表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

2話 見習いの少年と殺人事件と無双する殺し屋(1)

ノア・コールマン

 コールマン商会会長の次男。ハンター養成所には通っておらず、魔力も非常に少ない。天真爛漫で、趣味は盗み聞き。気配を消すのが上手い。気になったことはとことんつきつめないと気に入らない性格。

エリック・ファニング

 ノアの従兄弟。ハンター養成所ではフィリベール・グランデと同じパーティにいた。ヴェムート・ソルジャー。使用武器は魔導剣(モデル:イフリート)

シルヴェスター・コールマン

 ノアの父で、コールマン商会5代目会長。

デレク・ガーランド

 コールマン商会のライバル、ガーランド商会の会長。気難しい性格。

ウォルター・コールマン

 ノアの兄で、コールマン家長男。

カミラ・コールマン

 ノアの母。

ルシア・コールマン

 ノアの妹で、コールマン家の長女。

エグモント・ファニング

 カミラの兄で、エリックの父。ファニング家当主。


「うわ、寒っ」

—アエネイス歴1665年、北都ミネルバ。ノア・コールマンは窓を開けるなり吹き込んできた冷たい風に思わず首を竦めた。一片の雪がひらひらと風に煽られて落ちてくる。街はすっかり冬の鬱屈とした空気に包まれ、皆死んでしまったかのようだった。分厚い外套まで着込んで雪だるまのようになったノアがリビングへ降りていくと、母親のカミラが笑って迎えた。

「本当にあなたは寒がりね、ノア」

ノアは返事をするように唸ると、背を丸めて暖炉に薪を放り込んだ。

「父さんは?もうすぐ開店だよね」

ノアの父、シルヴェスター・コールマンはコールマン商会の5代目オーナーで、いつもなら着膨れしたノアをカミラの横で微笑みながら眺めているはずなのだが、この日は姿が見えなかった。コールマン商会を開ける朝にシルヴェスターがいないようなことは、ノアの記憶では一度も無かったのだが。すると、テーブルにちょこんと座ってココアを飲んでいた妹のルシアが口を挟んできた。

「さっきね、エグモントおじ様が来たの!それで、父様、おじ様と一緒に行っちゃった」

「伯父さんが?なんで?」

カミラが頬に手を当てて心配そうな表情を見せる。

「分からないけれど、相当取り乱していたわ。私も心配で…とにかく帰りを待っている所なのだけれど」

貴族のファニング家当主でノアの伯父のエグモントは、常に冷静な男だった。彼が落ち着きを失くすのは大抵彼の家族に何かあった時だけで、その事実がいっそうノアの不安を掻き立てた。エグモントの息子、つまりノアの従兄弟のエリックは、ハンターの養成所に入学して好成績を残し、魔力の無いノアにも優しく接してくれる自慢の従兄弟だった。数カ月前、養成所の休暇で帰って来た時には、大貴族グランデ家の嫡男からパーティに誘われたんだとさも嬉しそうに話していた。ハンター養成所はその華々しい業績の裏側に、毎年少なくない数の死傷者が出るという陰鬱な面を隠し持っている。最悪の事態を想像したノアの顔から血の気が引いていき、今にも倒れそうな様子になった。カミラが小さく悲鳴を上げて息子の身体を支えると同時に、コールマン商会のオーナーがようやく暖まったリビングに寒気を連れて飛び込んできた。

「ノア、居るか」

「父さん」

シルヴェスターは見るからに顔色の悪いノアの肩を抱き寄せて、しっかりと目を見据えた。それは、彼が真剣な話を始める前の癖だった。

「起きたばかりの所すまないが、出掛ける準備をしなさい。エリックの所へ行こう」

「か、帰って来たの?エリックが」

「向かいながら話す。とりあえず着替えてきなさい。ああカミラ、店は午後からにする。すぐ戻るから、その間店を頼めるか」

「お店は任せて。…震えてるわ、暖炉に当たって。ルシアは座ってなさい」

ノアは俄かに慌ただしくなったリビングを後にして、ついさっき出て来たばかりの自室に籠った。思考がぐるぐると渦巻いて、それでも少しだけ残った冷静さでゆっくりとコートを着込んでいく。エリックに何かあったということは最早間違いなく、今はただその何かが彼の命に関わるようなことでなければ良いと願うばかりだったのだが、コールマン邸全体に漂う不穏な空気に、ノアの思考は自然と良くない方へ傾いて行ってしまう。ノアは元々色白の顔を不安と恐怖でさらに青白く染めて、父の許へ急いだ。

