血のバレンタイン
## 1. 激安旅行
2月13日の寒い朝、バレンタイン前日の新幹線の中で、田所早紀は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。隣では弟の健太がゲームに夢中になっている。前の席では父の浩一が駅弁を広げ、母の由美子がお茶を注いでいる――ごく普通の家族風景だった。
東京に向かう新幹線の中。早紀は中央大学の学生だ。去年の四月に上京し、もうすぐ一年が経とうとしている。多摩キャンパスに通う毎日で、大学と八王子近辺の寮の往復だけ。アルバイト先のコンビニもキャンパス近くの小さなものだ。新宿も渋谷も、テレビで見たことあるだけで、実際に行ったことはほとんどない。新宿なんて、電車で1時間以上かかる遠い場所だと思っている。
「早紀、新宿ってどんなとこ?」
由美子が後ろの席から尋ねる。
「え? あー……大きな駅だよ。人がたくさんいて」
早紀は適当に答えた。実際、新宿に行ったことすらない。でも、それを認めるのは悔しかった。東京の大学生なのに、東京のこと何も知りませんなんて、情けなさすぎる。
「お姉ちゃん、案内してよ!」
健太が無邪気に言う。早紀は小さくため息をついた。
「……まあ、なんとかなるでしょ」
今回の家族旅行は、父・浩一の思いつきだった。「早紀の顔を見がてら、東京観光しよう。バレンタイン前だし、家族で甘いもの食べに行こうぜ」と。由美子は最初乗り気ではなかったが、「激安の宿見つけたんだ」という言葉に負けた。一泊二千円。家族四人で八千円。東京のど真ん中でそんな宿があるはずがない。でも、家計はいつも火の車だ。
「本当に大丈夫なの? その旅館」
由美子がまた不安そうに言う。
「大丈夫だって。ネットで見つけたんだ。口コミも悪くなかったぞ」
浩一は気楽に言うが、早紀はスマホで調べた宿の写真が少し気になっていた。古いけど広い部屋。風呂が広い――確かに良さそうではある。でも、なんだろう。このもやもやは。多摩キャンパスに通う自分には、この宿が新宿のどこにあるのか、見当もつかなかった。
「お姉、ピザ食べたい」
健太が突然顔を上げて言った。
「バレンタインなのにピザ? チョコじゃなくて?」
早紀がからかうと、健太は照れくさそうに笑った。
「ピザのほうがいいもん。チーズがいっぱいで、みんなで分けられるし」
早紀は適当に答えた。
「旅行に行ったらピザ食べようね」
まさかこの言葉が、後に重要な意味を持つとは思わなかった。
新宿に着いた。改札を出ると、人、人、人。早紀は改めてその人の多さに圧倒された。多摩キャンパスの最寄り駅もそこそこだが、ここは桁が違う。
「すごい人だね」
由美子が早紀の腕を掴む。田舎から出てきたばかりのような反応だが、早紀も内心は同じだった。でも、それを顔に出してはいけない。
「慣れてるよ。こっちこっち」
早紀は適当な方向に歩き出した。スマホの地図アプリをこっそり確認しながら。宿の場所は新宿の中心から少し外れたところらしい。
迷いに迷って、ようやくたどり着いたその宿は、表通りから少し入った場所にあった。派手なネオンはなく、地味な看板には確かに「旅館 松の湯」と書いてある。
「ほら、あったぞ」
浩一が先に中に入る。早紀は一瞬、隣の建物に「ラブホテル」の看板があるのを見てしまい、慌てて目をそらした。こんな場所にある宿、普通じゃない。でも、そんなこと言えない。多摩から通う自分が、東京に詳しいふりをしている手前、何も知らないなんて認められない。
中は思ったよりきれいだった。古いけど清掃は行き届いている。フロントの男は愛想がよく、部屋まで案内してくれた。
