第2話 シェルルカ・フォウルグ
「熱が出てきたのかもしれない」
掌が額に触れて、わたしは体温を確かめられている。ふいにその状況を鮮明に認識して、わたしは膝掛けに視線を落とした。
「だ、だ大丈夫です」
気遣うように顔を覗き込まれたことは分かったが、わたしはうつむき続ける。
「なんだか様子が変だね、シェルルカ」
「シェルルカ……とは?」
怪訝そうに顔を見合わせるふたりに向かって、あまり耳慣れないその響きを口にする。
「お兄様をからかわないでおくれ。シェルルカ・フォウルグ。君の名前だろう?」
その声は震えを含み、微笑みは強張っていた。
ようやく動き出した頭の中は疑問符で満ちてきて、俄かに回転を始める。勿論わたしはそのような難しい名前ではないし、兄どころか、血の繋がった家族は一人もいないはず。そもそも明らかに日本人ではなさそうな、それ以上にこの世のものと思えぬような彼と、血の繋がりがあるとは到底思えない。
「お兄様とは……?失礼ですが、あなたが……?」
湖の瞳に哀しみに満ちたざわめきがよぎる。自らの言葉がその瞳を陰らせたということに、ちくりと胸が痛んだ。
逃げるように逸れたわたしの視線が次に捉えたのは、銀細工に縁取られた大きな鏡であった。その瞬間、唐突に眼に映り込んできたものが飲み込めず、わたしは思わず鏡に駆け寄る。
「まだ立ち上がっては……!」
つま先から身震いが駆け抜けていく。鏡台に手をついて、縋り付くように鏡を眺める。映るべきはずのものと映るもの、その乖離に頭は混乱する。
鏡を覗く、見慣れぬ一人の少女。
胸元まで伸びる銀糸のような髪は、緩くウェーブがかり、冷ややかな光を反射している。左右に結われた編み込みは、それぞれ濃紺の繻子のリボンにきつく結ばれて、その先の白銀の毛束が静かに揺れる。ガラス質の釉薬をかけたように、憂いのある白い肌。その薄い皮膚の奥を透かすようにして、頬とくちびるは淡紅色に染まる。
確かにその姿は、お兄様だというその人によく似ている。けれど、鏡に映る瞳に、あの静かに水を湛えるような穏やかさはない。その双眸は研磨された青紫色の結晶のように硬質で、冷たい輝きを宿している。
これらはまるで──
「シェト様。
シェルルカ様はおそらく瘴気の影響で一時的な記憶喪失になっているのでしょう。魔法医をもう一度呼んで参りますので、少々お待ち下さい。」
黒眼の男性はわたしの肩を支えながら、落ち着いた口調で語りかけている。
シェルルカ。
その響きに、何かがつかえる感覚を覚える。どこか聞き覚えがある名前のような気がしていた。まさか、彼の言うように本当に記憶喪失であるとでも言うのだろうか。違う、記憶は確かにあるのだ。階段から落ちるまでの記憶は──
そのとき、サイドテーブルに置かれた青いハードカバーのノートがわたしの目に留まった。
───
「はい、これ」
里親先の娘の葵は、楽しげな企みを隠しきれないといった目をしていた。手渡された洋菓子店の紙袋に数回ぶつかった、その硬く乾いた音が、袋の中身がお菓子ではないことを告げている。
「え……?」
「見てみて」
期待のこもった面持ちの葵に言われるまま、わたしは袋の中身を手に伸ばした。
「わぁ、〝眠りの間際に〟だ!」
それはところどころにめくり皺の目立つ、よく読み込まれた形跡のある文庫本であった。ちょうど前回会ったとき、偶然にも同じ作家のファンであるということでわたしたちは盛り上がったのだ。その作品なかでも、この短編集は以前から読みたいと思っていた本であった。
「ありがとう!」
「それだけじゃないよ」
紙袋を覗くと、中身はもうふたつ。
携帯ゲーム機と一本のソフトであった。
「貸してあげるから、やってみて。ほのかも気にいるといいな」
葵はフフフ、と満足そうにはにかんでいる。
それは前回彼女が熱弁していた、わたしたちの好きな作家が脚本に携わったという恋愛シミュレーションゲームであった。常々ゲーム好きを公言していたその作家は、ゲームに関する小さなコラムなどを寄稿することがあったのだか、そうした縁から数年前にゲーム会社から依頼を受けて、この作品の脚本の一部を担当したそうである。
ちらりと覗くソフトのパッケージは、その作家の本の装丁の雰囲気によく似ていた。
「でも……」
このようなものを借りるわけにはいかなかった。
施設の中で壊してしまったり、紛失してしまったり、あまり考えたくはないが盗難にでも遭おうものなら、わたしには決して弁償できない高価なものである。
「こうして私たちが出会ったのも運命! やるべきね!こっそりすれば、ばれない、ばれない」
そういう問題ではなくって……と言う間もなく、彼女が次の言葉を紡ぐ。
「そして、これ!」
燦々と顔を輝かせる葵の手には、青い表紙のノートが握られている。
「この布教ノートには、このゲームを百倍楽しめるポイントを纏めてるの!」
「まだ未完成なんだけど……
次の面談のときまでには完成させて、ママに持って行ってもらうから」
「このゲームはね… … … …」
そう言って、ノートを開きながら、ゲームの魅力を次々と語り出す。
一つのことにこんなに夢中になる人を、施設ではあまり見たことが無い。何かに熱中することの面白さは本で知っていたつもりだったけれど、わたしはまだまだだったみたいだ。
楽しそうに話す川上葵の姿は太陽のように眩しい。わたしはその熱量に気圧され、ゲームを借りられませんとは最後まで言い出せなかったのだ。
あのあと施設に帰り、こっそり部屋に誰もいない時を見計らって、わたしはゲームに入っていた説明書を読んでみたのだった。ちょっとだけやってみようかと思ったのだけれど、みんなが戻ってくる音が聞こえて慌てて引き出しにしまい、ゲームは結局やれず仕舞いだった。
───
思い返してみれば、微かに記憶がある。
この煌びやかなお屋敷。
シェルルカ・フォウルグ、その兄シェト・フォウルグ。これらは、あのゲームの人物紹介欄に載っていたキャラクターに瓜二つである。
信じられないことだけれど、どうやらわたしは、あのゲームの世界の住人になってしまったらしい。