで育ててくれた恩人だ。あんなのでも孝行してやりたいと思った」

ノアはメルヴィンの悲しそうとも楽しそうともとれる横顔から目が離せないでいた。感傷に浸っているのか、それとも思い出に身を委ねているのか、分からなかった。

「豪華な食事のひとつでもさせてやろうと思ってな、街に下りて仕事を探した。まあ身元もはっきりしない小汚いガキにできる仕事なんて全くなかったが、それでも漸く荷物運びの仕事が決まって爺の所に戻ったら———死んでた」

ごく、とノアが唾を飲む音がやけに大きく響いた。

「そこら中が血だらけで、獣にしては身体の切り口が綺麗過ぎたから、明らかに頭のおかしい奴の仕業だった」

どこか遠くで雷の鳴るような音がした。それとも本当に鳴っていたのかも知れない。

「弔い合戦なんて柄じゃねえが、それでも誓った」

何を、とは聞く方が野暮だった。ノアには今の彼が酷く哀れに見えた。とても世間を騒がす殺し屋とは思えなかった。

「なぜこの仕事をしてるかと聞いたな」

メルヴィンは首を傾けてノアの方に向けた。その目はノアを見ていなかった。

「あの人を殺した奴を探すためだ」


2人して黙り込んだ部屋には脂汗の出るような沈黙が流れた。ノアは何か言おうとしては口を噤むことを繰り返して、喉も口内も血が出そうに乾ききっていた。

メルヴィンもまた、何も言わなかった。彼に関しては何を言うつもりも無いのかもしれなかった。重苦しい空気にノアが叫び出したくなった時、微かにノアを呼ぶ声が聞こえた。

「呼ばれてるぞ」

声はどうやらシルヴェスターのものらしかった。何度も息子を呼ぶその響きは、どうやら切迫しているように聞こえた。ノアは尚も何を言えばいいのか分からないまま立ち上がった。

「またな」

ノアの背中を追いかけるようにメルヴィンが声を掛ける。

「…また、会ってくれるの」

「お前が気に入ったって言っただろ。ほれ早く行け、親御さんを心配させるな」

ノアは消え入りそうな声でありがとうと呟いた。もう少しノアが子供なら何も考えずメルヴィンに抱きつきに行っていただろうというくらいには嬉しかった。メルヴィンはそれを分かっているのかいないのか、結局彼の素を見ることは叶わないまま邂逅を終えた。

その会議室から出ると、割とすぐにシルヴェスターは見つかった。視界にノアを認めたシルヴェスターは明らかに安堵の表情を浮かべた。

「こんな所にいたのか、ノア」

「初めて来る所だったから色々見たくなっちゃって。心配かけてごめん」

自分でも驚くほど自然に言い訳が滑り出た。シルヴェスターもどうやらそれを信じたようで、特に何も聞かれることなくふたりは帰路につく。ノアは朝からずっと気になっていたことをシルヴェスターに恐る恐る尋ねた。

「…俺でよかったの?」

何を躊躇っているのか、自分でも分からなかった。それでも数分前に見事な言い訳をしたのが嘘のように、舌の動きが鈍くなっている。しかし流石と言うべきか、たったそれだけの言葉でも父には分かるようだった。

「ああ、ウォルターか。ユピテルは遠いからね、使いは出したし帰っても来るけれど、もう少し先になりそうだったんだ。ウォルターはもう会議所に行ったことがあって、ノアもそろそろ行った方がいいと思っていたこともあったし」

それはどうやら本当のようだった。ミネルバからユピテルまでは、馬車を乗り継いで数日かかる。それに今回の事件は、“表”の跡継ぎのウォルターよりも、“裏”の跡継ぎのノアの方の得意分野だった。会議所にノアを連れて行くのは至極妥当なことのように思われた。


それから、ノアとメルヴィンは度々会うようになった。とは言ってもノアはメルヴィンに近づく手段など何も持ち合わせておらず、専らコールマン商会に客として来たり、夜中にノアの部屋の窓に石を投げつけたりと、まるで密会するカップルのようにメルヴィンが姿を現すのが常になっていった。