「お客さん、ラッキーですよ。今の時期、こんな広い部屋がこの値段で泊まれるなんて」
確かに部屋は広かった。古い畳のにおいがするけど、窓からは新宿のビル群が見える。風呂も共同だが、タイル張りの広い浴室だった。
「よかったじゃない」
由美子もようやく安心した顔になる。
「だから言っただろ。ネットで評判いいって」
浩一が誇らしげに言う。早紀は窓の外を見ながら、心の中でつぶやいた。本当に大丈夫なのかな。でも、親に心配をかけるわけにはいかない。東京に住む大学生なんだから、しっかりしなきゃ。
「お姉ちゃん、すごいね。こんなとこ知ってるなんて」
健太が尊敬のまなざしで見る。早紀は苦笑いした。
「まあね」
## 2. 食堂の夜
夕方になり、浩一が言い出した。
「夕食、どうする? 外に食べに行くか」
由美子が窓の外を見る。もう暗くなりかけている。知らない街の夜道を歩くのは少し怖い。
「ホテルに食堂とかないのかしら」
早紀がフロントに電話してみると、意外な返事が返ってきた。
「ありますよ。一階の奥です。夕食は六時から九時まで。会員制ですが、宿泊のお客様は特別に利用できます」
会員制という言葉に由美子はますます安心した様子だ。
「高級な料理が出るのかな」
健太が目を輝かせる。早紀は少し引っかかるものを感じたが、言わないでおいた。多摩キャンパスに通う自分が、東京のことに詳しいふりをしている手前、ここで疑問を口にするわけにはいかない。
六時、家族四人は一階の食堂に向かった。廊下は薄暗く、ところどころ電球が切れている。食堂の扉を開けると、そこは思ったより広い空間だった。
テーブルが十ほど並び、半分くらいは先客がいた。皆、スーツ姿の男性ばかりだ。こちらを一瞥するが、すぐに元の会話に戻る。
「なんだか、ちょっと怖いね」
由美子が小声で言う。確かに、客たちの雰囲気は普通の旅行者とは違う。でも、もう入ってしまった。
「大丈夫だよ、母さん。東京じゃ普通だから」
早紀は平然と言ってのけた。実際は全く普通じゃないと感じていたが、家族の前で弱みは見せられない。
給仕の女性がメニューを持ってきた。年配の、無愛想な女だ。
「おすすめはこれです」
指さしたのは、一万五千円のコース料理。家族四人で六万円。浩一は一瞬ひるんだが、せっかくの旅行だと奮発することにした。
料理は思いのほか美味しかった。刺身は新鮮だし、肉も柔らかい。由美子も「意外と大丈夫そうね」とほっとした顔を見せる。
ただ一つ気になったのは、隣の席の男が吸うタバコの煙だった。由美子が咳をすると、男はちらりとこっちを見て、わざとらしく煙を吐き出した。
「あの……」
早紀が言いかけると、浩一が手で制した。
「いいんだ。すぐ出るから」
その時、奥の席から一人の男が立ち上がった。年の頃は三十前後だろうか。細身で背が高く、品の良いスーツを着こなしている。整った顔立ちは、まるで雑誌のモデルのように美しい。しかしその瞳の奥には、底知れない冷たさが潜んでいた。
彼が近づいてきて、早紀たちのテーブルに手をかけた。
「お客さん、どちらから?」
「埼玉ですが」
浩一が警戒しながら答える。男はにっこり笑った。その笑顔は人を惹きつける魅力があったが、どこか作り物めいていた。
「そうですか。ゆっくりしていってください。ここはいい宿ですよ」
そして去っていく。その後ろ姿を、健太がじっと見つめていた。
「あの人、かっこいいね」
「しーっ」
早紀が健太の口を押さえる。なぜかわからないが、あの男からは危険な匂いがした。でも、それを家族に言うわけにはいかない。東京暮らしの私がそんなことで怖がってるなんて、笑われてしまう。
会計の時、浩一は目を丸くした。
「九万……?」
「ええ、お客様。こちら明細です」
