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人の恋は蜜の味

恋の劇薬 〜捕らわれた蝶〜

作者: ヒロオカ トモエ
掲載日:2026/05/25

これは乙女ゲーム『人の恋は蜜の味』に登場する攻略対象、ルーカス・フォレストの物語。

 ルーカス・フォレストは、今日も“完璧な王太子”だった。


 誰に対しても穏やかに微笑み、貴族達の会話に耳を傾け、婚約者であるエアリス・ハーデン公爵令嬢を丁寧にエスコートする。


 それが当然だった。


 フォレスト国第一王子。未来の国王。双子の兄。

 生まれた瞬間から与えられた役割が彼にはあった。

 だが、その肩書きを外した時、自分が何者なのかは分からなかった。


「お疲れですね、ルーカス殿下」


 ふいに掛けられた声に、ルーカスは視線を向けた。

 ストロベリーブロンドの髪色と、人懐こく笑うエメラルドブルーの瞳。

 スタール男爵令嬢――ユア・スタール。


「……そう見えるか?」


「ええ、今にも倒れそう……」


 そう眉尻を下げると、くすりと笑う。

 喧騒の夜会の隅。誰もが王太子の顔色を窺う中、彼女だけが違って見えた。


「無礼だな」


「すみません。でも、王太子殿下って、皆に気を遣われすぎてるでしょう?」


 その言葉に、ルーカスは返答を失った。

 気を遣われる。

 いや、違う。期待されているのだ。

 王太子として。未来の国王として。

 失望されないために笑い続ける。

 それが、時折たまらなく息苦しかった。


「殿下、眠れていますか?」


「……なんだ急に」


「目の下、酷いですよ」


 ユアは触れるか触れないかの距離に手を伸ばし、言った。

 婚約者であるエアリスですら、そんなことは言わない。彼女だからこそ、言わないのかもな。完璧な女性だ。美しく、賢く、非の打ち所がない。


 だが時折、ルーカスは思う。


 彼女と話していると、まるで精巧な人形を相手にしているような感覚になる。彼女が見ているのは、“王太子”という肩書きだけではないのか、と。


「少し、休まれた方がいいですよ」


 ユアはテーブルのグラスを手に取った。


「人って、壊れてからじゃ遅いので……」


 その声は優しく魅惑的だった。

 その後も彼女はルーカスの前に姿を現した。

 公務の合間。夜会の片隅。人気のない回廊。


 触れそうで触れられない距離だった二人は、いつの間にか境界線さえ曖昧になっていく。


「また弟殿下派が騒いでるんですって?」


「……耳が早いな」


「貴族は噂話が好きですから」


 ユアは楽しそうに笑った。


「大変ですね、王太子って……」


 他人事のように言う。

 憐れみでもなく、期待でもない。

 それが妙に心地よかった。


「皆、殿下に“完璧”を求めるんでしょう?」


 ルーカスは黙った。


「でも、人間なんだから嫌になる日もありますよね……」


 その瞬間。

 胸の奥に押し込めていた苦悩が、ひび割れた。


 逃げたい。

 投げ出したい。


 そんな弱音を、初めて誰かに見透かされた気がした。


「……情けないな」


「どうしてです?」


 ユアは首を傾げた。


「弱いことって、そんなに悪い事ですか?」


 悪魔の囁きのようだった。



 ◇



 ある日、ルーカスは耳にした。

 ルーカス派の筆頭貴族が重い病に伏せた、と。今、彼を失うと派閥勢力に乱れが起こる。

 しかし、王宮医師達でも治療は難しいらしい。

 その時だった。


「お父様なら、もしかしたら力になれるかもしれません」


 ユアが静かに微笑んだ。

 国内最高医師。ブラッド・スタール男爵。

 その名が持つ意味を、ルーカスは知っていた。


「……条件は?」


「嫌ですねー」


 彼女は目を丸くして頬を軽く膨らませる。


「私はただ、殿下の力になりたいだけです」


 そう言って笑う。

 脅迫ではないが、断れない希望という名の鎖だった。


