66 :謎体質の真相
あれ、どこだここは。
見覚えのある草むらと森が、沈みかけの夕日に赤く照れされている。
腕が痺れて感覚がない。
首を巡らせると、背中には木の柵があった。
街の周囲にある結界の柵だ。
戻ってこれたのか。
どうやら板の隙間に片腕を突っ込んだまま、もたれていたらしい。
俺は寝ていたのか?
いや、多分、気を失っていた。
生まれて初めて、意識がなくなった経験をしたことになるな。
日本にいるときから合わせてだ。
確か森を抜けようとしたときは、まだ昼前だったっけ。
どれだけ時間が経ったのか、よく分からない。
びっくりするほど記憶に残らないもんだな。
倒れる瞬間のことなんかは、微かにでも残るもんかと思っていた。
とうとう、やっちまったな。
いずれ痛い目に遭うだろうと思いながら、どこまでやれるかと突っ走ってみた。
とんだチキンレースだ。
そよ風に草は揺れ、音もなく羽虫が飛んでいる。
ふらつくが、視界ははっきりしている。
「少しは、マシになったか……?」
声も出る。
今の内に移動だ。
柵を掴んで立ち上がる。
もう、血は出てない?
止まってるみたいだ。
なるほど、フラフィエが言っていたな。
みんなマグ回復は、中か高回復を幾つか買っていくって。
小回復なら複数個セットで買うのが普通ってのも理解できる。
出血しながら長距離を移動するなら、こまめに使用するものなんだろう。
余裕ができたら買い足していこうと考えてたのに。
また買い直しだ。
小回復をセットで補充するだけでなく、中回復も買ってみようか。
購入目標も、現時点で必要なものだけでなくメモしておくべきだな。
手が出るものではないと思うものから、無駄な贅沢品と思うものまで全部書き出しておこう。
そんなことを考えては、忘れていたっけ。
とにかく宿に戻ったら、だ。
帰らないと。
安全な場所へ、移動しなきゃ。
少し歩くだけで頭がふらつき、視界が揺れる。
日が暮れかけている。
血も目立たないだろう。
今は、歩かなければ――。
歩いているはずなのに進んでいる気がしない、長い道のりだった。
マシになるどころか、ますます気分は悪い。
走ってもいないのに、宿に到着するころには息遣いも鼓動も激しくなっていた。
それなのに、寒気がする。
「おい足、引き摺ってどうした。何があった」
「軽く怪我しただけだ」
「軽くはないだろう」
「ほんとに、疲れてるだけだから休ませて。自分で戻れるから」
おっさんが驚いて出てきたように思える。
思えるが、この宿はどこも薄暗くて、よく見えない。
視界のゆがみが酷くなっているからではないはずだ。多分。
「薬はあるのか」
「処置はしたよ」
何かあれば呼べと掛けられた声に頷き、手すりを掴んだ。
狭い上に天井だってそう高くもない宿だというのに、階段を上るのに時間が止まったかと思えるほど苦労した。
なぜだろう。
部屋に入るなり真っ先に箪笥が目に入った。
ベッドよりも手前の壁際にあるから、すぐ目の前だが。
そこにしまってあるものが気がかりで近寄っていた。
ああ、やっぱり。
箪笥からコントローラーを取り出すまでもなかった。
赤い空気が体から引き摺りだされ、猛烈な勢いで一点に吸い込まれていく。
本物のマグよりも、ごく薄い赤色だ。
吸い込まれていく光景は、横倒しになっている。
もうベッドまで上がる気力はない。
木の床か。
畳が、恋しいな。
ぼんやりマグが掻き消えるのを見ながら、自宅の居間を思い返していると、体に変化があった。
活力が、湧く。
俺が勝手にレベルアップ時の効果だと思い込んでいる、妙な感覚だ。
まじかよ。
重い腕を腿の傷口へと這わせる。
塞がってる――。
「……ふ、く……は、はは……」
変だな。
気が緩んだのか、笑っちまう。
でも可笑しいわけはない。胸が詰まるような気分だ。
泣いてるような気分なのに、涙は出ていない。
俺も少しは、強くなれたんだろうか……。
◆◆◆
何かを叩くような重い音が聞こえる。
――起きてるのか? 太郎、起きろ!
「んーもう少し……え、親父?」
張り付いたような瞼をこじ開けて目に映ったのは、黒ずんだ床板。
自宅にこんな部屋はない。
ああ、別の世界なんだっけ。
「扉、開けっ放しか?」
そんな声と共に扉が開くのが見えた。
鍵を閉め忘れたのか。
「悪いな入るぞ……タロウ!」
あれ、おっさん?