先ほどの無愛想な給仕が明細を差し出す。コース料理六万円に、ドリンクやサービス料が加わっていた。
「でも、メニューには……」
「こちらのメニューをご覧になりましたか?」
給仕は別のメニューを差し出す。そこには確かに、今の料金が書いてあった。さっき見せられたのとは違う。
「どういうことだ」
浩一が抗議しようとした時、先ほどの美しい男が再び現れた。
「何か問題ですか?」
「いえ、この料金が……」
「当館の料金体系をご理解いただけなかったようですね。でも、もうお召し上がりになった後ですし」
男はにこやかだが、その目は笑っていない。周りの客たちがこちらを見ている。全員が、同じような目をしていた。
由美子が震えながら浩一の腕を掴んだ。
「……わかった。払おう」
浩一はカードを出した。男は満足そうにうなずく。
「ありがとうございます。よい旅を」
部屋に戻る廊下で、早紀は振り返った。食堂の扉の向こうから、低い笑い声が聞こえてくる。
「早く部屋に戻ろう」
由美子に急かされて、早紀は走り出した。心臓がドキドキしている。でも、それを家族に知られてはいけない。私は東京に住んでいるんだから、こんなことくらい平気なんだ。
## 3. 監禁
翌朝、異変に気づいたのは早紀だった。エレベーターに行こうとして、階数表示がおかしいことに気づいたのだ。
「ねえ、エレベーター、うちの階がないよ」
家族で確認すると、確かにボタンには4階までしかない。でも部屋は5階だ。
「階段で降りればいいだろ」
浩一が言って廊下を進むと、階段の前にサウナがあった。そしてその前に、スーツを着た男が立っている。昨夜、食堂で煙草を吸っていた男の一人だ。
「お客さん、どちらへ?」
男は低い声で言った。その目がまったく笑っていない。
「ちょっと、散歩に」
「今日は荒れてますから、おとなしく部屋にいたほうがいいですよ」
男はにこりともせずに言った。そのポケットに、拳のようなふくらみがあるのを早紀は見てしまった。
部屋に戻ると、由美子が青ざめた顔で言った。
「電話、つながらないの」
スマホの電波はある。でも部屋の電話は不通。窓から下を見ると、入り口に何人ものスーツの男が立っている。
「どういうことなの?」
由美子が泣きそうな声を出す。健太はまだ状況がわからず、ゲームを続けている。
「……落ち着け。まずは状況を確認しよう」
浩一は平静を装ったが、額に汗がにじんでいた。
その時、ドアがノックされた。返事をする前に、男たちが入ってくる。五人ほどのスーツ姿。最後に入ってきたのは、昨夜の美しい男だった。
「お客さん、ごめんね。ちょっと事情があってね」
男はにこやかに言った。その笑顔が逆に怖い。
「今夜、ここで大事な会合があるんだ。終わるまで、静かにしていてほしい」
「いつ終わるんですか?」
浩一が尋ねると、男は首をかしげた。
「さあ? うまくいけば明日の朝。でも、もしかしたら明後日かもね」
「そんな、仕事が……」
「仕事? ああ、そうか。普通の人は仕事があるんだった」
男はくすくす笑った。その笑い声が部屋に響く。
「でもね、おじさん。ここに泊まったのが運の尽きだよ。一泊二千円なんて、安すぎると思わなかった?」
早紀は拳を握りしめた。私がちゃんと調べていれば。多摩キャンパスに通うくせに、こんな怪しい宿だと気づいていれば。家族を危険にさらしたのは、私のせいだ。
男たちが出て行った後、部屋に沈黙が落ちた。健太だけが無邪気に尋ねる。
「ねえ、あの人たち誰? 怖い人?」
由美子が健太を抱きしめた。その肩が震えている。
早紀はスマホを握りしめた。電波はある。でも、助けを求める電話をしたらどうなる? 見つかったら?
