56.初陣
冒険中は、日の出の直前に目が覚める。数百年にわたる習慣だ。街中に居る間は、正直、寝起きが悪い。二度寝、三度寝など当たり前の様に惰眠を貪る。しかし、安全が保障されない場所となる別だ。些細な変化ですら、即座に意識が覚醒する。
昨日は、珍しくお互いが詮索しない過去について語った為か、夢に初陣の事が鮮明に出てきた。
戦争の発端は何だったのかは、既に忘れた。人間族がエルフ族へ戦争をしかけてきた事だけは覚えている。何せ二百年以上昔の話だ。記憶が曖昧になってきても仕方ない。
確か、国境付近の砦での防衛戦が初陣で弓兵として出動していたはずだ。
必死に城壁をはしごで上がってくる兵士。それを壁の上から矢で射貫き、地面へ叩き落とす。私が放った矢は、真っ直ぐに兵士の右肩に刺さり、はしごから落ちた。周りは、怒声と剣戟の騒音で小さい音が聞こえるはずが無いのに、地面に落ちた瞬間に兵士の臓器が潰れる鈍い音と骨が折れる乾いた音が克明に私の耳に入る。それが私の初めてだった。初めて人を手に掛けた時の武器が弓矢だったのは、まだ幸運だったのかもしれない。剣とは違い、手に人を斬る感触が無い。
敵は雲霞の如く、はしごを登ってくる。感傷にふける暇は無い。次の矢をつがえ、指を離すと力一杯に引かれた矢が目標へ真っ直ぐに飛び、身体の中に吸い込まれていく。
矢が無くなりそうになり、これでこの場から離れられると甘い考えをした瞬間に補給が届く。こちらの兵站は、作戦通りに動いている様だ。矢が無くなりそうになる頃に、すぐに新しい矢が届き私を戦場から逃さない。すでに何百本という矢を放ち、半数以上を敵に撃ち込んでいる。
矢を摘まむ指先の感覚は無くなり、手袋も破け、血が滲み始めている。だが、まだ敵は諦めずに攻めてくる。遂に矢の補給も止まり歩兵と交代できると思ったが、甘かった。そのまま、分隊長が総員抜剣を命令してくる。つまり白兵戦だ。上がってくる敵を直接斬り殺すのだ。いつのまにか、目の前に攻城櫓が迫ってくる。はしごの兵士に気を取られ、攻城櫓の出現に気がついていなかった。あの櫓が城壁に接岸した瞬間に前面の壁が倒され、敵の歩兵が雪崩れ込んで来る。分隊長が抜剣の命令を出した理由が良く分かる。ここを突破されれば、城壁の中へ敵の侵入を許してしまう。絶対に阻止しなければならない。そんな事は一兵卒の私でもすぐに分かった。そして、あと城壁まで数メートルの所で壁が倒され橋となり、敵兵が雪崩れ込んできた。
私に敵味方の区別をする余裕はない。斬りかかって来る者が敵だ。弓兵に盾や鎧は支給されない。右手に握りしめる支給されたノーマルソード一本で自分の身を守るしかない。弓は、抜剣命令が出た時に邪魔になるので捨てた。
敵が言葉になっていない怒声と共に斬りかかってくる。敵の剣を受け止めると、同じ隊の者がすかさず横から脇腹に剣を突き刺し、敵を屠る。逆に私も味方が止めた敵を背後から貫き屠る。人を初めて自分の意志で刺した。剣先から固い弾力を感じながらもさらに力を籠める。一瞬の抵抗の後、剣先が身体へとのめり込んでいく。敵兵が痛みで叫ぶ。力が緩んだ瞬間に敵と相対していた味方が袈裟斬りに屠る。手に伝わってきた何とも言えない感触。刺している間中、敵の鼓動が剣を通して伝わってくる。自分の中に受け止めるには大きい衝撃で剣を抜くのは忘れ、柄から手を離し両手を思わず見つめる。乱戦による周りから飛ぶ血しぶきや返り血で既に両手は赤く染まっていた。次の敵が襲い掛かってきたが、戦場で武器から手を離してしまっていた。身を守る術がない。身体が固まり、身動きが取れない。大失敗だ。
敵の血走った赤い目が迫り、気迫負けをし、金縛りにあう。私はここで死ぬのか。敵が振りかぶる剣が頭上に落ちてくる。ガツンと鈍い音と共に腰が抜け、城壁に座り込む。私の目は、敵兵の目から離れない。横から味方が敵兵の剣を受け止め、別の味方が敵兵の腹を掻っ捌く。
敵兵の内臓と大量の血液が私の頭上に降りかかる。生暖かい内臓が私の皮膚で波打ち、生温い血液が服の中へと染み込み、私を包み込んでいく。敵の胃液の臭さのせいか、私を気絶させてくれない。ここで気絶できれば、どれだけ自由になれるだろうか。だが、その自由はこの世界からの自由を意味するだろう。やはり、気をしっかり持たなければ駄目だ。
そして、力尽きた敵兵が私を抱きしめる様に倒れてくる。腰が抜けていた私に逃げる方法は無い。正面から受け止める形になった。敵兵は、ただただ重たかった。死ねばただの肉塊だ。そこに命の残滓は感じられない。敵兵の鼓動が徐々に小さくなり、無くなった。これが死ぬという事なのか。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
私は死にたくない!死なない!生き延びる!
