第7話 焼林檎のクレームブリュレ
いつの間にか、窓からは光の筋が漏れ出している。薄暗かった部屋は、朝の光に満たされ始めていた。
あれから一睡もせずにノートと睨めっこをし、わたしはある一つの結論に達した。ノートを閉じて、机の引き出しに大切にしまう。立ち上がって高い天井近くから床まで垂れ下がるカーテンを少しだけめくり、外を覗いてみると、小さな白いバルコニーに繋がっているようだった。窓から伝わる空気はひんやりと冷たい。
外に出てみよう。そう思い立って、椅子の背凭れに掛けられていた菫青色に染められたファー付きのガウンを羽織った。重たいカーテンを開くと、部屋は朝の白光に一斉に飲み込まれていく。その眩しさの中で、わたしは窓を開け放った。つんと冷たく澄んだ朝の空気が胸に入ってきて、肺の中が真新しく満たされていく。
わぁ……!
そこは、雪に覆われた真白な世界。
だんだんと白んでいく空の光を受けて、辺り一面にチラチラと白銀色の瞬きが溢れていた。遠くのほうに見えるのは、どこまでも続く針葉樹の森。そこにもまた、真っ白くきよらかな雪が積もっていた。バルコニーの白い手すりを掴んで見下ろすと、眼下には湖が広がっている。時折立つ細波は明方の冷たい光を反射して、静かに揺れては消え、また揺れては消え、きらきらと、澄んだ光を放っていた。
「朝食をお持ち致しました」
扉の向こうからノックをする音と、女性の声が響く。急いでお部屋の中に戻って窓を閉めて、一度深く呼吸をしてから、澄ました声で答える。
「入ってよろしくてよ」
言葉遣いがやり過ぎではないか、少しだけ心配になる。
「お嬢様、おはようございます」
「おはようメリダ」
ノートを熟読し、ここに載っているわたしに関係のある人物については一通り名前と特徴を覚えた。彼女はメリダ。細やかな気配りと包容力のある、フォウルグ家に仕える年長のメイドである。その少し白髪の混じった胡桃色の髪が、ふっくらとしたメイド用の白い頭巾の中に収められている。
「シェルルカお嬢様……!」
わたしを見るなり、メリダは口を開けて後退りをする。
「メ、メリダ……? 一体どうしたの、大丈夫?」
何かしてしまっただろうかと心配になるわたしに、メリダはずいっと一歩踏み出して、その手を取った。
「お嬢様……今朝はどうされたのですか? 私が来る前にきちんと起きていらっしゃるなんて。
なんて素晴らしい朝なのでしょう!私は……メリダは嬉しく思っております……ご立派になられて……」
それが心からの祝福の証明であるように、その目は喜びに潤んでいた。たったこの一瞬のやりとりだけで、彼女がいかにシェルルカに愛情を持っているか、わたしにはわかる気がした。
「歳を取ると涙腺が緩くなっていけませんわ。さぁ、朝御飯に致しましょう」
メリダはさっと目の端の涙を拭い、微笑む。
「ありがとうメリダ。今朝は気持ちの良い朝ですね。パンのとってもいい香りがするわ」
わたしもつい嬉しくなってその手を握り返すと、そう言って笑った。
運び込まれた真白いクロスが掛けられたワゴンの上には、ドーム状の銀の覆いが乗っている。そこから、香ばしい小麦の香りが漂っていた。
「本日の朝食でございます」
メリダのその声と共に銀のクロッシュが外されると、そこには見たこともないような料理の数々が並んでいる。品数の多さに反比例するように、一皿一皿は小さくこぢんまりと盛り付けられていて、繊細な細工のようですらあった。メリダが私の前にお皿を並べていき、ひとつひとつについて説明をしてくれる。
「今朝のメニューは、
雪下にんじんのポタージュ。
ライ麦パンとドライラズベリーの白パン。
白トリュフのオムレツ……」
そこまで言うと、ちらっと横目でわたしを見てから、
「カリフラワーのムースサラダとデザートは焼き林檎のクレームブリュレでございます。お飲み物はいつもの通り、ロイヤルミルクティを持って参りました」
そのあとはなんだか、まくし立てるように素早く説明された。
「いただきます」
胸の前で手を合わせて、わたしはいざ、食事を始める。まずは、機嫌良さそうに湯気を立ち昇らせているにんじんのポタージュ。柔らかなだいだい色のスープの中央には、淡雪のような白い泡がふんわりと座っている。スプーンですくってそのひとくちを口に含めば、根菜のあたたかな甘みと香りがいっぱいに広がって、白い泡に含まれた空気がそこに品の良い余韻をもたらす。舌触りはどこまでもなめらかで、作った人の丁寧さが伝わるようなスープである。
「美味しい……!」
