百八代魔王と勇者の関係性
はじめに
この世界に魔王と勇者の存在が顕になったのは記録にある限り、五千年ほど前である。聖の気を持つ人族と魔の気を持つ魔族は元来棲む場所を別にしている。互いに交わることのなかった存在が合わさるようになった理由は定かではない。人族においては人口の増加によって土地の開発を余儀なくされた。魔族も同じく魔口が増えたことにより土地が圧迫されたことは想像に難くない。
記録にある初代魔王と初代勇者の衝突は魔王の圧勝に終わった。戦い慣れていない人族は魔族の力に屈服せざるを得なかったのだ。
魔族が人族に対して求めたのは当然のように土地であった。しかし無闇に奪うことはなく、協定を結ぶことになる。土地の一部を共有地とすること、定期的に訪れる魔王と勇者の戦いごとに共有地の所有権を人族と魔族の勝利した方が得ること。それが勝利条件となった。
歴代の戦いにおいて勝利が確定しなかった代もある。稀なケースである。しかし百八代は異例中の異例である。ただしそれは今後の関係を考えるうえで一考の余地があると思われる。
1、魔王と勇者
ア)魔王とは
魔王は魔族の長である。
一定の周期で代替わりをする存在でもある。魔族を束ね、その頂点に君臨するが、必ずしも強大な力を持つわけではない。選定の基準は明かされていないが、複合的に要素が折り重なることによって選出されているようである。勇者との戦いにおいてその命を散らすこともあるが、その場合は魔王の配下の者が代行で土地を治めることとなっている。
また魔を纏う魔族には獣人の一部も含まれ、魔族の土地に棲んでいる。魔王の持つ魔の気は彼らの土地に充満し、魔の者には心地よい空気を作り出すのである。
イ)勇者とは
貴賤の謂れなく、聖剣に選ばれた存在である。
人族には部族がいくつかあり、それを束ねるのは勇者とはまた別の存在になる。魔王との戦いにおいては部族間の諍いをやめ、共闘することになっている。聖の気とはいうものの、それを感じ取れる人間は数少ない。ただし獣人には息をするようにわかるものである。魔の気配のするものに鈍くとも、その土地や冠した物に触れるとやはり嫌悪感を抱くのが人間のようだ。
初代が魔王に倒された時には、蹂躙を覚悟したものの魔の者たちは礼儀を具えた紳士であったことを人間は恥じることとなった。
2、百八代の勝敗
ア)通常の代について
はじめに述べたとおり、魔王と勇者の関係の一考になろうというのが百八代である。
まずは通常の魔王と勇者についてだが、ほぼ同時期に魔王と勇者が発現する。それから細かい日程を組んで、戦いへと持ち込むものである。奇襲を仕掛けることも策の一つとして許容されていることから、決着が早い時は十日でついたこともある。五十代のことである。最長は三十二代で、二十七年かかっている。戦争での勝敗が基本である。
また引き分けという結果も稀にある。これは三十二代以降、二十年戦っても決着がつかない場合に適応される。あまりに長期になりすぎると、共有地が開墾されないまま次の代に持ち越されることになり、また人間の勇者では年齢という壁が大きくなるからである。魔族の寿命は人族のおよそ二倍から十倍である。魔王ともなれば最大寿命を持つ者も少なくない。それはフェアではないと取り決められたものだ。
魔王と勇者の顕現の期間もその時々によって変わる。決着がつかないまま代替わりすることはないが、あまりにも短い期間ではどちらも何も出来ぬままである。
イ)百八代について
百八代の魔王はすぐさまその存在を確認することができた。
しかし勇者はなかなか見つからなかった。
その原因は勇者の棲む町にあった。共有地には勝利した方の者が基本住んでいるが、急な立ち退きを命ずるわけにはいかないため、古くからの住人には居住を許可している。ただし人族が負けて魔族に明け渡した場合は土地に魔の気が蔓延するため、引っ越しを余儀なくされる人族が多い。稀に耐えうる者もいるが、少数である。その中で勇者は共有地にある、よりにもよって魔王が顕現した町に現れたのだ。ただし、捨て子としてだが。