私の闘争本能が本性を現した。敵兵の剣を奪い取り、すぐに戦場に復帰する。幼い頃から学んだ剣技を駆使する。刺突、斬撃、受け流し、斬り払い、薙ぎ払いなど身に着けた技を駆使し、敵兵に刃向う。勝てるか勝てないかではない。生きるか死ぬかだ。
私は、死線を超えたくない。生者でありたい。がむしゃらに剣を振るい、戦い続ける。
いつの間にか、軍隊での戦闘訓練の通りの動きが出来ていた。一人が防御し、その隙にもう一人が止めを刺す。必ず一人の敵に複数で戦う。だが、敵は攻城櫓の内部の階段を上がり、次から次へと湧いて出て来る。何度も何度も剣を振るう。途中で剣が折れ、使い物にならなくなるが、補充する剣は足許に幾らでも転がっている。剣が折れる度に敵兵の剣を奪い、己の物とする。長時間に亘る戦闘により神経は麻痺してくる。数時間前に初めて人を殺したとは信じられない。すでに数十人の人間を殺しているだろう。
疲労により体力が潰え、人生を終えようとしていたその瞬間、目の前で攻城櫓が爆炎と業火に包まれ、破壊された。生まれて初めて見た魔法だった。今となっては、何の変哲もない唱え慣れた『火炎爆裂』の呪文だが、攻城櫓の上半分は消し飛び、中に居た敵兵数十人が焼き殺された。これで櫓からの増援は来ない。
援軍の魔法隊が到着したのだろう。そこかしこで業火が上がり、攻城櫓が破壊されていく。
攻め手を失った敵は、退却を始めた。城壁に取り残された敵兵の大半は投降したが、中には刃向う者、逆に逃げようと城壁を飛び下りる者が居た。刃向う者や飛び降りた者に待っているのは死だけだった。仲間を殺されて冷静にいられる戦友は居ない。刃向う者に容赦なく鉄の暴力を振舞うだけだ。飛び降りた者は、勝手に地面と抱擁し、赤い花を咲かせる。
この時、魔法の威力を私は初めて思い知った。身を守るために剣術が重要なのは、身に染みて味わわされた。そして、魔法という圧倒的攻撃力に心を奪われた。この二つを極めれば、私が死ぬことはあり得ない。仲間を街を民をそして何よりも自分を守ることが出来る。この瞬間に私が進むべき道を見つけた。魔法剣士になれば、私は強くなれる。
数時間にわたる戦闘が少女だった私の精神を造り変えた。戦闘前は、城壁の陰に縮こまり、怯えていた。しかし、今の私は背筋を伸ばし、幾百の死体の上で一人前の軍人として、そして勝者として立っている。
同期の者で生き残った者は、戦闘が終わった安心感から吐き戻したり、号泣したりしている。
心が折られた同期は、今、私の目の前で城壁から飛び降りた。自分が何をしたのかを理解し、耐えきれなくなったのだろう。上官に頬を張られても正気に戻らず、呆けている者も居る。こいつ等は、まだ立ち直る可能性が高い。どのグループにも属さず、歴戦の戦士の様に佇む私は、例外だろう。恐らく、人を殺すことに恐れも怖さも感じない生まれついての殺人鬼なのだろうか。だが、人を殺すことに喜びや快感は無い。ならば、殺人鬼が本質ということでは無いのだろう。初陣を終えてここまで落ち着いている新兵は、私だけだ。落ち着いてはいるが、この後、何をすれば良いのかは見当もつかない。やはり、経験不足だな。
戦争に参加しなければ、分からなかった私の本質。
軍人にならなければ、将来の夢を花嫁と純粋に答えた少女のままだっただろう。
目の前にそして眼下に広がる敵と味方の累々と広がる屍。それが私の初陣、戦争の原風景となった。
初陣の夢を見たのは、数百年ぶりだ。過去の清算は、私の中で既に済ませている。懐かしい記憶にしか過ぎない。悪夢とは成りえない。逆に懐かしさすら感じる。それは、現実だったのだ。夢では無い。
三人の中で一番の早起きはカタラだった。すでに火を起こし、朝食の準備を進めている。ウォンもすでに起きており、装備を整えながら朝食が出来上がるのを待っている。