「父さん」

「ああノア、準備ができたか。急がせてすまないね」

「ノア、顔色が悪いわ。これを持っていきなさい」

ふらふらと覚束ない足取りで歩くノアを心配したカミラは、炎水晶をコートのポケットに入れた。イフランカーを造る技術を応用させて、炎の欠片を特殊な魔石に閉じ込めた炎水晶は、丁度今日のように寒い日に重宝される魔道具で、ノアのポケットに入れられた炎水晶も、役目を違えることなくノアの身体を徐々に温めて緊張を解していく。

「ノア兄様、だいじょうぶ?」

ルシアが心底心配そうにノアの顔を覗き込んで来る。幼い妹の心痛の種になってやるわけにはいかないと、ノアは無理に笑ってルシアの頭を撫でた。

ぴん、と伸びたシルヴェスターの背を追って、ファニングの屋敷に向かう。今まで何度も通った石畳が、ノアには心なしかいつもより硬く、冷たく見えた。コールマン商会からファニング家の屋敷まではどんなにゆっくり歩いても半刻もかからない。心の準備をするには、あまりにも短すぎる距離だった。屋敷に着くと、ドアノッカーを握る父の横でノアは思わず背を丸めた。心臓が気味の悪いリズムで拍動しているのが気持ち悪くて、俄かに吐き気を催していた。シルヴェスターは息子の異変に気付くや、慌ててノアの背を摩る。

「すまないノア、無理をさせた」

従兄弟の身に迫る危険とノア自信の不安で、胃がぎゅっとねじり上がる。外気の寒さとは異質の冷たいものが、太ももから腹をいやに冷やした。

暫くして大きな扉から現れたエグモントは、ノアを見ると少し口角を上げてありがとうと呟いた。肩で乱れるプラチナブロンドの髪に彼の憔悴を見て取ったノアは、半ば無意識に背筋を伸ばして笑顔を作る。

「っ、お久し振りです、伯父さん。エリックは部屋に?」

「…ああ、行ってやってくれ」

エグモントとシルヴェスターをホールに残して、ノアはひとり勝手知ったるエリックの部屋に向かった。数分前の気丈さは何処へやら、ノアの心臓はまた不気味に響き、鳩尾が締め付けられるように冷えて、視界がぐにゃりと歪んだ。階段の軋みもドアが開く音も、耳栓を通したようにくぐもって聞こえた。何度深呼吸をしても息は整わず、手の震えも治まらない。ほとんど倒れそうになりながら、ノアはエリックの部屋に入った。ファニング家の一人息子のために誂えられた豪奢なベッドに、ひとりの少年が座っていた。

「…エリッ、ク」

ノアの口から漏れ出た声は、声と言うより言葉をのせた息に近かった。

「エリック」

少年は振り向かない。ノアは倒れるようにして一歩踏み出した。

「エリック」

尚も振り向かない少年の顔を窺える位置まで足を縺れさせながら駆け寄ったノアは、そこで従兄弟の眼に一切の光が灯っていないことを認めた。

「どうしたんだよ、エリック」

エリックは答えなかった。返事の代わりに半開きの口から涎がひと筋、ゆっくりと垂れた。


「エリックの心は壊れてしまった」

紅茶を持ってきたメイドと一緒に部屋に現れたエグモントは、肩を落として呟くように言った。シルヴェスターがノアを連れて来たのは、同年代で仲の良い従兄弟ならばもしかしたら何か進展があるかもしれない、と考えた末の策とのことだった。聞き様によっては独り言のようなエグモントの話を、ノアは無為にティースプーンを弄りながら聴いていた。エグモントによれば、今朝突然ハンター養成所から馬車が着いて、エリックが送り届けられたとのことだった。同乗していた講師は、エリックが昇級試験で魔物の血を浴びて発狂したとだけ告げて帰ってしまったという。