「お父さん」
早紀が小声で言った。
「私、逃げる。コンビニに行くって言って。ここから出て、警察に連絡する」
「無理だ。あの男たちがいる」
「でも、私なら。女の子一人なら、油断するかも。それに、私、東京に住んでるから。道もわかるし」
最後の言葉は明らかな嘘だった。新宿の地理なんて全然わからない。でも、ここで役に立てない自分が情けなかった。せめて、何かをしなければ。
浩一はしばらく考えた末、小さくうなずいた。
「気をつけろよ」
「うん」
早紀は深呼吸をして、ドアを開けた。廊下には誰もいない。サウナの前の男は、スマホを見ていた。あの煙草を吸っていた男だ。早紀が近づくと、顔を上げる。
「コンビニ、どこにありますか? おなかすいちゃって」
早紀はできるだけ普通の声で言った。男はじろじろと早紀を見たあと、面倒くさそうに手を振った。
「出て右、二つ目の角。すぐ戻れよ」
「はい」
早紀は早足で外に出た。朝の新宿。人は多い。このまま逃げられる。
でも、歌舞伎町は迷路だった。一度入った小道から、どこに出るのかわからない。走っても走っても、同じような看板が続く。振り返ると、さっきの宿がどこかもわからなくなっていた。
「警察……警察はどこ?」
焦りが募る。東京に住んでるのに、こんなこともわからないなんて。自分が情けなくて涙が出そうになる。
その時、線路が見えた。JRの線路だ。ホームにはまだ電車が止まっていない。でも、線路に飛び降りれば、電車が来るまでには誰かが気づくはず。
早紀はフェンスに手をかけた。
「お嬢さん!」
後ろから声がした。振り返ると、警察官が立っている。
「何をしているんですか? 危ないですよ」
「警察の方! 助けてください! 家族が……」
早紀が駆け寄ろうとした時、警官の顔を見て、言葉を失った。
その顔は、さっきまでサウナの前に立っていた男だった。煙草を吸っていた、あの男だ。
早紀が固まっていると、警官――偽物の警官――がゆっくりと近づいてきた。
「お嬢ちゃんが逃げるから、ご家族大変なことになってるよ」
男はスマホを取り出し、画面を早紀に見せた。
そこには――
ホテルの一室が映っていた。スーツの男たちが、本物の銃を撃ち合っている。壁に穴が開き、ガラスが割れる。その中で、頭を抱えてうずくまる浩一と由美子、そして健太の姿があった。
「いや……」
早紀の手から力が抜けた。
「総武線の撮影はまだですか?」
偽警官の一人が尋ねる。
「あと一時間はかかりますよ。始発前の撮影枠、なかなか取れなくて」
別の男が答える。
「そうか。じゃあ、それまでに片付けよう」
早紀は腕を掴まれ、連れ戻された。
## 4. 銃弾のホテル
部屋に戻ると、由美子が泣きながら早紀を抱きしめた。健太は怖がって、母親の後ろに隠れている。浩一は窓の外を見つめていた。
「ごめん、お母さん。捕まっちゃった。それに、あの警官、偽物だった。サウナの前にいた人だった」
早紀の声が震える。由美子はさらに強く早紀を抱きしめた。
「いいのよ、早紀。あなたのせいじゃない」
「でも、私がちゃんと調べていれば……東京に住んでるのに、こんな場所だって気づけば……」
「東京に住んでたって、新宿のことなんてわからないわよ。私だって地元のこと全部知ってるわけじゃないもの」
由美子の言葉に、早紀ははっとした。そうだ、私はずっと強がっていただけだ。東京に詳しいふりをして、実際は何も知らなかった。
その時、スマホにLINEの着信。見知らぬ番号からのビデオ通話だ。恐る恐る出ると、そこに映し出されたのは――さっき偽警官に見せられたのと同じ光景。ホテルのどこかの部屋で、スーツの男たちが銃を撃ち合っている。その隅で、別の家族が頭を抱えてうずくまっている。
「今、二階で楽しいパーティーをやってるんだ」
