141:風が通り抜ける
小さな入り江だ。そう高さはないが、崖の窪みを蔓草が埋めている異様な光景を見上げ、大きく息を吸う。
水が草の塊の下まで流れ込んでいる。道は途切れているが、狭いために、普段はジャンプして渡っているらしい。
現に、シャリテイルは警戒するために向こう側へと渡っていた。
俺だって飛び越えられるなら無視して通りたいような場所だ。
まあ目測で大した幅がなかろうと、俺には飛び越えられる気はしない。
さらには、行く手を阻むように絡んだ蔦が伸びだしているからな。
みっちりと絡まりすぎて、どこが枝か根元かも見当もつかないため、破れかぶれで草の壁へと手を突っ込んだ。蔓はバネのように捻じれているが、手触りは普通の木のように硬い。一部を掴んでいるだけなのに全体が引き摺り出せそうな感触だ。
まずは引っ張り出したところから、少しずつ切り離してみるか。
そうして、ぐいと引っ張った途端、ザァッと音がして、黒い雫が頭上を塗り替えた。
「ひっ……!」
変な声が漏れたのは俺だけでなく、他の奴らからもだ。
思わず飛び退ったが、湿った地面に足を取られてバランスを崩す。
だから、俺は何度言えばこういう時に後ろじゃなくて横に避けるようになるんだよ!
駄目だ。ここで尻餅なんかつこうものなら、すぐ後ろの湖にどぼんだ。
「ふ、んぬうっ!」
ありったけの力を腹と広げた両足に込め、前方へと傾くよう膝を曲げた。
踵が柔らかな草を削って埋まり、どうにか踏みとどまったとき、無情にもそれは引き裂かれた。
ベリッ――不吉な音だ。
冷や汗が流れ落ちるのもそのままに、恐る恐る、己の背後へと手を伸ばす。
せ、セーフ。尻は、割れてない。いや割れてるか。とにかくズボンは平気だ。
「いやぁ、今のはびびったな」
声をかけてきたヤミドゥリに頷く。
黒い粒は、変な虫が一斉に飛び出してきただけで、今はどこかへと消え去ってしまった。脅かしやがって……。
「あ、ああ。魔物じゃなくて良かったな。魔物、いないよな?」
ヤミドゥリに頷きつつ、ウザ兄弟に目を向ける。
「ここには、確かにいない。こんな場所には隠れられないぜ」
「そうだな、んじゃ俺、崖の上を見てくる」
「俺は湖面の方を警戒しておこうか」
「私はこっち見ておくわね」
兄弟が跳んで行き、シャリテイルとヤミドゥリも外を向いた。
確かめるなら、今だ!
急いでポンチョの内側からズボンに手を突っ込み、俺は絶望を味わった。
パンツ、破れてる……。
俺は涙をこらえて草に襲い掛かった。
「こんなもんか?」
眼前には絡まった蔓草の山がある。取り除いたはいいが、縛るのも難しい性質の蔓草だった。蜘蛛の巣草に絡まるように生えていた、跳ね草などというふざけた代物だ。
茎は触手草よりも倍太く、ぬめってはいないが弾性があり、掴もうとすると跳ねるせいで切るまでに固定する方が苦労した。
それが、柱のように固まって生えていたからな。まるで巨大な金たわしだよ。
初めはどこから手を付けたらいいのかと頭を抱えたが、やけになって引き摺り出しまくっていると取り出しやすくなっていた。
「ふぅ、どうにかなったな」
俺の背後で拍手喝采が鳴り響く。
「タロウ、相変わらずやるわね。お疲れさま!」
「さすがは大地の衣を剥ぎとりし者……見事なもんだ!」
「おぉー見違えるように明るくなったな!」
「これで難なく通れるぜ!」
煽てをありがとう。ああ簡単に乗せられてやるさ。どんなことでも、やり遂げるのは気分がいいもんだ。今日は刈り取ったものを持ち帰る必要はなく、まとめることもせずに済んだ分、楽だったかもしれない。
「これはこのままでいいわ」
湖の反対側、滝の辺りで野営当番があるらしい。シャリテイルが乾燥させて篝火の燃料に使おうと言ったので、岩場の隅に移動して終わりだ。絡まり合ってるから風に飛ぶこともないだろう。
せっかく綺麗な湖まで足を延ばしたというのに、景色を楽しむどころではなかったのが残念だ。二度来れるか分からないので、もう一度遠くに霞む滝を眺めると、俺は惜しみつつ湖を後にした。
物悲しい気がしたのは、心なしか風通しの良い股座のせいではないはずだ。
帰り道は、実に平和だった。まあ行きがけに大掃除したんだから、そうそうなにかあっても困るか。
森の中を街へ向けて歩いていると、見覚えのある顔ぶれと出くわした。
「あっれぇ? タロウじゃねぇか!」
クロッタやバロックらの低ランク冒険者だ。
なんだか久々に見かけた気がする。
「よおクロッタ。これから見回りか?」
俺も軽く手を上げて声をかけたが、華麗に無視された。
愕然と立ち止まったクロッタたちは何やら呻いている。
「おいおい、なんだよタロウ! いつの間にやら中ランクと組むようになっちまったのか?」
「くっそ。先を越されるとは思わなかったぜ」
「いや、奴ならなにかしでかすと思っていた……」
俺がお前らよりランク上がるのが早いのは、そんなショックを受けるほど意外かよ。だよな。俺でも思う。
しかし残念ながらそんな事実はない。
「ただの臨時依頼だよ」
「おおあれか! そういや、そんな張り紙を見たな」
あれ。こいつらは、今日の依頼に関係ないの?