「養成所は休学という扱いになるらしい…1年という期限付きだが」

「そう、ですか、」

ノアはエグモントと目を合わせることができなかった。目を合わせてしまえば、エグモントの悲哀や苦しみがそこから伝染してしまいそうな気がした。

———今、悲しんではいけない。悲痛に飲まれたら、冷静さから遠ざかる。

エリックの部屋を出た時から、ノアの胸には何か引っ掛かるものがあった。それは消えない靄のように、ノアの思考に纏わりついた。その癖ノアがそれを掴もうとすると、巧妙にするりと逃げてしまうのだった。

「もしよかったら、折を見て見舞いに来てやってくれないか」

帰り際、エグモントは寂しそうに笑いながらノアの手を握って言った。触れた手から伝わる体温が体温と呼ぶには低すぎて、ノアの心臓がちくりと痛む。もちろんです、と答えた笑顔はうまく笑えていただろうか。

「父さん」

ノアはすぐ横を歩くシルヴェスターに声を掛けた。どうした、と優しい声色の応答が帰ってくる。

「エリックは強かったよね」

シルヴェスターはすぐに答えなかった。息子の質問の真意を汲み取れなかったせいだったが、逡巡ののちにそうだな、と低い声で言った。

「身内の贔屓目を抜きにしても、エリックはかなり優秀なハンター候補だったはずだ」

エリックは養成所の中で最も優秀なS班のひとつに所属していたというのはノアも本人から聞いていた。養成所は生徒をチーム分けするのに、家柄を一切考慮しない。つまり、エリックが強かったというのは紛れもない真実だった。魔物の血を浴びて発狂するというのは別段珍しいことではなく、駆け出しのハンターなどがよくそれで廃人になることはノアもよく知っていた。しかしノアにはどうしてもエリックが魔物の血を浴びた程度で発狂してしまうような軟弱なハンター候補生とは思えなかったのだ。そのことを話すと、シルヴェスターは深い溜め息とともに答えた。

「…ああ、だがエグモントもそのことは分かっていた筈だよ。彼は聡い」

「…じゃあ、なんで……」

ノアはそこから語尾を濁したが、シルヴェスターには息子の言わんとしたことが分かっているようだった。

「養成所は非常に閉鎖的な所だから、その内部で起こったことの多くは秘密裏に処理されてしまう。例え訓練生の肉親だとしても、知らされることはないそうだ」

「伯父さんに聞いたの?」

「養成所の使者から渡された書簡を私も読んだ。取り付く島も無い、といった感じだったよ。こちらから使いをやることも提案したんだが…」

決して明かされることのない真実を追い求めるよりも、虚言と分かりきっている紛い物の事実を信じた方が遥かに彼の心の負担は小さいんだよ、とシルヴェスターは呟いた。


ノアはそれから殆ど毎日、暇を見つけてはエリックの部屋を訪れるようになった。初めのうちはシルヴェスターも一緒に行っていたのだが、コールマン商会を何日も閉める訳にはいかず、ノアひとりでファニング邸に歩いて行くのが日課になっていった。他愛もない話にも笑ってくれていた従兄弟は、今や人形のように生気を失った目や顔を動かすことも、ノアの問いかけに返事をすることも無かった。

時にノアは医学や魔導の専門書にも手を出してエリックの心を元に戻すヒントを探した。図書館を凌ぐ情報量を持つとも言われるコールマン商会の書庫を漁り、咳き込みながら夜通し古書を読むうちに、ある文献が目についた。

“魔物学-ギルベルト・フリードリヒ著”

埃で白っぽくなった表紙を軽く手で払うと、ほとんど傷や手垢の汚れの無い紫色が現れる。ぱらぱらと中身を捲ってみると、1項目ごとに魔物のスケッチとその特徴が纏めてあり、内容が進んでいくにつれ魔物の危険度が上がっていくという仕様のようだった。流し読みの途中であるページに『発狂』の二文字を見たノアの心臓が跳ねる。探し求めていたヒントかもしれないという期待に、前へ前へとページを繰る手が震える。

“ハルシノア(危険度:A)-夜の森に棲み、幻覚を見せて生き物を惑わせる。幻覚で発狂し衰弱死した生き物の肉を食べるが、鉄を恐れるためヒトを襲うことは滅多に無い”

——ちがう。

エリックは魔導剣を武器にしていた。鉄を恐れる習性のある魔物が、鉄の塊を振り回すエリックを襲う筈も無い。ノアはがっくりと肩を落とした。漸く端を掴んだと思われた真実らしきものに再び高い崖から突き落とされたようで惨めだった。悪態を吐いてノアが目の前の棚を力任せに叩くと、棚の上に積まれた本の山がぐらりと揺れた。