結局、いつも通り私が起きるのが最後か。寝る前に外していた鎧を着け直す。さすがに鎧のまま寝る事は、翌日に堪える。鎧の縁やベルトが圧迫してゆっくりと眠ることが出来ない。
素早く装備を整え、水筒の水で濡らした布巾で顔を拭き、髪に櫛を通す。これで冒険の支度は出来た。冒険中は、この程度しか身支度は出来ない。水は貴重品であり、次に手に入る保証は無い。節水が基本だ。
朝食が丁度出来上がり、カタラが取り分けてくれる。と言っても、干し肉と干し豆を水で戻した簡単なスープだ。まだ、敵地から離れている為、火が使える。敵地に近づくにつれ、隠密性が重要になり火が使えなくなり、冷や飯ばかりを食べることになる。まだ、温かい食事を摂れることに感謝だ。
さて、魔法の地図を確認する。水晶玉は昨日と同じ場所を差している。移動はしていない。ならば、こちらの動きは知られていない様だ。予定通りに進むだけだ。
「カタラ、朝食ありがとう。美味しかった。さて、水晶玉は昨日と同じ場所だ。予定に変更なし」
「はいよ」
「はい、わかりました」
長くパーティーを組むと本当に楽だ。食事の当番や作戦立案などの役割分担が決まっている。一々、決める必要が無い。誰も文句を言わず、その習慣に従う。実に円滑に動いている。
カタラは、先に朝食を済ませていたので、すでに火を消し撤収の準備に入っている。火を使った跡を埋め、私達がいた痕跡を極力消そうとしている。
別にここまで慎重になる必要は無いのだが、長年の習慣だから体が勝手に動くのだろう。
食器を簡単に砂で洗い、片付ける。これで、皆、出発の準備は出来た。本日の冒険の始まりだ。
太陽も真南を通り過ぎた昼下がり、少し大きい気配を一つ空に感じ、近くの大木の陰に隠れる。上空からは大木の葉で見えないだろう。ウォンも同時に感じた様で私と同じく、違う大木に身を隠している。カタラは、私達の動きを読み、一瞬遅れて同じく大木の陰に隠れる。
「なぁ、ウォン、カタラ。あれは何だと思う」
時折、葉の隙間から見える空飛ぶ黒い点について尋ねる。
「ちょいと遠いな。よく分からんが、敵にはならんな」
確かに気配を読む分には、強敵では無い。
「私は視認するのが限界です。判断を任せます」
まぁ、カタラなら仕方がない。この距離で気がつくには僧侶の身では厳しいだろう。
「ミューレ、街道の真ん中に立って来いよ。すぐに正体が判るぞ」
「そういうのは、ウォンの見せ場でしょ」
「普段はそうかもしれないが、死の鍛錬の成果を見せてみろ。というか、実感してみろ。良い相手だぞ」
このまま隠れていても埒が明かないか。ウォンの口車に乗りますか。
「分かった。ウォンの特訓の成果を確認しようか」
バスタードソードを抜き、街道の中央に自然体で立つ。敵もこちらの存在に気づいた様で私を中心に旋回しつつ、高度を下げてくる。
「魔法は使うなよ。剣のみで相手しろよ」
ちっ、魔法で叩き落とし、剣で止めを刺すという、いつもの戦法をウォンに封じられた。楽はさせてくれないか。
「わかった」
少し、拗ねながら返事を返す。徐々に敵の姿がぼんやりと見えてくる。
黒いトカゲに蝙蝠の様な羽が付いたモンスターが一匹だけだ。ドラゴンでは無い。ドラゴンならば胸から腹回りが筋骨隆々としており、こんな細身の体をしたトカゲとは程遠い。ならば、心当たりは、ワイバーンか。モンスターが近づくにつれ、姿形がハッキリとしてくる。細いトカゲの胴体に蝙蝠の翼に蝙蝠の脚。腕というか前足は無い。翼の先に申し訳程度に鉤爪がついている。間違いないワイバーンだ。性格は獰猛で、目に留まる動物を片っ端から襲う肉食のモンスターだ。ドラゴンと違い、知恵は無い。魔法も使えず、本能だけで生きている。面倒なのは炎のブレスを吐く事だろうか。だが、ドラゴンと比べれば非力だ。
中堅の冒険者のパーティーにとっては強敵の部類だが、私達には雑魚に近い。