声と同時に、画面にあの美しい男の顔が映る。
「お父さんたちも、後で招待してあげるね」
通話が切れた。
「嘘……」
由美子が崩れ落ちた。浩一は拳を握りしめている。
その時、ドアが開いて若い女が入ってきた。早紀と同じくらいの年格好。十九か二十。派手な服装で、だらりとしている。
「あんたたち、まだいたの」
女は面倒くさそうに言った。
「ピザ食べたい」
早紀は思わず聞き返した。
「ピザーラ。食べたい。でも外に出るの面倒。あんた、さっき外に出たんでしょ。代わりに頼んでよ」
女はそう言って、スマホを差し出した。その態度は、まるで友達に頼むみたいだった。
「……注文するだけなら」
早紀が受け取ると、女はにこっと笑った。
「ありがと。でも逃げないでよ。あんたの弟、可愛いから。傷つけたくないし」
その一言で、逃げる選択肢は消えた。
早紀はピザーラに電話した。テリヤキチキンとマルゲリータ。配達先を告げると、女は満足そうにうなずいた。
「三十五分ね。待つわ」
そして振り返りもせずに出て行った。
三十分後、ホテルにピザーラの配達員が来た。女が受け取りに行く。その隙に、何かできるかもしれない。でも、女はすぐに戻ってきて、ピザの箱を開けた。
「食べる?」
早紀たちに差し出す。あまりの非現実さに、由美子も健太も呆然としている。
「おいしいのに」
女はひとりでピザを食べ始めた。その様子を見て、健太が小さく言った。
「……食べたい」
由美子が止める間もなく、健太がピザに手を伸ばす。女はくすっと笑った。
「いい子ね。あんた、名前は?」
「健太」
「健太か。私はマキ。よろしく」
この状況で、なぜかほっこりする空気が流れた。でも、その瞬間、階下から大きな音がした。銃声だ。
マキの表情が変わる。
「始まったか」
そう言うと、彼女は立ち上がった。
「ここにいろよ。絶対に出るな」
そして出て行った。
数分後、廊下が騒がしくなった。悲鳴、怒号、そしてまた銃声。早紀たちは固まって身を寄せ合った。
ドアが激しくノックされた。
「開けろ!」
浩一が覚悟を決めてドアを開けると、血まみれの男が倒れ込んできた。その手には銃がある。
「お父さん!」
早紀の叫び声。でも浩一は男から銃を奪い取っていた。
「由美子、子どもたちを連れて隅に」
浩一は銃を構えた。その手は震えている。彼は普通のサラリーマンだ。銃を握ったことなんてない。
廊下から男たちが次々に現れる。浩一は目をつぶって引き金を引いた。銃声が轟き、男の一人が倒れる。
「当たった……?」
自分のしたことに驚いている余裕はない。次から次へと襲いかかる男たちに、浩一は必死で銃を撃ち続けた。
「お父さん、すごい……」
健太が目を輝かせる。その時、一人の男が廊下の奥から現れた。あの美しい男だ。彼は無傷で、にこやかに歩いてくる。
「すごいじゃないか、お父さん。でもね」
彼はひらりと銃弾をかわし、浩一の間合いに入った。次の瞬間、浩一の体が宙を舞い、廊下の壁に叩きつけられた。
「お父さん!」
早紀が叫ぶ。美しい男は浩一の髪を掴んで引きずりながら、階段へ向かう。
「ついてこいよ。温泉でゆっくりしよう」
由美子が立ち上がった。
「待って! 主人を離して!」
彼女は男に飛びかかった。だが、男は軽く手を振るだけで、由美子を壁に弾き飛ばした。由美子の頭が壁に激突し、そのまま動かなくなる。
「お母さん!」
早紀が駆け寄る。由美子の目は閉じていた。息をしていない。
「お母さん……お母さん!」
叫び声が廊下に響く。でも、由美子はもう動かなかった。
男はその様子を一瞥し、無表情で言った。
「邪魔な女だ」
そして浩一を引きずって階段を下りていく。
早紀は由美子のそばに跪いたまま、動けなかった。健太が小さな声で言う。