(やば)

逃げる間も無く、案の定山は崩れてノアの上に落ちてくる。ぶわ、と舞い上がった埃に顔を顰めて、一冊一冊取り合えず床に本を積んでいった。粗方積み終えたノアは、『魔物学』が開いたまま下敷きになっているのに気付く。本を引っ張り出して折れてしまったページを急いで撫でるように触れたノアの手がぴたりと止まった。

“ムマチョウ(危険度:S)-モルト湖付近でよく見られる。個体の強さとしての危険度はC程度だが、ムマチョウの鱗粉には猛毒が含まれており、主にヒトの中枢神経系を麻痺させる。若干量でもこの鱗粉を吸い込むと廃人となり、凡そ人間らしい生活は不可能となる。治療法は不明。この鱗粉は一部の魔物には効かないと言われているが、耐性を持つ魔物が今までに見つかっていないため、かなり高位の魔物にしかムマチョウの天敵はいないということになる”

その後には、つらつらとムマチョウの鱗粉を浴びたであろう魔物や人間の症状が書き連ねられていた。その情報量の多さは異様な程で、人体実験でもしなければ得られないとしか考えられないようなデータも記載されており、普段のノアならば眉を顰めて本を閉じる所だったのだが、冷静さを著しく欠いた彼にはそれは無理な注文であった。

“症状は鱗粉を吸い込んで数分で現れる。長時間吸い続けると死に至るが、直ぐにその場から撤退し新鮮な空気を吸わせれば脳以外は健康なまま生き続けることが出来る。重大な臓器の疾患などが無い限りは、その寿命は健康なものと変わらない”

“脳に刺激を与えたところ、2%の確率で薄い反応があった。この反応は罹患者の魔力の高さに比例しており、これによって魔力のみがこの魔物の鱗粉に対抗できる唯一の手段であるという仮説を立てた”

“現段階でできるムマチョウの被害の予防はただひとつ、モルト湖付近に近づかないことである”

粗悪なインクで印刷されたのか、ところどころが滲んで読みにくくなっている文章をノアは夢中になって読み進めた。そこに書かれているどの症状もエリックのそれと酷似しており、今のところはエリックはムマチョウの鱗粉を吸ってしまったのだと考えるのが最も有力だと思われた。

——でも、どうやって。

ムマチョウが棲むとされているモルト湖は、養成所から遠く離れている。運んでこられる距離でもないし、そもそも捕まえられるような魔物でもない。近付けば死んでしまうとまで書かれているのだ。それに養成所がムマチョウなどという危険な魔物を見逃す訳が無かった。死傷者が毎年出るとはいえ、養成所側が故意に危害を加えているわけではないのだ。ひょっとしたら鱗粉だけをどうにかして集めて、それを撒いたのかもしれないが、そんなことができるのかも分からない。それからノアは書庫から魔物関連の文献を全て搔き集め、ムマチョウとその鱗粉についての情報を少しでも多く集めようと尽力したが、どの文献も初めの『魔物学』には遠く及ばなかった。寧ろ、ムマチョウについて一切の記述のないものさえあった。搔き集めた最後の魔物の文献を勢いよく閉じたところで、ノアは漸く背後に立つシルヴェスターに気付いた。

「調べものは進んだかい」

シルヴェスターは微笑みながら尋ねた。ノアは飛び出そうになった心臓を落ち着かせる。

「…分からない」

ノアは正直に答えた。不確実な情報をこれが答えだ、と言い切れるほど自分に自信が無かった。シルヴェスターはうず高く積まれた蔵書を一瞥し、呟いた。

「ムマチョウか」

ノアの全身が総毛立った。図らずも敬愛する父と同じ答えに辿り着いた喜びに浸る。

「父さんもそう思ったの?」

「不確実だが、調べてみる価値はある。…恐らく危険だよ、どうする」

コールマン家は代々商会を営みながら、その裏で情報屋として暗躍してきた。口が堅く信頼度の高い情報を金さえ積めば分け隔てなく提供するコールマン家は、貴族や王侯、果ては諸外国をも顧客としており、特に5代目当主のシルヴェスターは、その手腕から100年にひとりの逸材として重宝されていた。長男でノアの兄ウォルターは商才に富み、首都ユピテルの商科学校でトップの成績をとっていたが、情報を売って生きていくには優しすぎた。シルヴェスターは悩んだ末、ウォルターは商会の跡継ぎにし、裏稼業の跡継ぎには小さい頃から優れた記憶力と諜報能力を発揮していたノアを据えたのだった。諜報能力と言っても盗み聞きが異常に上手かった程度のことで、今のように文献や過去の知識から情報を得る作業はノアの最も苦手とするところだった。それでも敬愛する父に裏のとはいえ家業を任されたという事実は、ノアにとってこの上ない誉れでもあった。