私の上で旋回しているということは、食料に認定された様だ。ふ、ワイバーンですら私を魅力的に感じるか。
エンヴィーの近くにワイバーンが出るとは珍しい。今まで近辺で目撃情報は無かったと記憶している。何故、突然来襲するようになったのだろう。
これでは、駆け出しの冒険者がこの辺りで練習するのが難しくなるな。まぁ、私の所為ではない…。
いや、待てよ。
…私達の所為だ。簡単な話だ。レッドドラゴンが死んだことにより、空の縄張りが空白になったのだ。そこへワイバーンが進出して来たのだろう。
まさか、レッドドラゴンを退治することによって、この様な状況が生まれるとは考えていなかった。今まで居なかったモンスターが、この付近に現れるという事か。駆け出しには、辛い状況になるかもしれないが、中堅の冒険者が集まってきそうだな。冒険者ギルドに討伐依頼が増え、街の近くで大物を狙える。案外、これでエンヴィーもさらに活気づくかもしれないな。
どうも、私達が意図しない処で世界に干渉してしまった様だ。大型モンスターの増加の原因が判明したら、面倒なことになりそうだ。自由に冒険をしたいだけなのだが。
この事は、黙って、いや、気がつかなかったことにしよう。ウォンもカタラも気がついていないだろうし、今後も気がつかないだろう。私の胸に秘めておこう。面倒事は御免だ。
ワイバーンが、確実に私を狙って来ている。急降下して脚で鷲掴みするタイミングを計っている。こちらとしては、魔法で空から叩き落とせば楽なのだが、ウォンに魔法を禁止されているので、早く降りてきて欲しい。その為、あえて隙だらけなのだが、なかなか降りてこない。踏ん切りの悪い奴だ。
仕方あるまい。背中を見せよう。百八十度振り返り、あえてワイバーンに背中を見せる。ビュンという風を切る音が聞こえた。やっとダイブして来たか。
心の中で数を数える。三、二、一、〇。振り返りながら体を半歩ずらし、バスタードソードを上段から振り降ろす。目の前に翼を大きく広げたワイバーンの脚の鉤爪が迫る。
しかし、身体を半歩ずらした事により、鉤爪が私を捉えることは無い。私のすぐ真横を鉤爪が通り抜け、同時にバスタードソードがワイバーンの右翼の付け根に喰い込み、しなやかに刃がワイバーンの勢いで進み翼を斬り落とす。
片翼を失ったワイバーンは、血を撒き散らしながらバランスを崩し街道に頭から激突し、勢いよく滑っていく。
街道の砂利との摩擦で止まったワイバーンが、痛みの為か、左翼をはばたかせて、私よりも太い尻尾を地面に何度も叩きつけ、無茶苦茶に暴れている。だが、動きは先読みできる。近づくのには何の問題も無い。
無造作にワイバーンへと歩みを進める。尻尾の間合いに入った私の身体を打ち払おうとするが、剣を下から斬り上げ、尻尾を斬り落とす。空を飛ぶために軽量化された密度の無いワイバーンの骨など、私の剣の妨げにならない。さらにワイバーンへ近づいて行く。次は凶悪な脚の鉤爪が、私の顔を掴みかからんとするが、振り降ろした剣が両足を根元から切断し、明後日の方角に吹き飛ばす。残った羽のバタつきが、砂埃を巻き上げ鬱陶しい。ついでに根元から羽を斬り落とす。四肢と尻尾の切り口からどくどくと赤い血があふれ出し、街道の地面に吸われていく。
ふっ、この姿では、ワイバーンもただの蛇だな。
ワイバーンの口許に赤い炎が煌めくが、次の瞬間、全身を一瞬痙攣させすぐに動きを止めた。
ワイバーンの胸元には私のバスタードソードが深々と刺さっている。心臓を一突きし、止めを刺した。
剣を抜き、ワイバーンの皮翼で血を拭う。これがウォンとの特訓の成果か。
これは、自分自身が少し恐ろしくなるな。敵の動きが全て先読みできる。ちょっとした動作が何の動きに繋がるのかが手に取る様に分かる。これならば、攻撃をされても先に避けておくことが出来る。
