第1話 湖の瞳
不意に、あたたかな感触が身を包んだ。
うっすらと開いた瞼の横に、さやさやと、柔らかな銀線が触れている。そのか細い線が視界の端で光を反射して、頬を撫でるように過ぎ去っていく。片耳はどこか懐かしいような質感で塞がれて、耳に貝殻をあてたときに似たくぐもった空気の奥に、規則的な振動が響いている。パチパチと、炎の弾ける音がしていた。
「良かった。本当に……」
水晶に反響するように、澄んだ声であった。
その声の主の両腕に、わたしの上半身はすっかり収められている。その体温と、鼓動と、骨格がつくる窪みに触れている。霧のようなまどろみの中で、きっとまだ、半分夢を見ている。
パチパチと音を立てているのは、むこうに見える大理石の暖炉。その中に揺れている橙色の炎から、時折火の粉が煌めいている。膝に掛けられた淡い青灰色の布は、緩やかにひだを描いて垂れていて、丁寧に紡がれた織物の手触りがした。
やがてほどかれた腕のその先の掌は、わたしの両肩を一度支えてから、壊れものを扱うかのようにそっと、この小さな手を包む。触れたその指先は積もったばかりの雪のようにひんやりとしていて、まどろみの靄を払っていくような清廉さに満ちている。
わたしは指先の主を確かめようと、覚束ない意識の中で視線を上げる。少しずつ形取られる世界の中で、深い霧の向こうに何かをみつけたように、わたしの瞳は一点に絞りを合わせる。
それはこちらを覗く、透き通る湖を湛える瞳であった。
短く揺れる髪は、蚕がこっそりと紡いだ絹糸のように神聖で、その肌はいつか耳にした、失われた絵画技法の乳白色を思わせた。その白い首筋の奥、一対の声帯が、あの水晶の響きをもたらしている。そう思って見つめれば、その喉から溢れ出る声が美しいことは、自然の法則をそのままなぞるように当然である。構成する要素をどんなに細かく区切ったとしても、その浄らかさはどこまでも微細に存在し続けるであろうと思われた。そこには、年齢や性別を越えた神秘性が宿っていた。ここはきっと天国で、この御方はきっと天使様なのだ。あの時階段から落ちて、やっぱりわたしは死んでしまったのだ。
「シェルルカが目を開けたよ、ハウゼル」
傍らに立っている黒髪黒眼の男性に視線を移し、天使様が安堵に満ちた声を溢す。声を掛けられた男性の氷のような表情からはあまり気持ちが読み取れない。しかし、天使様の声にほんの一瞬口元を緩めたかと思うと、静かに一度頷いた。
施設を出てわたしにもお家ができると思ったけれど、きっとそういうものに縁の無い運命だったんだ。嘆いていても生き還ることはできないだろうから、せめて天国が素敵なところでよかったと思わなきゃ。そういえば最後に施設長、わたしの前向きなところを褒めてくれてたっけ──
まだ完全に靄の取れない頭で、そんなことをとりとめもなく考えている。そうして天使様の横顔を眺めていると、ふっと視線がこちらに返ってくる。
「どこも痛くない? よく顔を見せて」
湖面にさざなみが浮かぶように、天使様が微笑む。
そのひと雫が胸の底に落ちてきたような気がして、わたしは小さく息を呑む。もたらされた波紋は身体のすみずみまで幾重にも広がり、わたしは死んだはずなのに、心臓は脈を打ち、音を立てて、身体を巡っていく未知の感覚は、どこまでも深く浸透していくのであった。