そんな父は今、ノアに選択を強いていた。幾度も困難な依頼をこなしてきた父が危険だという、それは息子が可愛いという感情から出たものというよりはエリックの巻き込まれた事件が非常に厄介なものだということを示唆していた。

「やるよ」

深く考えるよりも先にノアは頷いていた。シルヴェスターがノアに共同とはいえ仕事の依頼をしてくるのはこれが初めてだった。

それから数日。従兄弟の精神を蝕む毒がムマチョウのものかもしれないと分かったところで、ノアはそれ以上の情報を得ることが一向に出来ずにいた。そしてそれはどうやらシルヴェスターも同じのようだった。彼とて可愛い甥っ子を苦しみから救ってやりたいという思いはノアに勝るとも劣らなかったのだが、如何せんコールマン家の情報網の届く限り、エリックの治癒に繋がるような手段は存在せず、父子は日に日に苛立ちを募らせていった。『魔物学』は、ノアの部屋へとその居所を移し、毎日開かれたことによってムマチョウのページの根本がかすかに歪み始めていた。

「エリック、もうちょっと待っててね。ごめん」

ノアは数日前と変わらない表情の従兄弟の手を握った。弱弱しくも確かな血液の動きに、顔を上げればエリックが以前のように話し掛けてくるのではと錯覚してしまう。

「こんなにあったかいのにねえ」

ぎゅ、と爪が食い込むほどにエリックの手を握りしめたノアは、階下の伯父に悟られぬよう唇を噛み締めてひとり嗚咽した。

「ごめん」


—アエネイス歴1666年。月日が流れても、ムマチョウに関する有用な情報は見つけられぬまま、ノアはファニング邸に通い続けていた。

「もう暗くなっちゃった。エリック、じゃあまたね」

明日こそはいい報告ができるように祈ってて、とノアはエリックの手を自らの額に押し当てた。そこに微かな拍動を確かめることで、ノアは正気を保っていると言っても過言ではなかった。エグモント・ファニングに軽く挨拶をして、ノアはファニング邸を出る。昼過ぎまで雨が降っていたせいで、予定がずれ込んで普段よりも遅い時間になってしまった。父母が自分を心配する様子が脳裏にちらついて、ノアは歩く速度を速めた。

普段通っている大通りは、ファニング邸からコールマン商会まで帰るには遠回りのルートで、ノアは帰るのが遅くなりそうな日には大通りから少し離れた入り組んだ路地を通ることにしている。今日もその例に漏れず、昼間の雨が乾ききっていない石畳を歩いていると、前方で話し込んでいる2人の男に気付いた。

ノアはその2人組の片方の顔に見覚えがあった。数年前、父に連れられて初めて訪れたミネルバ商会連合の会合。そこで、若干10歳のノアに包み隠そうともせず敵意のこもった眼差しを向けて来た男―ガーランド商会会長、デレク・ガーランドだった。

デレク・ガーランドは、一代でガーランド商会を歴史あるコールマン商会に次ぐ存在にした成功者だったが、裏では様々な黒い噂が飛び交っている。麻薬の取引に一枚噛んでいるだとか、貴族に賄賂を贈り続けているだとか、中にはシルヴェスター・コールマンを暗殺しようとしているなどという物騒なものまであった。当のシルヴェスターはその噂を一笑に付し、デレクにも友好的な態度をとっているのだが、反面ノアはデレクに良い印象を持っていなかった。そんなデレクが見るからに人目を避けて怪しい男と話をしているのだから、ノアの人より活発な好奇心が働いてしまうのは仕方のないことだった。

「—それで、オットー様は何と仰ったんだ」

(オットー様?)

