第八話
麗様から頂いた扇は、あの方の移り香のする扇だった。
最後の別れの、あの麗様の顔が扇を見ると思い出されてならなかった。
「この頃は気もそぞろですね」
私の稽古を見ていた小夜様が言った。
「今日の稽古、何だか気が抜けているように思えます」
「申し訳ございません」
私は自分の心の乱れを恥じた。
「まるで恋煩いでもしているように見えます」
「御冗談でしょう。私にはそんな暇はございません」
私は木刀を下におろした。
「そなたは、女子のことばかり考えているのではないか」
小夜様が皮肉っぽく言った。
「決してそのようなことはありません」
そう言いながらも、私は自分の顔がほてってくるのを感じていた。
小夜様は私よりもだいぶ年上であるため、感がいいようだった。実際、私は道ならぬ思いを断ち切ろうともがいていた。あの日の再会のとき、思わず麗様を抱いてしまった。別れてからも、あの時の麗様の姿を愛おしく思い出してしまうのだった。
夏の入道雲が空にあった。厩で馬の背をなで、その様子を見ているときだった。小夜様がいらした。
「明綱、私はこれから馬で遠乗りをしたいと思う。そなたもついてまいれ」
「小夜様、残念なことにこれより用がございます」
「そのようなこと、後にすればよい」
とあっさりと小夜様が言った。
「小夜様がそうおっしゃるのならば、お供いたします」
私はしぶしぶ小夜様のお供をすることにした。
小夜様はかなり馬をとばした。はるか目の前に行く小夜様の馬を、私は自分の馬にむちを打ちながら、懸命に追いかけた。やがて川に近づくと、小夜様はようやく馬を止めた。
「ここで馬を休ませましょう」
川で馬たちに水を飲ませたあと、近くの木に繋げた。水面が陽に反射して、きらきらと立ちのぼるように輝いていた。
「明綱、私たちも休みましょう」
と小夜様は言うと、包みを差し出した。
「むすびですよ。お食べなさい」
「これはかたじけない」
私たちは川べりに座り、むすびを食べた。
「何かあったのですか。この頃様子が変でしたよ」
「そうでしょうか。別段、何もございませんが」
私はむすびを食べながら言った。何故、そんなに私のことを気にかけるのか、小夜様が鬱陶しく思われた。
「聞きましたよ。佐々木家の麗様とそなたのこと」
と小夜様が急に言った。私の心臓が強く打ち始めた。
「忘れられないのですね」
「とんでもない」
私ははっきり言った。
「忘れられないも何も。麗様と私は何もございません。あらぬ噂を本気になさらないで下さい。第一、あの方は兼忠殿という夫がいる身。私とは関係ありません」
「そなたがそう思うなら、それでいいのですが」
「誓って、それが真実です」
「それなら、聞いていいですか」
小夜様は真顔で言った。
「私のこと、どう思います」
小夜様の目は私をじっと見ている。私は返答に窮した。
「本当に鈍い人ですね」
と小夜様は言うと、立ち上がった。
「明綱、もう帰りましょう」
小夜様は馬に乗ると、館を目指した。
小夜様はさっぱりとしたご気性だったので、女性としてはあまり気かけてはいなかった。でも、あのときの小夜様は一人の女だった。
それから私と小夜様は変わらなくしていた。
夕時、私が自分の部屋に一人いると、小夜様の侍女のお菊殿が来てこれをどうぞと、新しい着物を差し出した。
「小夜様からです。小夜様が縫われたのですよ」
「えっ、小夜様がこれを」
どういうことかと私は思った。
「あなたの着物がほころんでいたからです」
あの小夜様が縫い物をされるとは、信じられない気がした。
「それは、しかし、頂いていいものでしょうか」
「小夜様のお心遣いを拒むおつもりですか」
侍女がむっとした顔で言った。
「いや、そんなつもりは、ただ申し訳ないと思いまして」
「ただしこの事は、あなた様の胸におさめておいて下さい。小夜様にもお礼を言わなくても宜しいそうです。他の者に気づかれたら困るからです」
「誠に、お気遣いいただき、ありがたき所存。小夜様にはお礼を申し上げて下さい」
私はお菊殿に礼を言い、頭を下げた。
「小夜様にお伝えしておきます」
と言うとお菊殿は部屋を出て行った。小夜様のお気持ちはありがたいものだったが、小夜様には、これからどう接すればよいのか迷うところだった。