「お母さん……?」
その声が、早紀を現実に引き戻した。
「健太はここにいて。絶対に出ちゃだめだよ」
早紀は立ち上がり、階段を追った。
## 5. 湯煙の中で
温泉は広かった。湯気が立ち込め、視界が悪い。美しい男は浩一を湯の中に放り込んだ。
「あったかいだろう?」
自分も服のまま湯に入る。銃は持っていない。素手だ。
「お前の家族、いい家族だな。特にあの娘。上智大生なんだって? 頭いいんだな」
浩一は歯を食いしばった。
「妻を……由美子を殺したな」
「ああ、あの女か。飛びかかってきたからな。自業自得だ」
男はのんびりと湯につかりながら言う。
「でも、面白い家族だと思ってさ。最後くらい、ちゃんと見送ってやろうと思って」
「最後……?」
「もうすぐ、ここは全部片付くんだ。証拠も、人も、全部」
男は立ち上がった。湯気の中から、その端正な顔が浮かび上がる。
「じゃあな、お父さん」
男の手が浩一の首を締め上げた。浩一は必死にもがくが、敵わない。湯の中で沈みかけた時、誰かが入ってきた。
「やめろ!」
早紀の声だ。
「出て行け! 来るな!」
浩一の叫びも虚しく、男は早紀を見て笑った。
「娘さんが見送りに来たぞ。いい娘だな」
その瞬間、浩一は脇に落ちていた何かを掴んだ。それは、湯に沈んでいた鉄の棒だった。力の限り振り回す。
男がよける。が、足を滑らせた。その隙に、浩一は立ち上がり、鉄の棒を男の頭に叩きつけた。
男が湯に沈む。湯煙の中で、その体が浮かんだり沈んだり。そして動かなくなった。
「はあ……はあ……」
浩一は荒い息をついた。早紀が駆け寄る。
「お父さん! お母さんが……お母さんが……」
「知ってる。見てきた」
浩一の目に涙が浮かんでいる。でも、彼はそれを拭わなかった。
「健太は?」
「部屋にいる。大丈夫」
「よかった……」
浩一はそう言うと、急に苦しそうな表情を浮かべた。自分の体を見下ろす。そこには、深い刺し傷があった。いつやられたのか、気づかなかった。
「お父さん!」
「……やられたな。さっきの男に、やられたんだ」
浩一の体が崩れ落ちる。早紀が支えようとするが、大人の男性の体重を支えきれない。
「早紀……健太を……頼む」
「いやだ! お父さんも生きろよ!」
「すまんな……いい娘に……育ってくれて……ありがとう……」
浩一の目が閉じた。その手が、早紀の手から滑り落ちる。
「お父さん……お父さん!」
早紀の叫びが湯煙の中に消える。
その時、後ろから声がした。
「すごいな、お父さん。でも、死んじゃったか」
振り返ると、さっき沈めたはずの男が、湯の中から立ち上がっていた。頭から血を流しながら、それでも笑っている。
「でも、まだ終わってないよ」
男がゆっくりと近づいてくる。その手には、バタフライナイフが光っていた。
「さあ、次はお前か? それとも……」
その時、小さな影が湯煙を抜けて現れた。
健太だ。
「お姉ちゃん!」
「健太! 来ちゃだめ!」
でも健太は走ってくる。そして、倒れている浩一を見て、立ち止まった。
「お父さん……?」
「健太……お父さんはね……」
早紀は言葉を続けられない。健太はしばらく呆然としていたが、やがて男を見上げた。
「あんたが、お父さんを殺したのか」
男はにこやこと健太を見下ろした。
「そうだよ。でも、お父さんも僕の仲間をたくさん殺した。戦争だからね」
「戦争……」
「そう。そして戦争では、強い者が勝つ。お前も強くなりたいか?」
男はしゃがみ込み、健太と目線を合わせた。
「これ、やるよ」
バタフライナイフを健太の前に差し出す。
「憎ければ、殺せ。でも、正しいやり方で」
健太は震える手でナイフを受け取った。その目に涙が浮かんでいる。
「お父さんの仇を討てば、お父さんは喜ぶのか?」
「さあ? やってみなきゃわからない」
