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彷徨のヘカトンケイル  作者: 真先
プロローグ
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プロローグ

 

『仕事が楽しみならば人生は極楽だ。仕事が義務ならば人生は地獄だ』

 

 求人雑誌のコラムに載っていたその格言には、不思議な説得力があった。


 パイプ椅子に深々と腰掛け、自分の人生をあらためてふり返ってみる。

 芝浦のファミリーレストランでウェイトレスのアルバイトを始めてから約三ヶ月。

人生と呼ぶにはあまりにも短い期間だが、毎日が地獄そのものだった。


 仕事そのものに不満は無い。

 可愛い制服を着て愛想笑いを浮かべながら注文を運ぶだけの簡単な仕事だ。

 時間に融通が利くので学業の合間に小遣い稼ぎをするのに都合がいい。

 何より食事付きというのが魅力的だ。給料や待遇はこの際目をつぶる――今のご時勢、仕事があるだけありがたいと思わなければ。


 接客業にありがちな客とのトラブルも上手く回避してきた。

 深夜シフトのため来客は少ないのだが、まれにとんでもなく厄介な客が訪れたりする。

 今夜の客などは、その中でも最たるものだろう。


 ガッシャーン!


 休憩室まで響き渡る食器の割れる音に耳を傾けながら、そ知らぬ顔で求人雑誌をめくる。

 客席で暴れている三人の少年達は――平たく言ってしまえば酔っ払いだった。


「なめてんじゃねぇぞぉ! コラァッ!」


 一人は何が不満なのか、怒鳴り声と共に窓ガラスに向かってグラスを投げつけ、


「イィィィィッヤァッハッハアァァァァッ~!」


 もう一人は何が楽しいのか、叫声を挙げながらフロア中を駆けまわり、


「……汚れが、汚れが落ちないよぉ、ウッウッ、ヒック!」


 最後の一人は何が悲しいのか、右手に持ったおしぼりで泣きながらテーブルを雑巾がけしていた。


 未成年の分際で酒なんか飲むからこんなことになるのだ。

 こういう客は放っておくに限る、下手に止めに入るとかえって被害が大きくなるだけだ。

 幸運にも客は三人の酔っ払いだけ。酔いつぶれるまで放っておけばいい。


 三ヶ月もウェイトレスをやっていれば接客術も自然と身につくものだ。

 しかし世の中には、何年も接客業に携わっていながら酔っ払い一人もあしらえない不器用な人間もいるもので、


「ああ! あたしの店が!」


 その職業適性に著しく欠ける人間というのが、よりにもよってこの店の支店長だと言うのだから救いようが無い。


「ちょっと! ボサッとしてないで、早く止めてきてちょうだいよ!」


 上司としての立場はおろか男としてのプライドも無いのか、休憩室のドアに身を隠しつつフロアを伺っていた支店長はこちらに向き直り命令してきた。

 店を心配しつつも、自分で止めに行くつもりは端から無いようだ。いよいよもって、救いようがない。


「……まだ休憩中でーす」


 休憩時間中に起きたトラブルなんぞ知ったことではない。

 慌てふためく支店長を無視して、求人雑誌のページをめくる。


 そもそも騒ぎの原因を作ったのはほかでもない、この気弱な支店長だった。

 未成年と思われる客がアルコール飲料を注文した場合、身分証の提示を求めるのが市の条例で決まっている。

 にもかかわらず『条例なんて誰も守ってないわよ。今時酒ぐらい小学生だって飲んでいるじゃない。飲みたいやつには飲ませてやればいいのよ。それで店が儲かるんだからいいじゃない』と言って周囲が止めるのも聞かず酒を出したのは、他ならぬ支店長自身だ。


「あんたアルバイトでしょう!? 時給下げられたくなかったらとっとと行きなさい!!」


 客席を指差し支店長は居丈高に命令するが、再び無視してページをめくる。

 バイトを始めて三ヶ月と言うもの、支店長はずっとこんな調子だった。

 この口ひげを蓄えた小柄な中年男は、驚くほどに仕事ができないくせにやたらと威張りちらし、命令するだけで自分では決して動こうとはしない。

 周囲の人間が黙って従うのは、給料を減らされるのを恐れている事もあるが、下手に手伝われてもかえって仕事の邪魔になるからだ。


 ウェイトレスの仕事はともかく、この男の横柄な態度だけはどうにも我慢できない。

 最近、真剣に転職を考え始めた所だ。

 今もこうして求人雑誌を眺めているのだが、条件のいい職場はなかなか見つからないが、ここにいるよりかはマシなはずだ。


「ふざけんじゃねぇっ!」

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

「……なんでだよぉ。何で落ちねぇんだよォッ!!!」


 店内に絶叫がこだまする。

 客席の騒ぎは順調にエスカーレートしているようだ。

 拡大する店の被害を防ぐため、支店長は戦法を変えてきた。

 先程の高圧的な調子とは打って変わって、拝むように両手を合わせて頭を下げる。


「時間を稼いでくれるだけでいいのよ。ついさっき、ヘカトンケイルに通報したら……」

「ヘカトンケイルを呼んだんですか!!」


 さすがにこれは無視することはできない。求人雑誌を放り投げ立ち上がった。

 仕事ができない男だとは思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった――よりにもよってあのヘカトンケイルに通報するなんて!


「こういうときのためのヘカトンケイルでしょ! これ以上、店の被害が広がる前に……」


 ヒステリックにまくし立てる支店長が口をつぐむ。

 店外に何かを見つけたらしく、支店長の表情が明るくなる。


「来た!」


 支店長に倣って外を見ると、いつの間にか店の前に黒いライトバンが停車していた。

 店頭の明かりが、ライトバンから降車する数人の人影を照しだす。


 人影は出入り口に向かって小走りに駆け寄ると、荒っぽい動作でドアを開けて店内入って来た。

 いずれも屈強な体格の男達ばかり。鍛え上げられた肉体を、軍服めいた漆黒の制服で覆っている。

 東京市民ならば一度は目にしたことがあるだろう、漆黒の制服はヘカトンケイルの象徴だ。


 黒服の男達の姿を目の当たりにして息を呑む。

 ヘカトンケイルを間近で見るのは初めてだったが、何故かこれから起きるはずの大惨事を容易に想像することができた。


「いやいやいやいやいや! お待ちしていましたよ! お仕事、ご苦労様ですぅ~!」


 支店長は職業能力はおろか、想像力も無いらしい。

 卑屈な笑みを浮かべつつ、リーダー格と思しき腕章をつけた男の元へ小走りで駆け寄った。


 つくづく情けない。

 仕事の適正以前に人間的な何かがこの男には欠落している。

 この先どんなことがあっても、この男を好きになることは無いだろう。


 三ヶ月目にしてようやくこのアルバイトを辞める決心がついた。

 次の仕事が見つかり次第、すぐにでも辞職を申し出るつもりだ。


 ……もっとも、それまでこの店が残っていればの話だが。


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