「にんじんが苦手なお嬢様のために考案された、料理長の自信作ですもの」
メリダはそう言って、満足げに頷いている。シェルルカはにんじんが嫌いだったんだ。それは、ノートには載っていなかった情報だ。心の中にメモを取ろう。
ほんの僅かに淡いグリーンに色付くカリフラワー、その美しいサラダにフォークを持つ手を伸ばす。生のカリフラワーは薄くスライスされて、ムース状のペーストの上に軽やかに積み上げられている。初めて食べる生のカリフラワーはハッとする新鮮な食感で、その淡い生成色の見た目に反さぬ、くせのない素直な味わいにフォークが進む。そして、このクリーミーなムース。それが爽やかな生野菜に奥深さを纏わせて、余所行きの顔にしていた。
なんて美味しいんだろう!わたしはそのまま、ぺろりと食べ切ってしまう。
「お嬢様、今朝は本当にどうなさったのですか? 生のお野菜を残さずに躊躇なく召し上がられるなんて……」
シェルルカはにんじんだけじゃなくて、そもそも野菜が苦手だったのだ。こんなに美味しいのに、もったいない!それは今後のために、何としても撤回しておかなければならない。
「メリダ、わたくしはお野菜の美味しさに目醒めましたわ! 」
わたしは直ちにそう宣言をし、メリダはみたたび歓喜の声を上げた。次は、白トリュフの乗ったこのふわっふわのオムレツをめがけてスプーンを……
「お嬢様!いけませんわ」
スプーンがそのオムレツに辿り着く前に、勢いよく制止の声がかかる。
「お嬢様、そちらはナイフとフォークで召し上がるものです」
「そ、そうですわね!」
わたしは急いで、カトラリーを持ち替える。
「先ほどまでは、私とのレッスンを卒業する日も近いのかしらと思いかけておりましたが、まだまだ道のりは遠そうですね」
そう話すメリダは、言葉とは裏腹にお茶目な笑顔を見せていた。
ルビーの埋め込まれたような白パンはふっくらとほのかな甘みがあって、ライ麦パンは香り高く香ばしい。紅茶は茶葉の上品な芳香と、どこか遠く懐かしいような、ミルクの優しい味がした。
そしてなんといっても、デザートの焼き林檎のブリュレはまた格別であった。お皿の上にちょこんと佇む、半分の小さな紅林檎。その断面はつやつやとした琥珀色に覆われて、こつこつと叩いて砕けばたちまちクリームがとろけ出してくる。そしてそれは、幸せってきっとこんな色だと思わせるような説得力を持った、ふくよかなたまご色なのだ。舌の上ですぐに溶けて消えていくクリームと、ほろ苦いキャラメリゼの欠片のアクセント、そこに火の通った林檎の甘酸っぱさが加わって、ひとつの芸術品のようであった。わたしはそれをうっとりと、なくなっていくのを惜しみながら大切に完食する。
「ごちそうさまでした」
こんな贅沢な朝食は今までに食べたことがない。
でも、わがままを言うと、一人で食べるのはちょっとだけさみしかった。施設では朝ごはんは毎日みんなで一緒に食べていて、こんなに豪華なごはんではなかったけれど、みんなで囲む食卓はそれだけで格別の幸せだった。わたしは今になって、そんなことに気が付く。
「メリダはもう朝御飯はお済みなの?」
「ええ、それはもう。
私達使用人の朝は早いですから」
そういえば今朝ノートを読んでいるとき、なにやら準備をしているような音が下の階から微かに聞こえていた。あれは、ここで働く使用人たちの、早朝のお仕事の音だったに違いない。
「皆さまどのくらいお早いのでしょうか」
「私たちは朝の5時半に、使用人用の食堂にて一斉に朝食を取る決まりになっております」
それは随分と早い。でも、頑張ればなんとか起きられる時間ではないだろうか。
「明日から、わたくしもそこにご一緒できないかしら?」
これは名案だ。わたしは期待に満ちた顔で、メリダに提案をする。
「お嬢様。それはいけませんわ。
フォウルグ家のご令嬢として、わきまえるべきことをお忘れになってはなりません」
予想に反して、メリダの返答は頑なだった。高貴な生まれであるシェルルカには、それ相応の振る舞いが求められるのだろう。きっと、普通の女の子のような思いつきが許される立場にはないのだ。
「変なことを言ってごめんなさい……」
残念だけれど、仕方がない。こうして朝食を見守ってもらえることがそもそも贅沢なのだ、無理を言ってはいけない。
そう思い直して視線を上げると、メリダがいたずらっぽい笑みで手招きをして、内緒話をする仕草をする。
「それでしたら……」
彼女はわたしの背の高さに合わせてしゃがむと、耳元でこしょこしょと、思いがけない言葉を囁いた。