ノアは違和感を覚えた。ノアの知る限り、デレク・ガーランドは自尊心が高く、余程の身分でなければ敬称など使わない人間だった。つまりオットーという男は少なくとも貴族の位を持っているということになる。

(うちに帰ったら、貴族の系譜を調べてみよう)

デレクの前に立つ大柄な男の顔は見えない。ぼそぼそと何事か話しているのが聞こえるが、遠すぎて内容までは分からなかった。すると男が徐に右手を掲げ、指を鳴らした。男の傍にぼんやりと浮かび上がった人影に、ノアは思わず声を上げそうになり、慌てて口を手で塞いだ。

(幽霊かと思った……イフランカーを持っているようには見えないし、あの男、ウィザードかな)

浮かんだ人影は、服装から見て貴族のようだった。それを見たデレクの顔色は赤くなったり青くなったり、死人のように真っ白になったりころころと変わっていく。人影が現れてから不思議とそれまで微かに聞こえていた声が全く聞こえなくなり、会話の内容が掴めないことをノアはもどかしく思ったが、近付きたくなるのを必死に堪えて彼らの口元の動きを注視していた。

ノアの見たところでは、デレクは『違います』と連呼しているように見えた。『お許しを』とも。しかしそれ以上のことが分からない自分の至らなさに、もう少し読唇術を学んでおけばよかったと激しく後悔した。

(あっ)

男が掲げていた右手をゆっくりと下ろすと、それに伴って人影も薄れていく。デレクは地面に尻餅をつき、縮み上がって震えていた。嫌味な表情と言葉しか表すことのなかったデレクの無様な姿に、ノアは意外さを感じるとともにどこか優越感をも覚えていた。

男は腰を折ってデレクと目線を合わせると、どこからともなくレイピアを取り出してデレクに渡す。デレクはがくがくと震えてそのレイピアからできる限り離れようと身を捩らせているように見えた。男は尚もデレクの手にレイピアを押し付けようとしていたが、やがて諦めて立ち上がり、左手にいつの間にか握られていた大剣を躊躇いなくデレクの胸元に突き刺した。デレクの口が開き、肩が大きく上下する。どう見ても叫んでいる筈なのに、ノアにはその声が聞こえない。そこでやっとノアはこの場の異常さに気が付いた。

——なんで、誰も通らないんだ。

この路地は裏道とは言え、付近の住民なら日常的に通る道の筈だった。実際、ノアもファニング邸からの帰り道、ここを歩く住民の姿を何度も見ていた。今日に限って誰も来ないなんて都合の良いことがある訳が無いのだ。

——人払い呪文か…?いや、でも俺は入れた。なら…。

それにデレク達の声が急に聞こえなくなったのも気になった。あれは確か男が人影を呼び寄せたところからだったな、と思い出したノアの背筋が凍る。

——気付かれてる?

ノアの存在に気付いた男が、デレクとの会話を聞かれないよう消音呪文を施したのかもしれない。気付かれているのなら、ほぼ間違いなく自分は殺される。こんな決定的な現場を見てしまったのだから。

デレクの胸から大剣を引き抜いた男は、刃に付いた血を払う。デレクの身体は力なく地面に頽れた。

逃げろ、と本能がノアに叫ぶ。それでもノアはその場から動けなかった。男はこちらを見ていない筈なのに、殺気のこもった目で睨まれているような、心臓を握り潰されそうな緊張と恐怖がノアの五感を支配していた。

ふと、男が振り向いた。竦み上がったノアの耳に、男の声が飛び込んでくる。

「お前、コールマンの坊ちゃんか?」

「…へ?」

予想だにしなかった発言に、ノアは恐怖で足が竦んでいたことも忘れて間抜けな声を出した。

「長男は商科学校に行ってるんだったな。じゃあお前はその弟か」

緊張感の欠片も無い語り口に、ノアは毒気を抜かれたようになってしまった。

「コールマンの血筋ならここに入ってこれたのも納得だな」

「え、なんで?俺魔法使えないよ」

「人払い呪文はお前みたいな好奇心の塊には通じないんだよ。もっと強めの奴かけときゃよかった」

そこで男は動きを止めて、全く以て通常運転のノアを驚いたように見つめた。

「お前、さっきまでピリピリしてたのに急にどうしたんだ」

「変わり身が早いのもコールマンの血筋でね」

男は心底愉快そうにノアの顔をまじまじと眺める。ノアはやっとそこで男の顔をはっきりと視認した。無数の傷が入り痛々しくはあるものの、バランスの取れた整った顔立ちだった。