ファニング邸への見舞いは、前よりぐんと頻度が減った。というのも、ノアを心配する両親が、ノアひとりでファニング邸へ行くのを許さなかったからだった。シルヴェスターと一緒なら、という条件付きでノアは外出が許されたが、コールマン商会の主がそう頻繁に家を空けるわけにもいかない。ノアが会議所を訪れた3日後に兄ウォルターが帰ってくると、この事態も少しは好転したかと思われたのだが、その矢先に事件は起こった。ミネルバ商会連合の一員、シーモア一家が惨殺されたのだ。シーモア商会の名で主に薬や珍味を取り扱っていた、ミネルバの中でも豪商の一家を襲った悲劇は朝日と同時にミネルバを駆け巡った。住民たちは恐れ慄いたが、商人たちの衝撃と恐れはそれ以上だった。彼らの脳裏には等しくデレク・ガーランドの姿が蘇り、ミネルバの商人たちは次々と家に閉じこもり、扉を堅く閉めてしまった。

その夜のこと。朝から商人たちの家を訪ねて回っていたシルヴェスターが、ひとりの女性を連れて帰って来た。ウォルターが不審そうな顔で誰かと尋ねると、シルヴェスターはシーモア家に仕えていたメイドだと答えた。

「マリアと言うそうだ。口がきけないが、読み書きはできる。住み込みで働いていたが、偶々昨日から実家に帰っていたらしい。シーモアは用心棒としても頼っていたそうで、腕も立つんだよ。シーモア商会の前で茫然と立っていた所に会ったんだ。とりあえず次の住み込み先が見つかるまではうちで雇わせてもらおうかと思って」

マリアと紹介された女はぺこりと頭を下げた。カミラよりも少し低いくらいの背で、赤茶色の髪が印象的だった。マリアは肩に下げていた鞄からノートと鉛筆を出すと、さらさらと何かを書きつけた。

『マリアと申します。突然のことで何もわからなかったところを助けていただきました。こんな時で怪しまれるかもしれませんが、命の恩人とそのご家族のため、精一杯働かせて頂きます』

カミラはどうやらマリアを気に入った様だった。いかにも朴訥な田舎娘という印象だったし、怪しさなど微塵も感じられなかった。それが、逆にノアの不安を駆り立てた。

皆が寝静まった頃、ノアはまだ明かりが灯っていたシルヴェスターの部屋を訪れた。ドアをノックすると、いつも通りの声が帰ってくる。ノアの来訪を予知していたかのようだった。

「来たか、ノア」

ノアはどう話を切り出せばよいか決めかねていた。ここ最近のノアの舌の動きは、まるで鉛を纏ったかのようで、ノア自身それに苛立つこともしばしばだった。

「マリアのことなら心配いらないよ」

ノアが口を『ま』の形に開けたところで、シルヴェスターが遮るように言った。父親には全て分かっていたようだった。

「シーモア家がマリアを雇っていたのは確実だ。私は何度か見たこともある」

用心棒も兼ねていたのは予想外だったがね、とシルヴェスターは薄く笑った。だから心配することはない、彼女は善良な市民だ、と言外に告げているのがありありと伝わった。

「いつから、とかは分かるの?」

ノアは意を決して尋ねた。シルヴェスターが帰って来た時から、ノアの脳内にはひとつの疑念があった。シルヴェスターの瞳が曇っているように感じられたのだ。焦点の定まらない目やぼんやりとした表情は、精神に干渉するタイプの魔術を掛けられた人間によく起こる副作用だった。シルヴェスターのそれは微々たるもので、ノアの見間違いと言ってしまえばそこまでのような僅かな違和感だったのだが、最悪の可能性——マリアがシルヴェスターに何か工作を仕掛けたのではないかというもの——がノアの心をちくちくと刺し続けるのに耐えられなくなっていた。マリアがシルヴェスターに何らかの魔術を仕掛けたとしたら、そしてそれが記憶を改竄するものだったなら、その魔術には真実と違うことを植え付けている以上必ずボロが出る。ノアはそれを見つけ出そうとしていた。

「そうだな…最初に見たのは3年前くらいだったかな。それまでシーモアはメイドを雇っていなかったから、意外に思ったよ」

シルヴェスターはノアの好奇心に応えてくれるつもりのようだった。或いはシルヴェスター自身も好奇心の強い子供時代を過ごしたために、ノアと幼い頃の自分を重ね合わせているのかもしれなかった。いずれにせよ、ノアにとっては好都合といえた。