百八代の特異性を表すにはまず、勇者であることを知らず魔王が勇者と出会ったことにある。共有地にある町に拠点を置いていた成り立ての魔王は、一人の赤子を町の入り口で見つけたという。しかも魔王自らが発見したということだった。
何も知らぬまま赤子を拾った魔王と魔の者たちだが、親をもちろん捜した。けれど見つからないまま月日は流れ、育てていくことになったのである。赤子は少年へと成長し、彼が勇者とわかるまで、実に十七年の時を要した。
勇者だった少年、もちろん拾われた時は誰も知らなかったのだが、彼が育てられるにあたり問題は多かった。その中で特に魔の土地の問題があった。
人族である勇者は魔の気配に弱い。死の気配に魅入られるほど弱くはなかったが、赤子はある程度に成長するまでよく熱を出した。人族から買った薬で難を逃れ、少年はなんとか歩けるまでに成長する。しかし成長度合いは人族と魔族の差を鑑みても、遅れていた。魔王や魔族は議論を重ね、少年を人族の町へ渡すことも考えた。このままでは満足に成長しないのではないかと不安に駆られたからである。
魔族というと皆最初は驚くのだが、彼らは人族と同じように情を持ち、他種族に対しても礼節を持って接する。違いは先に述べた寿命であり、また強靭さにある。そして魔の土地というのは日の光が当たりにくい性質がある。晴れた日が少ないのだ。大体が曇り、雨もよく降る。魔の性質というのは天候にも左右されるものなのである。日の光というのは人族にとってはとても大切なもので、日に当たることで体の調子を整えている。それなのに光の要素が少ないというのが大いに問題なのだ。
議論は白熱したが、結論は出なかった。魔王が配下の者たちの意見を認めなかったからである。人族の町に渡すというのは最善の方法であったと思うが、魔王に少年も懐いていた。なんだかんだと結論を引き伸ばした魔王はある時思いついたのだ。自分が光の魔法を使えるようになればいいということに、だ。
嘘みたいな話だが、百八代魔王は通称を“光の魔王”という。魔王は本当に光魔法が使えるようになり、少年の成長を助けることになる。光魔法は魔族にとってはつらい魔法だが少年にとっては体が喜びを訴えるほど気持ちの良い魔法だった。少年にインタビューをした猛者がかつていたらしい。それによると、体がほかほかになるのだという。反対に魔族たちは体が恐怖で竦むと言っていた。聞くところによると、魔王は黒い眼鏡を掛けて少年の成長を促していたようだ。
魔王が光の属性を何故扱えたのか、という疑問はあるがここでは二者の関係について最後まで触れておこう。
少年はその後もすくすくと成長し、十代も半ばに差し掛かる。魔王の存在は周知されていたが、勇者の存在が見つかっていなかった。焦るのは人族の擁する聖の気を持つ者たちである。やがて勇者なしで魔王を倒すことはできないかと考え始めた人族たちは魔王の棲む町へ力の強いものたちを送り込むようになった。魔王は領主としてその町に君臨していたので、誰もが領主に謁見を願い出た。魔王もわかっているため、戦いの相手をした。けれどやはり勇者不在というのは難しいらしく、彼らはすぐに逃げ帰ることになったのだ。
人族からの果たし合いが続いたある日、鑑定のスキルを持つ術士が町を訪れた。術士は町に何か弱点がないかと調べてまわり、その際に門番の少年の鑑定を行ったのだ。そして腰を抜かした。
その頃の少年は魔王に仕事がほしいとせがみ、町の出入り口で不審者がいないか見守る任務を負っていた。不審者など溢れているわけではないので、町を訪れた者たちに挨拶をするのが専らの仕事である。
術士の鑑定は、少年が勇者であるというものだった。人族にその情報は瞬く間に広まった。それは魔王にも同様に。
そして少年は聖剣を抜き、勇者となった。
――なったが、魔王と勇者は変わらず元の町に住み、百八代の勝敗はどちらともの共有地という異例の結果に終わる。勝敗を求めて魔族側も人族側も動いたものはいたが、魔王と勇者が互いに引き分けではなく手を取り合うという意見に逆らうことはできなかったのである。
