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湖上の城のシェルルカ  作者: はち
第一章
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第2話 スローモーション

 

「どうだった?」


 ルームメイトの西沢萌音(にしざわもえね)が待っていたように駆け寄り、話し掛けてくる。


「やっぱり今度の水曜日に迎えに来てくれるって……」


「そう、よかったね」


 わたしたちは精一杯の困惑した笑みを浮かべて、それきり黙ってしまった。


 目に映るほとんどのものが木でできているような施設であった。廊下の床も、壁の下半分の腰壁の板も、窓の枠、階段に至るまで、どこも綺麗に磨かれてはいるものの、全て同じようにくすんだ焦げ茶色をしている。


 もっと幼い頃は、この廊下を通って、夜にトイレに行くのが怖かった。薄暗い闇の中で木の扉はギイィと耳に不気味な音を残し、木目が顔のように浮かび上がる。それが怖くて、昔のわたしはその木目の顔にひとつずつ、へんな名前と生い立ちを付けたのだった。

 その平たい木材が、遥か昔まだ瑞々しい幹だったころ……幹の中で樹液の研究を900年間続けていた、ちょっと偏屈な木目ボーボ。キツツキの巣穴に遠慮して暮らすあまり、全てが曲がってしまった優しい木目クニャラ。

 たとえば朝のひんやりとした湿度を集めた葉の雫、たとえば枝に鳥が止まったときのかすかな重み、たとえば無数の葉の隙間から(こぼ)れていた光のゆらめき。とにかく樹に起こる出来事ひとつひとつに絶えず感嘆し、こっそりと詩を書いていた木目オーワ……。彼らとももうすぐお別れだ。



「荷造りが大変だったら手伝うから、言ってね」


 萌音の声が、わたしを空想から連れ戻す。


「……そっか荷造り!ありがとう萌音」


「ほのか……もしかして忘れてたの?しっかりして」


 脱力したように笑う萌音のいつもと変わらぬ様子に、わたしは少しほっとする。萌音に呆れられるのも無理は無い。何しろ、ここを出て行くための荷造りというものに関して、そういえばほとんど考えていなかったのだ。


 持って行くとすれば、着古した最低限の服数着と、机の引き出しのお菓子の缶に入れっぱなしになっている、幼い頃宝物だったガラクタくらいだろうか。

 わたしたちの部屋は四人部屋で、わたしと萌音の他に年の近い女の子が二人、机とタンスの引き出しを一段ずつ共有して使っていた。引き出しにはそれぞれ鍵が付いていて、私物はすべてその中に、必ず名前を書いて(しま)う決まりになっている。

 引き出しの缶の中にあるのは海で拾った綺麗なガラスと、波で滑らかにされた巻貝の渦の部分。何度も読み返したお気に入りの本も頭をよぎったけれど、本棚にあるその本はみんなの物だし、これからは読みたくなったら図書館で借りればいい。

 まとめると言っても、大した物は無さそうであった。諦めてしまったという方がいいのかもしれないけれど、物にはそれほど執着がない。


「ほのかのお部屋も新しく用意してくれるって?」

 

 木造の階段を上りながら、萌音が聞く。


「里親の家にはお姉さんがいるから、その人と二人部屋になるって」


「なーんだ。じゃあ今とあんま変わんないじゃん」


 萌音の言う通り、二人も四人も、そんなに変わらないのかもしれない。


「そのお姉さんって、優しそう?」


 みしみしと音を立てて、萌音がリズミカルに階段を駆け上がり、くるりと振り返る。立ち止まった彼女の表情は踊り場の窓から射す光の陰になり、眩しくてよく見えない。


「私、聞いたことある。里子に行ったら、実の子供にいじめられるかもって」


 そう言われると少し不安になる。


「ただの噂だよ。里親制度ってすごく厳しくて、何回も面接してちゃんと迎えられる家庭って認められた人だけが里親になれるって」


 萌音に近付きながら、自分にもそう言い聞かせていた。きっと大丈夫。あの人の良さそうな川上家の人たちの態度が、いきなり変わるとはあまり思えない。


「そうかな? 施設長はなんとでも言うよ」


「この前も会ったけど、とっても……」


 とっても……

 変わった人だったと続けそうになって、立ち止まり、一旦言葉を選び直す。


 そう。里親先の川上葵は、ちょっと風変わりな子だった。わたしもそんなに人のことは言えないけれど、決して悪い意味じゃなくて、情熱的というか……なんというか……

 適切な表現を探しあぐねて、わたしは階段を一段一段、確かめるように登る。そうして正解は見つからぬまま、萌音のいる踊り場まで辿り着く。


「もういいや」


「……?」


 萌音が唐突に話を中断させた。その声に、不機嫌な色が滲んでいるのに気が付く。


「いいね。なんか、こんなところよりずっと楽しそう」


「そういうつもりじゃ……」


「昔も言ってたよね?ほのかはここもいいところだと思ってるって」


 確かに昔、萌音とそんな話をしたことがあった。

 幼い頃親を亡くして施設に預けられることになったわたしには、ここ以外の暮らしの記憶がほとんどない。ここ()、と言ったけれど、本当は外で暮らすことがどんなことかなんて、何一つ分かっていないのだ。

 しかし、萌音は違う。彼女には、家族といた頃の幸せな記憶があるのだ。


「どうせ本当は、自分は一抜(いちぬ)けで私のこと可哀想って思ってるんでしょ」


 間近で見る彼女の表情は、苛立ちの中に哀しみを滲ませていた。配慮の無い自分の言葉を悔いても、もう遅い。


「そんなふうに思ってないよ……!」


「だったら、ずっと施設で暮らせば? 私は早くこんなところから出たい! それなのに、なんでほのかが先なの……!」


 そこまで言った彼女の力は抜けて、木の床に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていった。足元に、小さな染みがつくられていく。


「萌音……」


 かける言葉が見つからず、それでもどうにかしたくて、肩に手を置こうとする。


「やめてよ!!」


 掛けようとしたその手は、萌音に勢いよく振り払われた。弾みでバランスを崩し、踊り場の淵にあった左足が後ろに滑り落ちる。


 まずいと思った時──

 既に身体の均衡は完全に崩れていて、天井がぐるりと遠ざかった。


「ほのか!!」


 萌音が悲痛な声で名前を呼び、わたしの腕を掴もうとするが間に合わない。抽象画のように輪郭を失くした世界は、スローモーションで無数の線を描きながら静かに廻っていた。そんなつもりじゃ……!という悲鳴と、わたしの名前を呼ぶ声が、遥か遠く、微かに聞こえていたような気がする。


 大きな音がして、全身を衝撃が走った。




 そして、わたしの──

 小林 ほのかの心臓は止まった


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