「起きてこないから来てみりゃ案の定だ! シェファ、薬屋呼んで来い!」
「お、おぅタロウ待ってろ」
なんだよ薬屋って……そこは医者じゃないのか。
「シェファ、いいよ。大丈夫だから」
掠れてひどい声だ。
喉が張り付いていたように乾いていて咳込んでしまった。
そういや随分と水分取ってないよな。
「どこが大丈夫なんだ。てめぇの姿を見てみろい」
素直におっさんとシェファが助け起こそうとするのに従い、ベッドに腰かけた。
傷は、塞がったはずだよな。
手を置いて確かめると、固まった血がガサガサとしているが塞がってはいるらしい。
夢じゃなかった。
紐で縛ったままだったのを思い出して慌ててほどいたが、すっかり緩んでいた。
力が入ってなかったのか……。
詰めていた息を吐き出す。
「マグ回復は使ったんだ。頭は重いけど、これは寝てれば治る」
「そうか……魔技石くらいは持ってたんだな。だが傷は」
「血は止まってる。これも、後は待つしかない」
マグの貧血ってなんていうんだろうな。
「まったく……心配させるんじゃない。だが念のためだ。後で薬屋行ってこい」
多分、俺も言い出したら聞かないと諦めてんのかもしれない。
おっさんは、それだけ言って出ていった。
だけど、シェファはムッとして俺を見下ろしていた。
「人族で冒険者ってだけで大したもんだ。無理に、無茶すんじゃねえ」
そう、なのかな。
「分かってるよ」
俺は、しょうがないから割り切ろうと思いながらも、焦っていた。
意地になっていたんだろう。
部屋に一人、ベッドに腰かけたまま、ぼんやりしているわけにもいかない。
洗濯し損ねたから、さすがに固まった汚れは落ちにくいだろうな。
ふと、箪笥から荷物を引っ張り出した。
相変わらずのコントローラーを膝に置く。
レベルに頼らないなんて言っておいて、結局、どこかで安心していたのか。
本当に、馬鹿だな俺は。
なんとなく数値を確認する。
前回確認したときの数を正確には覚えていないが、多分マグは増えたんだろう。
吸われていくのは幻じゃなかったみたいだし、何よりその時点で体に変化が起こったんだ。
「なんだ、便利な体質になったわけじゃなかったんだな……」
レベルアップ時回復は、俺が異世界から飛んできた時にでも、加えられた能力なんだと思っていた。
ああ、そうか……そうだった。
初めから情報はあったし、気が付いていただろうが!
俺の格好は、この世界のものだ。
しばらくしてからは格好だけじゃなく体ごと変わったと知ったが、それはこっちの世界で普通に生きられるような変化だ。
いわば特別なことを、排除する変化だった。
このコントローラーだけが異質の――元の世界のものだって、気が付いていた。
だったら、俺にだけ起こる不思議な現象があるとしたら。
それは全部、こいつの影響だってことじゃないか?
これが特別なんだといった目線で、よく確認する。
側面には、ごく小さな引っ掻き傷が幾筋かついている。
スチール製のシェルフの角にぶつけてしまったとか、落っことして何かにぶつけながら転がったときについたものだ。
丈夫なもんらしく爪で引っかいてしまったくらいでは傷はつかない。
熱にも強いようで、うっかり夏の窓際で蒸し焼きにしてしまったこともあったが無事だ。
こっちに来てからは、木箱やモグーの葉っぱなんかも一緒に道具袋につめて動き回っていた。
なのに、元にあったもの以外の傷はない。
「まさか……」
思い切って箪笥の角にぶつけてみたが、箪笥の角の方がへこんでしまった。
やばい。ただの木製だったな。ごめんおっさん。
ナイフを取り出し、硬い柄を思い切り振り下ろした。
勢いですっ飛んでいったが、傷はつかない。
刃の先端で軽く突いてみたが、やはり、傷はつかない。
さすがに幾ら丈夫だからって、ナイフの刃には勝てないはずだよな……?
「壊れないし、傷もつかない……幾ら丈夫だからってさすがにここまでは、おかしいよな」
大して意味がなく、直接に役に立つものではないと思っていた。
飛ばされたとき、俺がたまたま手にしていたから付いてきただけと思っていた。
思ったよりも、深く関係するんだろうか。




