恋の劇薬 〜捕らわれた蝶〜
これは乙女ゲーム『人の恋は蜜の味』に登場する攻略対象、ルーカス・フォレストの物語。
ルーカス・フォレストは、今日も“完璧な王太子”だった。
誰に対しても穏やかに微笑み、貴族達の会話に耳を傾け、婚約者であるエアリス・ハーデン公爵令嬢を丁寧にエスコートする。
それが当然だった。
フォレスト国第一王子。未来の国王。双子の兄。
生まれた瞬間から与えられた役割が彼にはあった。
だが、その肩書きを外した時、自分が何者なのかは分からなかった。
「お疲れですね、ルーカス殿下」
ふいに掛けられた声に、ルーカスは視線を向けた。
ストロベリーブロンドの髪色と、人懐こく笑うエメラルドブルーの瞳。
スタール男爵令嬢――ユア・スタール。
「……そう見えるか?」
「ええ、今にも倒れそう……」
そう眉尻を下げると、くすりと笑う。
喧騒の夜会の隅。誰もが王太子の顔色を窺う中、彼女だけが違って見えた。
「無礼だな」
「すみません。でも、王太子殿下って、皆に気を遣われすぎてるでしょう?」
その言葉に、ルーカスは返答を失った。
気を遣われる。
いや、違う。期待されているのだ。
王太子として。未来の国王として。
失望されないために笑い続ける。
それが、時折たまらなく息苦しかった。
「殿下、眠れていますか?」
「……なんだ急に」
「目の下、酷いですよ」
ユアは触れるか触れないかの距離に手を伸ばし、言った。
婚約者であるエアリスですら、そんなことは言わない。彼女だからこそ、言わないのかもな。完璧な女性だ。美しく、賢く、非の打ち所がない。
だが時折、ルーカスは思う。
彼女と話していると、まるで精巧な人形を相手にしているような感覚になる。彼女が見ているのは、“王太子”という肩書きだけではないのか、と。
「少し、休まれた方がいいですよ」
ユアはテーブルのグラスを手に取った。
「人って、壊れてからじゃ遅いので……」
その声は優しく魅惑的だった。
その後も彼女はルーカスの前に姿を現した。
公務の合間。夜会の片隅。人気のない回廊。
触れそうで触れられない距離だった二人は、いつの間にか境界線さえ曖昧になっていく。
「また弟殿下派が騒いでるんですって?」
「……耳が早いな」
「貴族は噂話が好きですから」
ユアは楽しそうに笑った。
「大変ですね、王太子って……」
他人事のように言う。
憐れみでもなく、期待でもない。
それが妙に心地よかった。
「皆、殿下に“完璧”を求めるんでしょう?」
ルーカスは黙った。
「でも、人間なんだから嫌になる日もありますよね……」
その瞬間。
胸の奥に押し込めていた苦悩が、ひび割れた。
逃げたい。
投げ出したい。
そんな弱音を、初めて誰かに見透かされた気がした。
「……情けないな」
「どうしてです?」
ユアは首を傾げた。
「弱いことって、そんなに悪い事ですか?」
悪魔の囁きのようだった。
◇
ある日、ルーカスは耳にした。
ルーカス派の筆頭貴族が重い病に伏せた、と。今、彼を失うと派閥勢力に乱れが起こる。
しかし、王宮医師達でも治療は難しいらしい。
その時だった。
「お父様なら、もしかしたら力になれるかもしれません」
ユアが静かに微笑んだ。
国内最高医師。ブラッド・スタール男爵。
その名が持つ意味を、ルーカスは知っていた。
「……条件は?」
「嫌ですねー」
彼女は目を丸くして頬を軽く膨らませる。
「私はただ、殿下の力になりたいだけです」
そう言って笑う。
脅迫ではないが、断れない希望という名の鎖だった。
気付けば、ルーカスは彼女を探していた。
エアリスと踊りながら。政務中に。眠れない夜に。
そうした日々が、幾度となく続いた。
ユアは、甘い毒のようだった。
彼女の前では、王太子でいなくていい。
醜い嫉妬も、弱さも、逃げたい願望も。
全部肯定してくれる。
世界で唯一、自分を理解してくれる女性。
――そう、思いたかった。
「殿下って、真面目すぎるんですよ」
そう言って笑う彼女に、救われていた。
――いや、救われたと思い込んでいた。
◇
ある日の婚約者エアリスとのお茶会の日――。
「婚約を、解消したい」
その言葉を口にした瞬間、婚約者のエアリスは静かに目を伏せた。
「……理由を、お聞きしても?」
責める声ではなかった。
いつもと変わらぬ完璧な令嬢の声。
それが、今は酷く苦しかった。
「すまない……」
謝罪しか出てこない。
エアリスはしばらく沈黙し、やがて微笑んだ。
「殿下は、お優しい方ですね」
その言葉が刃のように胸へ刺さる。
「だから壊れてしまったのでしょう」
ルーカスは顔を上げた。
エアリスは穏やかに微笑んでいた。
けれど、ドレスの裾を握る指先だけが、小さく震えている。
「……私は、最後まで殿下のお傍にいるつもりでした」
一瞬だけ睫毛が伏せられる。
零れそうになった涙は、顔を上げる頃にはもう消えていた。
「どうか、お幸せに……」
彼女は全て気付いていた。
それでも何も言わなかった。
最後まで、完璧な婚約者だった。
◇
その夜。
ルーカスは王城を抜け出し、ユアの元へ向かった。
「君のためなら、全部捨てられる」
掠れた声でルーカスは言った。
王位も……名誉も……未来も……
全部捨てても惜しくない。
どうしてもユアを失いたくない。
ユアは黙ってルーカスを見つめていた。
その瞳は、まるで宝石でも鑑賞するように静かに輝いている。
頬がわずかに緩む。
嬉しいからではない。
目の前で、完璧だった王太子が音を立てて崩れていく、その瞬間を味わっているかのようだった。
「……ああ」
ようやく漏れた声は、どこか満ち足りていた。
なぜか、その返事だけで胸騒ぎがした。
沈黙が二人の間に落ちる。
そして――。
「ざーんねん。本当に壊れちゃったんですね」
熱が冷めたような声だった。
ルーカスの背筋が凍る。
「ユア……?」
「私、壊れる前の貴方の方が好きでした」
残酷なほど無邪気に微笑む。
「壊れる寸前の殿下、本当に綺麗だったのに」
その瞬間、ルーカスは理解した。
彼女は救いではない――。
壊れる寸前の人間だけを、美しいと笑う女だった。
崩れ落ちるルーカスを横目に、ユアはゆっくりと立ち上がる。
「次は誰にしようかな?」
独り言のように呟き、扉へ向かう。
その先、窓の外ではルーカスの護衛騎士達が笑い合っていた。その中で、一人だけ真っ直ぐな眼差しを向ける青年がいた。
ユアは一人へ視線を向け、小さく口角を上げ、そっと呟く。
「……あの人も、綺麗に壊れそう」
そして振り返り、ふと思い出したように笑った。
「ねえ殿下?」
エメラルドブルーの瞳が細められる。
「欲しい物を欲しがって、何が悪いんですか?」
そう言うと、軽い足取りで夜の闇へ消えていった。
籠の中には、もう飛べない蝶だけが残されていた。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
本編『ママじゃない~攻略対象の母に転生したので、破滅エンドを潰します~』では、ルーカスの母親が破滅回避のため奮闘中です。
今回の短編は、“もし救われなかったら”という可能性の一つとして書きました。
よろしければ、本編の方も読んで頂けると嬉しいです。




