77 :長い友とのしばしの別れ
サイドテーブルに置いた、暗いランタンの灯りの下に紙束を置いた。
ここのところ忘れがちだった魔物メモを書くつもりだ。
今まで出会った魔物は、こっちのデータを主に書き、ゲームとの違いは補足してある。まだ出会ったことのない魔物について、書き出しておこうと思ったんだ。
これまでに見た魔物が同じだからと、今後も同じとは断定できないが、記憶がある内に残しておくのもいいように思えた。
いそいそとメモしていると、揺れた前髪が気になった。
そろそろ、こっち来て一月は経つか?
いやよく数えてなかったが、宿代の十日契約も二週目が始まったばかりだし二十日とちょい?
まだ湿っている前髪の先を指でつまんで、少し引っ張ってみる。目にかかるな。
厳密に地球での状態を引き継いでんのかは知らないが、そろそろ髪を切りに行こうかと考えていたころだったと思う。
爪は、初期装備にあった小型のナイフでちまちまと削っていた。爪が伸びるならこっちも当然か。
「髪も、普通に伸びるんだな」
当たり前なんだろうけど、と思いつつ、当たり前だったことを、この違う世界で体験することが毎度ながら不思議に思える。
「日常がアトラクションか。すげえお得じゃん」
投げやりな言葉が出る。
以前に読んでいた物語の中のキャラクター達が、突然に非日常に投げ出されて、あっという間に馴染んでいたのが今では不思議で仕方ない。まあ、そうしないと話が展開しないからだろうけどな。
身も蓋もないことは脇に置いて、予定をメモしておこう。
「おっさんに床屋の場所を聞くっと」
俺はサイドテーブルの上に、紙を一枚載せておくことにした。何かしら思いついた予定なんかを書く用だ。
こういうものには、簡単に貼ってはがせる付箋紙が欲しいよな。
◇
おっさんとに朝飯を頼むついでに、床屋の場所を聞くことにしたが、床屋と言いかけて口を閉じる。
由来を考えたら通じない?
理髪店とか。あ、もっと単純に聞けばいいやん。
「髪を切る店はどこにあるんだ?」
俺が何かを聞く度に、おっさんのひょっとこ顔を見るのもお馴染みだ。
いつもそんなにおかしなことを聞いてるのかな。きっとただの癖に違いない。多分そうだ。
「王都のようなでかい街でもあるまいに、店なんざねぇよ」
ないのかよ!
王都にはあるってことは人口とか利用頻度の問題だろうか。確かに商売にならなそうではある。
「まぁ西の畑に得意な奴はいるから、そいつに頼むのが多いな。大抵のもんは家族や仕事仲間に頼んでるぞ」
そんなもんなのか。
ギルドで擦れ違う冒険者らを思い返せば、伸びてぼさぼさの奴や、後ろで括ってるのもそれなりに見かけた。
整髪料なんか油くらいしかないようだからそんなもんかと思っていた。
それに、なんだか時代がかって見えるのと、ファンタジックな世界で似合ってるからか、おかしいとは思わなかったんだよな。
「ちぃっと待ってろ。飯を食ったら裏手に来い」
あぁまた返事も聞かずに引っ込んじまった……。
子供のころに、母親に髪を切ってもらったらジグザグ頭になって涙目になった記憶はないか? 俺はある。
今まさにそんな不安が胸中を掠めるが、文句言っても他に手立てはないのだ。仕方あるまい。どのみち元から洒落っ気なんてない。視界の邪魔にならないように短ければいいのだ。
朝食を食い終えて共同井戸へ向かうと、ハサミを手にした女将さんが居た。
「おや来たかい。いつも食べるの早いわねえ。ほらタロウここに座って」
ええぇ。こういのうのは、やっぱ母親担当なのか。
女将さんの前には、ゴザの敷かれた上に木の丸椅子が置かれてある。
手にしているハサミというか、パッと見はニッパーのようなものに目が行ってしまう。枝を切るようなのは、刈込ばさみ? あれっぽい。普通に切れるのかも不安になるが、怖々と近寄り腰かける。
「そのひらひらした服を着たままだとくっついちまうよ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
それ以前にポンチョの首元のにまとめた布が切られても困るな。脱いでおこう。
シャツの襟もとも広いし、ちくちくしそうだ。気休めにしかならないだろうが手拭いでも巻いておくか。
「なんだい、その布きれは?」
「こうしておくと髪が服の中に入らないし、ちくちくしないかなと」
「おぉなるほどねぇ。タロウはかしこいわね」
地球人の知識すげええぇ! なんてことにはならなかったか。
この子ども扱いがむず痒い。そわそわして手の置き場に迷い、腕を組んだ。
「じゃあ、少しじっとしててよ」
どうせ伸びるもんだ。どうなっても気にするな。虎刈りになりませんように!
