第十六話
安川、増田の野心がみえてきた佐藤家では、いずれは戦になるかもしれないと準備をし始めた。佐藤家は資金力が豊富であるため御家来衆を増やした。それに伴い、領地の境界を厳しく検問するようになった。
御家来衆も増え、剣術の稽古も盛んに行われるようになったため、私も以前に比べて忙しくなっていた。
そんな中、佐藤家では久しぶりに能楽師を呼ぶことになった。
佐藤常春様は商才に秀でていたが、芸事もお好きな方だった。そのため、時々、能楽師を招いて能を楽しまれていた。しかし、ここのところの忙しさに能を楽しむことが減っていたのだ。
「わしも楽しみたいと思ってな、明綱も来るように」
と常春様にお声をかけて頂き、私は近習の御家来衆とともに夜の能をみることにした。
夕闇の中、薪が燃やされ、御家来衆も久しぶりの能に浮き立っていた。
その日の演目は、源氏物語の宇治十帖の浮舟だった。
浮舟は、光源氏の息子薫大将が愛した女性だったが、光源氏の兄の朱雀院の息子匂宮と密通してしまう。二人の男の愛の狭間で苦しむ女の物語だった。
能が終わると、常春様が言った。
「今日の能はみごとであった」
私は二人の男の愛に懊悩する浮舟に、麗様を重ねていた。
「佐々木殿、お顔色が良くないようだが」
私の隣に座っていた佐久間殿が言った。
「それは夜のせいでしょう。美しい能でした」
と私は言った。
能が終わったあと、御家来衆に酒がふるまわれたが、私は途中でその場を立ち去った。
能を見た日から、私の心は揺れ動いたいた。
常春様が急いで伝えたい事があると、私を呼んだ。
「何用でごじましょうか」
常春様があらたまった様子で言った。
「佐々木信明様がお亡くなりになった」
「誠でございますか」
私はその知らせに思わず顔を伏せた。しかし、涙をこらえることができなかった。
「そなたにとっては、父も同然の人だったのであろう」
「はい、私を武士として育てて下さった方です」
寺から私をひきとり身内として慈しんで下さった信明様。その信明様がもはやいないとは。
「佐々木家もめんどうなことになったな。あとを継いだ兼忠殿は安川の家臣だったからのう。それになかなか難しい御仁らしい」
「信明様のように、話がわかるようには見受けられませんででした」
「そのようだな。これから、いろいろと考えていかねばならぬな」
私は気持ちをこらえて言った。
「佐藤家の包囲網ができないようにしなくてはなりません」
「それは、わしも手だてを考えておる」
と常春様は考え深げに言った。
私は話を終えるとひとりになった。
寺での再会のときの信明様がお目にかかった最後となった。ありし日の様々なことが思い出され、私は不覚にもその場で泣いた。