「ねえ、あんたもしかして『ゴルゴン』?」

ノアは数分前に脳裏を過ったある可能性を口にした。この男は『ゴルゴン』なのではないか。

容易く魔術を使ったり、デレクを躊躇いなく刺したりした辺りからその可能性は殆ど確信に変わっていたのだが。

『ゴルゴン』は、裏稼業の方で頻繁に耳にする暗殺請負人の通称だった。金さえ積めば、どんな依頼でも完璧にこなす。殺せない人物はおらず、その昔この国と敵対していたマアト神聖王国の最高権力者を暗殺し戦争を終わらせたとも言われていた。

「なんでそう思った?」

男はノアに歩み寄り、目の前に胡坐をかいた。どうやらノアに興味を持ったらしい。

「人払い呪文とか、消音呪文とか使ってただろ。なのにその素振りも見せなかった。それにその大剣―」

ノアは男の左手に握られたままの大剣を指差した。

「魔導大剣だ。しかも見たことないタイプの…少なくともランクは『龍喰』以上」

男は心底楽しそうにノアを眺めている。どうやらすぐに殺されることはなさそうだとノアは心中でほっと胸を撫で下ろした。

「魔導大剣は持ち主の魔力で成長する剣だ。最低ランクの『虎斬』から『鬼狩』『龍喰』『神殺』…『龍喰』以上の魔導大剣を持ってるハンターはこの国には6人しかいない。その人達の顔も名前も知ってるし、なんなら5人には会ったこともある…あんたがその6人目じゃない限りは、あんたはハンターでもないのに超高ランクの魔導大剣を持ってるってことになる」

ノアはさっきまでの緊張と恐怖を最早殆ど記憶の彼方に置き去ってしまっていた。

「あと、さっきあんた依頼者の幻影出してたろ。ターゲットにわざわざ依頼者教えてから殺すなんて趣味悪いことするの、『ゴルゴン』しかいないよ」

男は笑って何度か頷いた。

「流石はコールマンの坊ちゃんだ。記憶力も好奇心も厄介だな」

それに度胸も、と男は付け加えると、立ち上がってノアの頭に手を置いた。

「早いとこ帰りな、コールマンの坊ちゃん。パパとママが心配するぞ」

「…ねえ、1つ聞いていい」

ノアは子ども扱いされたことにむっとして少し男を睨みながら言った。

「なんでさっき、ガーランドさんに武器を渡そうとしたの」

男は笑顔を崩さないまま答える。

「あんな奴でも案外強いかもしれないと思ってな、戦ってみたかった」

「それで返り討ちにされるとは思わなかったの?…余程自分の力に自信があるんだね」

男の笑顔は不気味な程動かない。

「…いつもやってるの?」

「質問は1つだけだ。早く帰りな坊ちゃん」

やや食い気味に男は答えると、ノアの腋に手を差し込んで立ち上がらせた。ノアの足は不思議と動き出し、歩き慣れた道を父母の待つ家へと歩いて行く。

「ちょ…っと、魔法はずるいでしょ」

「また会うことがあったら教えてやるよ、今日は帰りな」

男の姿がだんだん遠くなっていくのを名残惜しい気持ちで眺めながら、ノアは家路を辿って行った。結局その日はいつもより帰宅時間が遅れたことをシルヴェスターにもカミラにも厳しく追及され、こってりと絞られてしまった。不貞腐れて自室に駆け込んだノアはそのままの勢いでベッドに倒れ込むと、深い溜め息をついた。帰宅が遅くなったことでカミラが過保護なまでに心配し、これからエリックの見舞いには自分も付いて行くと言い出したのだ。カミラが傍にいては、今日会ったあの男に再び相見えるのは不可能に近い。

ノアはごろりと寝返りを打った。天井を眺め、ついさっきまでの出来事を反芻する。

男は『ゴルゴン』であることを否定しなかった。ノアの確信を覆すような証拠が見つからない限り、彼は確実に『ゴルゴン』であると考えて間違いはないように思えた。男との会話を思い返していた所で、ノアはあることを思い出して勢いよく飛び起きた。

(…デレク・ガーランドが殺されていたんだった)