男は笑っている。その笑顔が、酷く優しく見えた。
健太はナイフを握りしめ、思い切り男の胸に突き立てた。でも、刃は通らない。厚手の服に阻まれて、ぱっと落ちる。
「あーあ、違う違う」
男はナイフを拾い上げ、健太の手に握らせ直す。
「こう構えて、体重を乗せるんだ。身体ごとぶつかるように」
その時、後ろで動く気配がした。さっき浩一に撃たれたヤクザが、這いながら近づいてきていた。その手には銃がある。
「健太、逃げろ!」
早紀の声。でも健太は動かない。男の言う通りに、ナイフを構えた。
「そう、その調子。体重を乗せて、一気に」
ヤクザが引き金を引こうとした瞬間、健太は走り出していた。小さな体を弓のようにしならせ、ナイフごと相手にぶつかる。
今度は通った。刃が肉を裂き、男は悲鳴を上げて倒れた。
健太は立ちすくんでいた。自分のしたことが信じられない。手が血で赤く染まっている。
「……できたぞ」
振り返ると、男が立っていた。満面の笑みを浮かべて。
「よくできました、健太」
男はゆっくりと拍手をした。その拍手が、湯煙の中で虚しく響く。
「覚えておけ。この感覚を。お前はやれる子だ」
早紀は立ち上がり、健太を抱きしめた。
「もういい。もうやめて」
男はそれを見て、軽く首をかしげた。
「そうだな。今日はここまでにしよう」
そして男は、湯の中に消えた。いや、先ほど沈めた時に、本当に死んでいたのか。湯煙の中で、その姿はもう見えなかった。
「健太……行こう」
早紀は弟の手を引いて、温泉を出た。後ろで、湯煙の中に浮かぶ父の体が見えた気がしたが、振り返らなかった。
外が明るくなり始めていた。長い夜が明けようとしている。
## 6. 十年後
それから十年が経った。今日は2月14日、バレンタインデー。
新宿の雑居ビルの一室。ラブホテル街の裏手にある、いかがわしい雰囲気の店だった。
「おばさん、出てけよ!」
若い男の怒鳴り声が響く。早紀は無表情でそれを聞いていた。二十九歳になった。化粧は濃いが、その下の疲れた肌を隠せない。
「ごめんね、すぐ片付けるから」
客の男は舌打ちして出て行った。同僚の若い女が冷ややかに見ている。
「田所さん、今日もう上がっていいよ。どうせ指名ないし」
マネージャーも面倒くさそうに言う。早紀は小さくうなずいて、更衣室に入った。
スマホを見ると、一件のメッセージ。
「今日、バレンタインだな。会える? 新宿来てる」
送り主は「健太」だった。
十年ぶりに会う弟。あの夜から、健太は変わってしまった。両親を失った子どもたちは、親戚の家に引き取られたが、すぐに施設に送られた。そして施設で、健太は再びあの男に出会ったと言う。
早紀は指定された場所に向かった。歌舞伎町の奥、小さなクラブの前だ。中からはジャズが流れている。
入ると、スーツを着た若い男が立っていた。健太だ。二十五歳になった弟は、スーツが似合う精悍な男に成長していた。その目は、あの夜の湯煙の中で見た、冷たい光を宿している。
「姉さん」
健太は軽くうなずいた。その後ろに、数人の男たちが控えている。皆、健太を「兄貴」と呼ぶ。
「久しぶり」
早紀は言った。その声は震えていなかった。もう何年も前から、感情を殺すのがうまくなっていた。
「上がって。話がある」
健太に案内された席には、一人の男が座っていた。その顔を見て、早紀は凍りついた。
十年前のあの夜、湯煙の中に消えた男――あの美しい顔が、そこにあった。まったく変わっていない。十年という時間が、この男には意味を持たないかのように。
「お久しぶりです、お姉さん」
男はにこやかに言った。あの夜と同じ、作り物めいた笑顔で。
「……あなたは」
「あの時はお世話になりました。お父さんもお母さんも、立派な最期だった。健太はいい子に育ってますよ」