「ぐげっ」
女将さんはウキウキと変な鼻歌を口ずさみながら、背後からチョークスリーパーをかけるようにゴツイ腕を回してから前髪をガシッと掴んだ。
途端にハサミのシャカシャカシャカと刷り合う音がし始める。
髪じゃなくて頭皮が虎刈りされるんじゃ……や、殺られる!
と思った瞬間――むにゅ。
「う」
タロウはスライムに回り込まれた!
後頭部に生暖かいスライムのダブルアタック攻撃!
頭痛が痛いな感じで頭が痛い!
混乱の状態異常に掛けられたところに新手だ!
「おっタロウ、さっそくやってんな。うちじゃ母ちゃんが一番得意だからよ。ありがたく思えよ?」
「は、はい、タスカリマス」
おお、おっさん神よ、この危機をどうにかしてください!
髪はいいからスライムを退治してくださいどうか!
俺は必死に救いを求める視線を投げた。
だがおっさんは、笑顔を消し目を眇める。
「タロウ、重々承知してっと思うけどよ。母ちゃんがいい女だからって、変なこと考えんなよ?」
誰が考えるか!
俺は熟女専じゃねえ!
「滅相もございません!」
「ははは、冗談だ。いっちょ前に赤くなりやがって」
青くなってんだよ!
「やだよもぅあんたったら。手が滑って刺されたくなかったら、妙なこと言うのはやめておくれ」
「おーこわいこわい。それじゃ終わったら呼んでくれ」
いや、怖いってさ、おっさん……手が滑ったら刺さるの俺じゃないか。
「さて終わったよ。タロウは静かにしてくれるから早かったわ。シェファは落ち着きがなくってねぇ」
ああ、まだ俺は生きていた……。
無心で早く解放をと唱え続けたのが永遠に思えたよ。
歪んだ四角い物体を差し出され、無意識に手に取る。
「もっと短くするかい?」
曇った板に映る、自分の頭を見る。
眉よりもかなり上まで短くなっているが、つららのようにチグハグではないし、バッツンと一直線でもない。それまでの髪が、そのまま短くなったように自然だった。
「う、うまい」
「ほほほ。おだてても、晩の食事に肉が一切れ増えるくらいのもんだよ!」
そしてワンテンポ遅れて、調子に乗っている女将さんの声が聞こえなくなるほどに、驚いていた。
曇って霞んでいても、見覚えのある自分自身の顔だ。しばらく見ていなかったからか、どこか違和感さえあるが、確かに俺だ。
「これ、鏡じゃねえか!」
そこらで見かけないから、溢れてる品ではないんだろう。しかし、この手にあるのは、まごうことなき鏡である。ずっと無いものと思いこんでいたものが、この手にあるではないか。
「ああ珍しいのかい。普段は大して必要ないもんだしね」
「これ、どこに売ってますか!」
思わず、声が大きくなっていた。今までだって使ってないし、ただ生きるのに必須なものでもないが。
文明の利器を個人で持てる時代に生きていたのが、たまらなく懐かしく感じた。
「こんなもんが欲しいのかい。まあ、そこまで高価なもんじゃないだろうけど……安くはないよ? 雑貨屋を巡れば置いてあるところもあるだろうね」
「雑貨屋か! あっ、髪も、ありがとうございました!」
急いで荷物を手にすると、買えるかどうかも分からず駆け出していた。