「喋れないのはどうして?耳は聞こえてたよね」

「ああ、小さい頃に目の前で親が殺されて、ショックで声が出なくなったらしい。読み書きはシーモアの奥方が暇潰しに教えてみたら、かなり呑み込みが早くて、楽しくなってあれやこれやと詰め込んだら全部マスターしてしまったとか」

シルヴェスターはノアが聞いてもいないことまで答えた。ノアはその間じっくりとシルヴェスターの様子を観察していたが、帰って来た時のような瞳の違和感やぼんやりした感じは全く感じられなかった。寧ろいつもよりも活き活きとしているような気さえした。

「じゃあ、腕が立つって言ってたのは?メイドに体を鍛える機会なんて…」

「確か、親がハンターだったって言ってたな。ガンナーだったか。マリア自身もハンターの素質を受け継いで、銃の扱いが上手いらしい。シーモアも何度か助けられたと言ってたよ」

なのに今回は本当に残念なことだった、彼女の落胆振りは見ていられなかった、とシルヴェスターは続けた。

それから二言三言ほどふたりは会話を交わし、ノアはシルヴェスターの部屋を後にした。ベッドに倒れ込んだノアは、そのままの姿勢でしばらく考えに耽った。

(父さんが魔術を掛けられている感じはしなかった…やっぱりあの違和感は見間違いだった?でもだからといってここでマリアを信用するのは短絡的すぎる、俺だけでもずっと見張ってないと…兄さんに言うか?……いや、兄さんはもうすぐ学校に戻らなきゃならない、今言っても無駄だ)

ノアはまんじりともせず朝を迎えた。階下に降りると、マリアとカミラが朝食を用意しているのが見えた。シルヴェスターはそこにいない。どうやら昨日と同じく商家を周りに行ったようだった。

「おはようノア、寝癖が酷いわよ」

カミラは機嫌よく言った。このところ不安そうな表情をすることが多かった母の笑顔に内心ほっとする。

「何かあったの?」

ノアは隣に座るウォルターに尋ねた。ルシアは楽しそうにテーブルクロスの端で遊んでいる。ウォルターはルシアを座らせながら答えた。

「マリアがいい子だって、もう300回くらい言ってる。覚えは早いしよく動くし、相当気に入ったんだろうね」

「そっか、よかった」

ノアの心の内にある疑念は未だ完全に取り払われたわけではなかったが、マリアを心から歓迎するムードに水を差すほど愚かでもなかった。実際働きぶりを見れば、マリアはしっかりした家庭に仕えて経験を積んだ優秀なメイドのように見えた。

そしてマリアがコールマン邸に馴染み始めた頃、ウォルターはユピテルに戻っていった。デレク・ガーランドやシーモア一家の事件があって何かと物騒なミネルバに、学校を休み続けてまで留まる意味は無いと判断したシルヴェスターがそうするように促したのだった。ノアもその意見にはおおむね賛成だった。ファニング邸への見舞いもシーモア一家の件以降ぱったり途絶え、ウォルターもひとりでは外出が出来ない日々が続いていた中、勉強家の兄が特にすることも無く読み終えた本だらけの家に閉じ込められていてはさぞや退屈だろうとノアも兄の身を案じていたのだった。

兄がユピテルに帰って、一段と家の中は静かになった。マリアは喋らない上に、動くときもほとんど音を立てない。机に食器を置くときでさえも、耳を澄ましていなければ分からない程の音しか立てなかった。実際ノアも、気付くと後ろにマリアが立っていたりして心臓が飛び出そうになったことが何度かあった。その度にマリアは申し訳なさそうに頭を下げるのだった。

そんな生活が数日程続いて、シーモア一家を殺害した犯人が見つかったというニュースがミネルバを駆け巡った。あまりに突然のことで、ノアを含め事情通たちは皆耳を疑い、信じようとはしなかった。そもそも情報源もはっきりしていなかったのだ。シルヴェスターはその情報を聞きつけるなり家を飛び出していった。その姿は、ミネルバ商会連合員として、というよりも、情報屋としての本能が勝った結果のように思われた。日付が変わって暫くしたころ、帰って来たシルヴェスターは自室にノアを呼びつけた。

シルヴェスターの聞いてきた所によると、犯人とされるその男は、ミネルバ自警団の詰所前に縛られて転がされていたという。ご丁寧に『私がシーモアを殺しました』という札までつけられて。

