第十章 咲き誇る花と終わらない契約
大戦の凄惨な嵐が去り、アジトの周囲には静まり返った夜の帳が降りていた。 無惨に壊壊された正面門の瓦礫は片付けられ、夜風が焦げた匂いと血の残り香を遠くの山々へと運び去っていく。荒くれ者たちが疲弊し切って泥のように眠りにつく中、アジトの最深部、静寂に包まれた広間の頂にある石造りのテラスには、二つの影がたたずんでいた。カシラとシルカだった。テラスの縁に腰掛け、月光を浴びながら手元の麻布で血を拭っているシルカの隣に、巨体を揺らしてカシラが歩み寄る。カシラは手に持っていた薬酒と清潔な布をドスンと横に置くと、無造作にシルカの前に腰を下ろした。「……傷を見せろ、シルカ」 「……自分でできる」 「減らず口を叩くな。手元が狂ったままで俺の首が狙えるか」カシラはそう言い捨てると、巨大な手でシルカの小さな肩を強引に引き寄せた。 嫌がりもせず、シルカはボロ布の服を少し肌から肌けて見せる。その細い肩や脇腹、太ももには、先ほどの黒狼団との大戦で刻まれた真新しい斬創や擦り傷がいくつも残っていた。だが、過酷な環境とカシラの元での猛烈な食事と鍛錬によって、かつて骨が浮き出ていた少女の体躯には、無駄のないしなやかな筋肉と強靭な生命力が宿っていた。カシラは骨太な指先で薬酒を布に染み込ませると、シルカの傷口へと慎重に押し当てた。 ズキリ、と強い痛みが走るはずだが、シルカは赤い瞳を少し細めただけで、声一つ上げない。
「……たくましくなったな」
薬塗りの手を動かしながら、カシラが低く呟いた。 出会った頃のシルカは、路地裏のゴミ箱をあさり、死人のような目で傷んだ肉を貪っていたただの虫ケラだった。風が吹けば倒れ、一撃で骨が砕けるような儚い浮浪児。 だが今、目の前にいる少女は違う。幾重もの死線を自らの狂気と冷徹な計算で潜り抜け、敵の首を躊躇なく狩り集め、さらにはこの巨大な頭領の背中すら守り抜く「一人の本物の戦士」へと変貌を遂げていた。「……カシラ」 「なんだ」 「あんたの肩の傷……深かった」シルカは薬酒の瓶を手に取ると、カシラの巨大な肩口に刻まれた無骨な傷跡へと手を伸ばした。 鉄のように硬い肉体。その皮膚に触れると、灼熱のような体温と、力強い脈動が直に指先へと伝わってくる。「……この傷は、私が油断したから」 「抜かせ。あれくらいで俺が死ぬか。……お前が割り込まねば敵の腕を一本余計に叩き斬っていただけだ」強がりを言うカシラの言葉に、シルカは微かに唇を歪めた。 それは、出会った頃には決して見せることのなかった、小さく密やかな「笑み」だった。「ふふ……強がり」 「……なんだと?」 「あんたの首は太くて、強くて……世界で一番美しい。だから、他の誰にも触らせない」シルカはカシラの太い首筋にそっと手を添えた。 親指の下で、ドクン、ドクンと打ち打つ巨大な動脈の脈動。刃を一閃させれば吹き出すであろう圧倒的な命の奔流。その圧倒的な存在感を、シルカは愛おしむように、そして狂おしいほどの独占欲を込めて確かめていた。カシラはシルカのその手を受け止め、ゆっくりと手首を握り返した。 二人の視線が、月光の下で交差する。 カシラの鋭い野性の瞳と、シルカの冷徹で美しい赤い瞳。そこにあるのは、甘いロマンスや同情などではない。互いの命を最高額の獲物として狙い合い、他人の介入を一切許さない、二人だけの歪んだ「絶対の絆」だった。
「……約束通り、立派な花になったな、シルカ」
カシラは逞しく成長したシルカの頬に大きな掌を当て、愛おしむように、そして猛獣が獲物を品定めするように目を細めた。
「泥の中で芽を吹き、踏みつけられても折れず、血と殺意の中で狂い咲いた……見事な花だ」
「……咲いたよ。あんたが名を与えてくれたから」
シルカはカシラの掌に頬を寄せ、冷酷な声で、しかし深く息を吸い込んだ。
「花は咲いた。だから――次は、あんたの首を刈る番だ」
カシラの口端が、野獣のように大きく吊り上がった。
「言ったはずだ。……『花として咲いたなら、喰ってやる』とな」
カシラはシルカの顎を少し持ち上げ、その顔を覗き込んだ。
「だが、俺の首を取る準備ができるまで、絶対に死ぬな。……他所の雑魚にその首を渡してみろ、死体ごと刻んで犬の餌にしてやる」
「渡さない。あんたの首も、私の首も……二人だけのものだ」
殺意と愛憎が交錯する密やかな契り。 二人は夜空を見上げた。 いまや近郊の無法地帯を完全に手中に収めた二人だったが、その視線の先――暗雲の立ち込める遠い王都や国家の影では、さらに強大な貴族社会や暗躍勢力が、この盗賊社会の撲滅とカシラの首を狙って動き出そうとしていた。広大な世界、さらなる死線、強大な敵。 だが、二人の胸にあるのは怯えなどではなかった。
「行くぞ、シルカ。俺の隣で、もっと咲き誇れ」
「うん、カシラ。あんたの首を刈るその日まで――どこまでもついて行く」
冷たい夜風の中、一輪の狂おしい「花」と、それを喰らおうとする「野獣」は、殺意と信頼を抱いたまま、さらに深き戦乱の世界へと向けて静かに歩み出していった。
【エピソード一 完】