ついさっき目の前で人がひとり殺されたというのに、ノアはその事実を今の今まですっかり忘れてしまっていた。階下の父母のもとへ駆け出そうとしたところで、ノアは思い留まる。帰宅時間が遅くなった理由について、ノアは回り道をしていたのだと説明していた。怪しい男と話していたなどと知られていたら、説教の時間は何倍にも伸びていただろう。その矢先にデレクが死んだことを何故知っているのかと追求されてしまったら、本当の事を言わざるを得ない。そうなったら一巻の終わり、もうノアは父母の付き添い無くして一切の外出ができなくなってしまうだろう。過保護にも思える両親に内心で溜め息を吐きながら、ノアは自分が今やるべきことについて考えた。

(デレクの死は明日にもすぐに伝わってくるだろうから、今俺が言う必要は無いよな。ただ気になるのは、デレクがあいつと話してるときに言ってた『オットー様』だ…調べてみるか)

ノアは父母に感づかれないよう、そっと部屋から出て書庫に向かった。特殊な呪文で裏稼業に関わる者にしか開けないようにされている扉を押し開ける。床に乱雑に積まれた書籍を崩さぬよう注意して目当ての本棚のガラス戸を開き、手近な場所にあったミネルバの貴族系譜を広げた。通常同じ都市に住む貴族は他家の人間と名前が被るのを嫌うため、件の『オットー様』を探し当てるのは難しくはないはずだったのだが、ノアが目を皿のようにしてミネルバの貴族系譜を隅から隅まで探しても、オットーという名の人物は見当たらなかった。正確にはひとり見つかったのだが、その『オットー』は中位貴族のゲラルド家に今年生まれたばかりの赤子であった。貴族とは言え、あのデレクが赤子に敬称を使う訳も無く、そもそも赤子がデレクを暗殺させる訳も無い。ノアは落胆して系譜を閉じた。目の前の本棚にはミネルバ以外にもこの国の都市すべての貴族を網羅した情報が収められているのだが、それを全部虱潰しに探していくのかと思うと頭痛がした。しかし悲しいかな、面倒さよりも好奇心が買ってしまうのがコールマンの性である。

王都ユピテル、東都ユノー、西都アポロン、と次々に貴族系譜を引っ張り出して『オットー』を探していく。しかし見つかるのは5歳児だったり将又90歳を超えた老人だったりと、凡そデレクの暗殺の依頼など出来ないような人物ばかりで、ノアは徐々に自分の記憶まで疑い始めていた。そして半ば諦めて開いた系譜にノアは遂に目当ての人物を見つける。

——オットー・スターリング、マルスの高位貴族…か。

見つけたのは、南都マルスに居城を構える高位貴族スターリング家の当主だった。歳は42、2人の妻に3人の子。海を隔てた隣国と貿易を行い、その財は王族にも及ぶと言われている。

目当ての『オットー様』らしき人物を発見したにも関わらず、ノアの気持ちは晴れなかった。殺されたデレクは、恐らく『オットー様』と何らかの取引を行っていたのだろう。だが、それがこのオットー・スターリングだとしたら、なぜマルスの貴族が何百トランと離れたミネルバの商人と手を組んだのか。デレクのガーランド商会は、勢いを増したとはいえノアの知る限りではミネルバにしかその勢力範囲を広げていなかったはずだった。国単位で言えば小規模のガーランド商会に、大貴族が仕事を依頼する理由は何か。

——まさか…麻薬?

ガーランド商会が一代で財を成したことに対して、一部の界隈で囁かれている理由のひとつに麻薬があった。デレク・ガーランドを妬んだ商人たちの取るに足らない噂だとつい先日までノアも考えていたのだが、最近このラティス王国ではデナムという麻薬が出回っており、その陰ではいくつかの貴族が関わっていることも、最早周知の事実であった。スターリング家とガーランド商会が麻薬商売で手を組んでいるという仮説は確かに考えられなくはなかったが、ノアの胸には引っ掛かるものがあった。

——スターリング家ほどの高位貴族ともなれば、デナムなんかに手を出さなくたって充分やっていけるはずだ。それに南都はデナムの取り締まりがかなり厳しい所だし…あり得ない。

結局、デレクと『オットー様』との繋がりを何ら解明できないまま、ノアはいつの間にか眠りについていた。つい数時間前、目の前で人が殺されたとは思えない程に安らかな眠りだった。


予想外に長くなったので(2)に続きます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