男は健太を愛おしそうに見る。健太もまた、その視線を受けて、わずかに口元を緩めた。
「姉さん、紹介する。俺の親分だ」
早紀はすべてを理解した。あの夜、健太はあの男に魂を売ったのだ。バタフライナイフで人を殺した瞬間から、ずっと。
「今日はね、お姉さんに提案があって来てもらいました。バレンタインだ。特別な日だから」
男はワイングラスを手に取った。
「あなたも、もう若くない。デリヘル嬢なんて、体がもたないでしょう。ウチで働きませんか?」
「……何の仕事?」
「いろいろ。でも、あなたにぴったりの仕事があるんです」
男はにっこり笑った。
「ピザーラの配達員、どうですか?」
早紀の顔色が変わった。あの夜、マキのためにピザを注文したことを、この男は知っている。すべてを知っている。
「冗談ですよ」
男はくすくす笑った。
「でも、あなたも知ってるでしょう? この世界は、一度足を踏み入れたら、なかなか出られない。あなたの弟はもうここにいる。あなたも、いずれは……」
「私は入らない」
早紀はきっぱりと言った。
「あの夜、私は逃げようとした。あなたたちから、あの場所から。今も同じだ。あなたたちの世界には入らない」
男はしばらく早紀を見つめていたが、やがて軽くため息をついた。
「残念だな。健太、お姉さんを送ってあげて」
健太が立ち上がる。早紀と二人きりになると、彼は小さく言った。
「姉さん、元気で」
「健太……あなた、幸せなの?」
健太は一瞬間を置いて、答えた。
「幸せだよ。あの日、親分に教わった。憎しみを力に変える方法を。俺は今、その力で生きてる」
「それで幸せなの?」
「幸せかどうかはわからない。でも、あの日から、俺は自由になったんだ。親を殺された子供が、施設で虐げられるだけの人生より、ずっといい」
健太の目は、十年前のあの夜とは違っていた。どこか遠くを見るような、それでいて冷たく光る目。
「また会おう、姉さん。今度は、もっとちゃんとした場所で」
早紀は振り返らずに歩き出した。歌舞伎町のネオンが、またたく間に彼女を飲み込んでいく。あの夜と同じように、彼女は迷路の中にいた。
でも今度は、逃げようとは思わなかった。
逃げ場など、どこにもないことを知っていたから。
スマホにメッセージが入る。見ると、マキからだった。あの十九歳の女ヤクザも、今ではすっかりこの世界の一部だ。たまにピザを一緒に食べる、数少ない友人になっていた。
「ピザ食べない? 久しぶりにテリヤキチキン。バレンタインだし、血の味が恋しいわね」
早紀はしばらく画面を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「いいよ。どこで?」
返信を送ると、すぐに場所が送られてきた。それは十年前のあの旅館だった。今はもう廃墟になっているはずなのに。
早紀は歩き出した。向かう先は、あの夜と同じ場所。
ピザの箱を抱えて廃墟の前に立つと、マキが待っていた。十年経っても変わらない、だらりとした笑顔。
「遅いわよ。チョコじゃなくてピザだけど、これが私たちのバレンタインよ」
二人は廃墟の階段に腰を下ろし、ピザを分け合った。テリヤキチキンの甘辛い味が、口の中に広がる。
早紀は静かに呟いた。
「血のバレンタインから十年。あの日、家族の愛は血に塗り替えられた。甘いチョコの代わりに、心臓みたいな赤い血が、私たちに残された贈り物になった」
マキはピザを頬張りながら、肩をすくめた。
「まあね。でも、生きてるうちは、ピザ食べてるしかないでしょ」
外はまだ暗い。ネオンが遠くで瞬く。新宿の夜は、十年経っても変わらない。
全ては一周して、元に戻るのかもしれない。
血のバレンタイン。あの日の血は、まだ乾いていない。
【了】