代替わりするまで共有地には初めて魔族の隣人に人族が越してくるという不可思議な現象が続いた。
この勝敗こそが百八代の真骨頂だといえよう。
3、魔と聖
世界には属性というものがある。魔に属する魔族は闇と火と土、聖に属する人族は光と水と風を扱うことができる。これは世界に定められた規律であり、稀に本来扱うことのできない属性を操るものもいるが、本当に稀なことである。
百八代魔王が光属性の術を使えた理由についてはいくつか考えられる。
まず魔王のそもそもの能力が高いことがあげられる。平均的な力では到底できないが、力自体が大きければ苦手なものも掴むことができるのであろう。
もうひとつ想いの強さがある。
魔王は勇者が赤子の頃から育てていた。勇者の方も魔王に懐いていた。人族の町に預けることが最良だとわかっていても、魔王も勇者も一緒にいようとしたのだ。弱っていく姿を見ていくことは魔王にはできなかったのだ。想いの強さなどというと、不確かなものだといわれる。しかし馬鹿にできない力を持っている。
三代の戦いにおいて、勇者が魔王に一度負けた。一度というのがどういうことかというと一度目の戦いで魔王に胸を突かれ死んだのだ。仲間であった術士が必死になって回復の魔法をかけるものの、そううまい話などない。胸に赤い血を滴らせたまま、勇者は人族の土地に戻っていった。戻ってからも術士はずっと勇者を呼び続け、治療を続けた。命のともしびは光を喪ったまま、三日の時が過ぎる。
術士は勇者に好意を寄せていた。勇者によってその才能を見込まれ、地位を上げられ、貧乏な生活から逃げ出すことができた。術士にとって勇者は唯一であった。呼び続け、泣き続け、乞い続けた結果、勇者に再び光をともした。奇跡だともてはやされた出来事に勇者は術士が呼び続ける声を聴いた、と答えた。ずっとずっと呼んでいた声は勇者のもとへ届いたのである。そして勇者は再び魔王に戦いを挑み、辛勝とはいえ勝ち星をもぎとったのである。
こういう例もあるということを考えると、百八代の魔王の想いも相当強かったのではないか、と考えられるのである。
4、世界の形
百八代と通常の代との違いについては理解できたと思う。
かれらの代から学ぶべきことは魔族と人族は必ずしも戦わなくてはならないというわけではないということだ。にもかかわらず、その後も魔王と勇者の勝敗は戦いで決められた。たった一代だけの儚い友情である。
しかし考えてほしい。これからもずっと戦い続けていくのか、と。手を取り合うこともできるとわかっていながら、みすみすその機会をのがすのか、と。いつまでも不毛な戦いを続けていくことが世界の本意なのか、と。
百八代のように生まれた時から一緒ということは不可能だが、歩み寄ることは可能である。我々は対話することができる。武器ではなく手を取り合うことができる。怒りではなく、笑いかけることができる。
それはとても素晴らしいことであると思われる。
おわりに
百八代魔王と勇者は異例中の異例の関係である。だからといってすべてを否定してしまうには惜しいことだ。現在も険悪な関係に陥っているわけではない。けれどいつまでも戦い続けるにはお互いに疲弊するばかりである。
これからの関係がずっと良好に保てるという保証もないのだ。何らかの歩み寄りができることを期待したい。
ただ共有地に関しては取り決めを改めてすることが必要であろう。今回は触れなかったが、魔族と人族がそれぞれに手を加えた土地は気が交じり合って混乱を極めている。場所によっては変容した動物や植物が生えている場所がある。今後棲み分けるとしても気を均等に注ぎ込む必要があると思われる。
また獣人としての立場からすると、いい加減親戚と簡単に会えないというのは問題がある。共有地近くに住居を構えてはいるが、もっと互いに住める土地が増えてくれると助かる。魔を纏う獣人は聖の気を持つものからも生まれるのだ。魔族と人族だけでなく、獣人もこの世界に棲んでいることを忘れないでいただきたい。