敵が攻撃を開始した時には、すでに私は回避が終わっているのだ。
ウォンが特訓中に絶対に剣を受けるな、避けろと言った意味が理解できた。本気のウォンの攻撃を一ヶ月も避け続け様としたのだ。それと比べれば、ワイバーンの攻撃は児戯に等しい。
ウォンが常に戦闘で自然体に構えているのは、先読みで回避しているからその様に見えるからだ。私の様に受け流しや受け止めを前提に戦うと構えが必要になる。だが、先に攻撃を避けてしまえば、構える必要が無い。
これが、ウォンが見ている世界か。達人の領域とは、斯くも恐ろしいのか。先読みを早く正確にした者が勝つ世界。技はあくまで攻撃するための補助。一切の力みを無くし、しなやかな筋肉にて攻撃を避け、相手の力を利用して攻撃をする。確かにこれならば長時間戦闘でも息切れやスタミナ切れを起こしにくいだろう。後は、この達人の階段をどこまで昇りつめる事ができるかが今後の課題だな。ワイバーンでは、私一人でも敵にならない。もっと強い敵と相対した時にどこまで実力が発揮できるだろうか。
今は、ウォンと同じ強さの達人に会えば、剣では負ける。もっと五感を磨く必要があるな。
「どうだ、魔法無しでも楽勝だっただろう」
ウォンは、生徒に出した課題が満点だった為、ご機嫌の様だ。
「本当に驚き。身体がここまで勝手に自由に動くとは。今までの戦いと視界が全く違った。これが達人への入口か?」
剣を鞘に仕舞いながらウォンへ確認をする。
「おう、達人の領域の入口だ。まだまだ、堕ちてもらうぞ」
「堕ちる?昇りつめるのじゃないの?」
「高い山に登るにはそれなりの装備が必要で、山には高さの限界があるし、目的地も見えているだろう。だが、奈落の谷に堕ちるのには装備はいらない。体一つで堕ちられる。そして、いつ谷底に辿り着くかも分からない。谷が深くなるほどに光は届かなくなり、周囲が見えなくなり、己が堕ちているのかも分からなくなる。もしかすると途中で岩にぶつかり即死しているのかもしれない。だが、それさえ気がつかない。さらに人間界を抜け、違う世界へ堕ちているのかもしれない。それが達人の領域だな」
「ふ~ん、ウォンにしては珍しく分かりやすい説明だな。ちょいと最後は人外になるという風にも聞こえたけど」
「ほっとけ、得意分野くらいは説明できる。あと、人外になるのは間違いじゃないな。人の器の五感では限界があるだろうし、それも超える必要が俺にも出て来るだろう。それと、額のサークレットは外しとけ。確か精霊の囁きが聞こえる奴だろう」
「邪魔になる?」
「剣を鍛えたいなら外した方が良いな。五感を研ぐ方が大事だ。精霊の囁きという第六感は、五感を研げば不要だろう。現に俺は精霊の声は聞こえないぞ」
「ふむ、可愛くて着けていたのだけど、ウォン先生が言うのなら片付けておくか」
「お洒落をしたかったら、普通の装飾品にしておけ。感知系のアイテムは、装備から外しておけ」
「はいはい、わかりました」
と言っても感知系のアイテムは、このサークレットしか装備していない。幾つか指輪は嵌めているが、基本的に耐寒や硬化などの防御系魔法がかかった指輪だ。これは多少かかっている魔法は違うが、同じ様にウォンやカタラも装備している。五感を研ぐには、これらの装備は問題が無い様だ。
さて、実戦で己の現在の力量が掴むことが出来た。ここでワイバーンと遭遇できたのも結果として良かったのかもしれない。
ワイバーンの死体が街道の半分を塞いでしまった。死体を焼いてしまおうかとも考えたが、周囲の森に飛び火すると後が面倒だ。それに人通りも少ない様だし、放置することにした。後の事は、近くの獣に任せる。餌になり、その内無くなるだろう。
魔法の地図を確認するも、状況は変わっていない。水晶玉に動きは無い。このまま街道を進んで行こう。