「嘘くさ」

ノアは反射的に表情を歪めた。シルヴェスターも苦笑する。

「私もそう思った。しかしシーモアの家に残されていた魔術痕が、彼のものと一致したんだ」

「…ほんとに?」

ノアは目を見開いた。魔術痕とはその名の通り、魔術を使った痕跡のことで、術者によって特色がある、いわば指紋のようなものだった。同じ魔術痕を持つものは存在せず、例え双子であっても区別される。

「誰かが捕まえて、自警団に突き出したって?そんなことする人いるかなあ」

「私もそう思って詰所に行ってきたんだが、彼らはとにかく早く片をつけたいようで」

要するに、シルヴェスターは自警団に門前払いを受けたのだろう。犯人と思わしき人物が現れ、魔術痕も一致した。疑わしい点を注視しなければ、事件が解決したとも言えよう。

「そうだ、ガーランドさんの時のとは?」

「デレクの時には魔術痕は残っていなかった。識別しようがない」

「じゃあ別人…とは言い切れないよね、ガーランドさんを殺した人とシーモアさんを殺した人」

「そうだね」

シルヴェスターはどうやらノアの意見を聞きたかったようだった。余計な口出しはせず、ノアの発現に相槌を打つ程度に抑えている。

「自警団は捜査を打ち切る?」

「そうだね、しばらくはハンターが街の警備にあたるそうだけど、本格的な捜査自体は終えてしまうだろうね」

「…危ないね。もしその人が犯人じゃなかったら、その人を犯人に仕立て上げた人がいるってことになる。このタイミングで身代わりを立てたっていうのは、逃げたいからっていうことも考えられるけど、次のターゲットを油断させるためかもしれない。それでほとぼりが冷めた頃にまた誰かを殺されちゃ堪らない」

シルヴェスターは真剣な面持ちで頷く。

「ガーランドさんの時に魔術痕が残ってなかったのも引っ掛かる。自分の魔術痕は絶対に変えられないけど、消すこともできないはずだ。ガーランドさんが殺されたのは確か建物の間とかだったんでしょ?さすがに声くらいあげるはずだ。それなのに誰にも気づかれなかった。犯人は何か魔術を使ったと考えるのが妥当だよ」

実際、ノアはデレクを殺したメルヴィンが魔術を使う所を見ていたわけなのだが、それを今更ここで言う訳にもいかないので、それとなくぼやかす。シルヴェスターは見たところ気付いていないようだった。

「魔術痕は変えられないが、消すことはできるよ」

ぽつりとシルヴェスターが呟いた。ノアは思わず眉根を寄せる。そんなことはどんな本にも載っていなかった。

「これはあまり知られていないんだが、ごく少数の魔物は魔術痕を持たない、あるいは消すことができると言われている」

ノアの脳裏に『魔物学』の表紙が浮かび、もう少し熟読しておけばよかったと後悔した。

「ごく少数…本当に一握りの、ずば抜けて魔力が強い魔物だ。例えば、吸血鬼や上級悪魔、竜種、それに上位の精霊とか」

シルヴェスターは滔々と語る。例示された魔物はいずれも、一生の間に遭遇することもないような、というか遭遇したらそこで一生が強制終了させられるような伝説級のものばかりだった。

「そういった魔物たちは目視こそされているが、魔術痕はただの一度も観測されたことはないんだ。明らかに魔術を使っている所も確認されているのに」

ということはつまり、とシルヴェスターは続けた。考えられる可能性としては、彼らは魔術痕を消す能力を持っているか、あるいは、魔術痕を残さないような特殊な魔導の回路を持っているかのふたつがある、と。

ノアは内心で首を傾げた。この話をするシルヴェスターの意図が理解できなかった。そんな魔物がデレクを殺したとでも言いたいのか、それとも単に予備知識として語っただけなのか。シルヴェスターは自分に何を伝えようとしているのか。

「…とにかく、まだ軽率に外に出ないようにしなければね」

シルヴェスターは自嘲するように笑った。ノアの心にはその顔がいつまでも引っ掛かっていた。

魔術痕が一致する犯人が見つかったことで、ミネルバの住人の緊張感はやや和らいで、少しずつ活気が出てくるようになった。それでも用心深い商人たちの中にはまだ門戸を固く閉ざしたままの者も多くおり、コールマン商会もその一員だった。店こそ開けるものの、規模は縮小し、閉店時間も早くなった。そんな努力と用心を嘲笑うように、時はただ平和に過ぎていった。


まだ続きます。いつ完結できるかなあ

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