 気付けば、ルーカスは彼女を探していた。


 エアリスと踊りながら。政務中に。眠れない夜に。

 そうした日々が、幾度となく続いた。


 ユアは、甘い毒のようだった。

 彼女の前では、王太子でいなくていい。

 醜い嫉妬も、弱さも、逃げたい願望も。

 全部肯定してくれる。


 世界で唯一、自分を理解してくれる女性。

 ――そう、思いたかった。


「殿下って、真面目すぎるんですよ」


 そう言って笑う彼女に、救われていた。

 ――いや、救われたと思い込んでいた。



 ◇



 ある日の婚約者エアリスとのお茶会の日――。


「婚約を、解消したい」


 その言葉を口にした瞬間、婚約者のエアリスは静かに目を伏せた。


「……理由を、お聞きしても?」


 責める声ではなかった。

 いつもと変わらぬ完璧な令嬢の声。

 それが、今は酷く苦しかった。


「すまない……」


 謝罪しか出てこない。

 エアリスはしばらく沈黙し、やがて微笑んだ。


「殿下は、お優しい方ですね」


 その言葉が刃のように胸へ刺さる。


「だから壊れてしまったのでしょう」


 ルーカスは顔を上げた。

 エアリスは穏やかに微笑んでいた。

 けれど、ドレスの裾を握る指先だけが、小さく震えている。


「……私は、最後まで殿下のお傍にいるつもりでした」


 一瞬だけ睫毛が伏せられる。

 零れそうになった涙は、顔を上げる頃にはもう消えていた。


「どうか、お幸せに……」


 彼女は全て気付いていた。

 それでも何も言わなかった。

 最後まで、完璧な婚約者だった。



 ◇



 その夜。

 ルーカスは王城を抜け出し、ユアの元へ向かった。


「君のためなら、全部捨てられる」


 掠れた声でルーカスは言った。


 王位も……名誉も……未来も……


 全部捨てても惜しくない。

 どうしてもユアを失いたくない。


 ユアは黙ってルーカスを見つめていた。


 その瞳は、まるで宝石でも鑑賞するように静かに輝いている。


 頬がわずかに緩む。

 嬉しいからではない。

 目の前で、完璧だった王太子が音を立てて崩れていく、その瞬間を味わっているかのようだった。


「……ああ」


 ようやく漏れた声は、どこか満ち足りていた。


 なぜか、その返事だけで胸騒ぎがした。


 沈黙が二人の間に落ちる。


 そして――。


「ざーんねん。本当に壊れちゃったんですね」


 熱が冷めたような声だった。

 ルーカスの背筋が凍る。


「ユア……?」


「私、壊れる前の貴方の方が好きでした」


 残酷なほど無邪気に微笑む。


「壊れる寸前の殿下、本当に綺麗だったのに」


 その瞬間、ルーカスは理解した。


 彼女は救いではない――。

 壊れる寸前の人間だけを、美しいと笑う女だった。


 崩れ落ちるルーカスを横目に、ユアはゆっくりと立ち上がる。


「次は誰にしようかな?」


 独り言のように呟き、扉へ向かう。


 その先、窓の外ではルーカスの護衛騎士達が笑い合っていた。その中で、一人だけ真っ直ぐな眼差しを向ける青年がいた。


 ユアは一人へ視線を向け、小さく口角を上げ、そっと呟く。


「……あの人も、綺麗に壊れそう」


 そして振り返り、ふと思い出したように笑った。


「ねえ殿下?」


 エメラルドブルーの瞳が細められる。


「欲しい物を欲しがって、何が悪いんですか?」


 そう言うと、軽い足取りで夜の闇へ消えていった。


 籠の中には、もう飛べない蝶だけが残されていた。

ここまで読んで頂きありがとうございます。

本編『ママじゃない~攻略対象の母に転生したので、破滅エンドを潰します~』では、ルーカスの母親が破滅回避のため奮闘中です。

今回の短編は、“もし救われなかったら”という可能性の一つとして書きました。

よろしければ、本編の方も読んで頂けると嬉しいです。

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