なんとはなしにヤミドゥリを見る。クロッタ達の反応に含み笑いしていたヤミドゥリは、俺の疑問を察して答えた。
「これは中ランクの奴らで賄ったんだよ」
危ないサプライズを仕掛けて喜ぶところもあるようだが、基本は面倒見がいいんだろうな。
「はん。余計な気ぃ回しやがって」
「でかい口はランクを上げてから叩くんだな」
おお、格上にたてつくとは。クロッタの奴、なかなかの気概を見せるじゃないか。
それにヤミドゥリは不敵な笑みで返すが、やはりどこか嬉しそうだ。
そういえば、冒険者の間には先輩後輩だとかの上下関係はないみたいだな。
上のランクの奴らに敬意みたいなもんは感じるが、敬語でないと失礼だとかいった話は見聞きしたことがない。まあ正直、身分差についてのあれこれがあろうとも、この街で知る機会はなさそうだけど。
ギルド長が偉い奴の端くれだった気もするが……俺が冒険者である以上は、せいぜい上司と部下って感じに考えて良さそうだし。
クロッタとヤミドゥリが火花を散らす隣で、デメントが俺を見た。
「タロウ。今度は俺らだってちゃんと依頼すっからな!」
「あー、うん。頼む」
そんなことに対抗意識を燃やさなくていいよ。
奴らを見送り、森を抜けた。
畑側の防衛線で足を止めるとシャリテイルは依頼書を取り出し、ヤミドゥリが署名する。
「まだ俺たちは見回りがあるんでな。また、めぼしいもんがありゃ依頼する」
「すげえ助かったぜ」
「なんか新鮮で面白かったよな」
面白くない……と言いたいところだけど、少し楽しかったのは否定できない。
だが出来ることがあるのは嬉しいが、それとこれとは別だ。
「なるべく放置するなよ」
場所が場所だけに、みんな難儀してたんだろうけど、釘を刺すのは忘れない。
「もうあんな草まみれは嫌だからな、なるべく心がけるさ」
あやしいもんだと思いつつ俺は頷き、そこで解散となった。
「じゃあ、私たちはギルドね」
変わらずささっと移動を始めるシャリテイルの後を追う。
後はどうしようか。
空を仰ぎ見ると、まだ青く明るい。苔草の山と違って重量がなかったせいか、随分と早く終わってしまった。
買い物に行こうと決めてはいたし、ちょうど良かったのかな。どの店も閉店を気にせず買い物できるし、気になる物は全部買っておくか?
買い損ねていた必要なもんで大物はブーツと上着だし、結構な額だ。
いや、急に出費が必要になったらどうする気だ。
破れたシャツみたいに。穴のあいたパンツみたいに……クソッ!
でも、一番重要な装備は買った。これでしばらくは、他に大きな出費の予定はない。それ以上の額が必要になるなら、そもそも今の稼ぎで手に入れるのは無理だ。
今から考えたってしかたないさ。
他に考えうる大きな出費といえば、そりゃ家賃だよな。
もしエヌエンの宿が潰れたら……持ち家のようだから、物理的な意味になりそうだが。冒険者用の格安集合住宅の最安値は、たしか月々二万四千マグくらいだっけ。
頼むボロ宿。まだ持ちこたえてくれよ。




