第1話 小林ほのか
窓から入る光に照らされる微かな埃の揺らめきを眺めていた。
年季の入った檜の床は、話の起伏に合わせて微かに軋んだ音を立てている。古い木造施設の談話室の椅子は、大人の背丈に合わせて造られているせいか、どうにも収まりがよくない。
向かいの椅子に座る年を重ねた婦人と、隣に座るそれよりも幾らか若い女性は、随分と長い間真剣に話をしている。
埃はどこからやってくるのだろう。毎日綺麗に掃除されているはずの部屋なのに、どこからともなくふわりと舞い落ちてくるのだ。
「……たか?」
「……のかさん」
「ほのかさん。
貴方に聞いているのですよ」
諭すような声で名前を呼ばれ、我に返る。
「はい!
もう一度お願いします」
わたしは慌てて聞き返す。向かいの椅子に座る細身の婦人は、この児童養護施設の施設長だ。まばらに色付くグレイヘアをぴったりと結い上げ、黒いコットンのワンピースをさらりと着て、その簡素な装いは、いつもどこか洗練されていて品が良い。それは彼女の姿勢によるものなのかもしれない、とわたしは思う。その年代に珍しいであろう長身は、ぴんと芯の通った背筋によって、今もお手本のように保たれている。
「前回の交流外泊は、どうでしたか?」
思慮深さを含んだ、穏やかな眼差し。その問いの答えを探して、しばし沈黙する。
「…… 。
お姉さんと遊んで、楽しかったです」
あまり考えた意味が無いような言葉が、口をついて出ていった。しんと静まり返った部屋の中に、自分の声だけが聞こえることに緊張する。扉の向こう、遠くの方で、子供たちのはしゃいでいる声が聞こえる。
面談は苦手だ。
「娘もほのかさんのことをとても素敵な子だと言っておりました。何でも、好きな小説家が同じという話で盛り上がったのが嬉しかったと」
わたしが困っているのを察したのか、優しげな笑みを浮かべてそう話す女性は、わたしの里親になろうとしている川上さんという人だ。
彼女の家は彼女とその夫、実子の一人娘の三人家族で、何回か交流を重ねたが皆いい人そうであった。この家族に迎え入れられることは、幸運なのかもしれない。
「ほのかさんは、本が好きですからね」
施設長の温かみを含んだ声。 長年この施設でたくさんの子供たちを見てきた施設長は、一人一人のことを本当によく知っている。
物心ついたときにはわたしはもうこの施設の子供のうちの一人で、今日まで普通の家で暮らしたことは殆どない。その間、何人か職員の入れ替えはあったが、施設長だけはずっと変わらなかった。
これから里子になって、来週のわたしはもう、普通の家の、普通の家族の中で暮らしているのだ。 それはなんだか遠い国の出来事のように感じられた。
「これで三者面談はおしまいですよ。あとは私と川上さんで、書類や手続きに関するお話をします。ほのかさんから、何か伝えておきたいことはありますか?」
「あ、あの、借りていた本があるんです。読み終わったから……」
傍に置いていた文庫本を手に取り、ちらりと川上さんの方を覗く。
施設の書庫に寄贈されていたこの作家の本は全て読み尽くしてしまい、同じものを繰り返し読んでいたのだが、それを知った娘さんが、自分の本棚にあったこの本を貸してくれたのだった。それはずっと読みたかった、あるファンタジー作家の短編小説集であった。
「もう読み終わったのね。
葵に返しておくわ」
川上さんは微笑んで、柔らかな手でそれを受け取る。腕時計の華奢なガラス盤が、窓の光を一瞬反射する。
「か、貸してくれて、ありがとうございました。面白かったです。まだ他にも借りているものがあるのですが、必ず返します」
「気にしなくっていいのよ。来週からはうちで暮らすんだから、ゆっくり借りてあげてちょうだい。葵も喜ぶわ」
「ありがとうございます」
やりとりを見守りながら、施設長が口を開く。
「川上さんの方からは、彼女に伝えておきたいことはありますか?」
「慣れないことばかりで不安もあると思うけれど、心配なことがあったら必ず相談してね」
わたしの手を握って言う川上さんは
「そうだ! それから……」
思い出したように、綺麗な金の留め具のついたバッグから、一冊のノートを取り出した。
「葵から預かってきたの。
ほのかちゃんには、渡せば分かるって」
それは、青い布張りのハードカバーノートであった。両手を出して受け取ると、そこに綴じられた紙の束は、ことのほか重い。きっとこの前、彼女の娘さん──葵から、書き途中だから待っていてねと言われたノートだ。
わたしは青いノートを抱え、一礼をして談話室の扉を閉める。
扉の向こうで、施設長の声が微かに聞こえた。
「彼女のよいところは、何事も前向きに捉えて頑張れるところです」
施設長がそんな風に思ってくれていたなんてちっとも知らなかったから、その言葉はちょっと……いや、大分嬉しかった。