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鏡合わせの清算 〜「理想」を捨てた王太子と、真実を映す聖女〜

作者: 黒い招き猫
掲載日:2026/01/28

卒業パーティーの会場は、眩いばかりの光に満ちていた。

水晶のシャンデリアが天井から幾重にも吊り下げられ、白大理石の床に反射する光は、まるで星々が降り注いでいるかのようだった。


シャンパングラスが触れ合う軽やかな音、かすかに響く楽団の弦楽の調べ、貴族たちの抑揚のある話し声――それらが渾然一体となって、熱気に満ちた空気を震わせている。

甘やかな花の香りと上質な香水が混じり合い、この世の栄華がすべてここに集められたかのような錯覚さえ覚える。


貴族たちは色とりどりのドレスとタキシードに身を包み、シャンパングラスを掲げながら未来を祝福し合っていた。


その中心で、エドワード王太子が壇上に立っている。


金色に輝く髪、左右対称に整った顔立ち、穏やかな微笑み。

彼の一挙手一投足が気品に満ち、慈悲深さと聡明さを体現していた。


人々は彼を見上げ、心から賞賛の声を上げる。


「素晴らしい王子様だ」

「あのお方がいれば、我が国の未来は安泰だ」


だが、その光の届かない会場の隅。

重厚なカーテンの陰に、ひとりの女性が立っていた。


ミラ。

公爵令嬢にして、鏡の聖女。


彼女は冷たいカーテンの布地に肩を預け、じっとしている。

周囲の熱気は彼女の肌には届かず、まるで氷の壁に隔てられているかのように、ただ冷たい空気だけが纏わりついていた。


顔色は悪く、唇には血の気がない。

深い緑色のドレスは質素で、周囲の華やかさとはあまりにも対照的だった。


そして彼女の両手には、銀の縁取りがなされた手鏡が、重たげに抱えられている。


鏡の表面には、何かが蠢いていた。

黒いもやのような、ドロドロとした影が、ゆっくりと渦を巻いている。


それはミラの心臓の鼓動に合わせて、まるで生きた吸血鬼のように脈打っていた。

王太子の「本性」――短気で凡庸で、自己中心的な醜悪さ――が溜め込まれた、澱。


ミラの指先が、かすかに震える。


鏡は日に日に重くなり、彼女の生気を奪い続けていた。

胃のあたりが常に冷たく重い。


胸の奥で鉛のようなものが沈んでいて、一歩動くごとに関節が軋むような感覚がある。

まぶたは鉛のように重く、呼吸は浅く、途切れがちだ。


深呼吸しようとしても、肺が十分に膨らまない。


周囲の音や匂いは、遠く霞んで聞こえる。

まるで彼女の感覚が「鏡の中」に引きずり込まれているかのようだった。


そのとき、王太子の声が会場に響いた。


「皆様、本日は誠にありがとうございます」


エドワードは優雅に一礼し、そして隣に立つ男爵令嬢リリィの手を取った。

リリィは華やかな笑顔を浮かべ、誇らしげに胸を張る。


「そして、ここで重要な発表があります」


会場がざわめく。

ミラは静かに目を伏せた。


シャンデリアの光が眩しすぎて、目が痛む。


「本日をもって、ミラ・ヴェルディアとの婚約を解消いたします」


どよめきが広がる。

視線がミラに集中した。


だが、誰も彼女を擁護しようとはしない。

むしろ、その「暗さ」を嘲笑うような空気が漂っていた。


エドワードはミラの方を見た。

その目には、軽蔑と優越感が浮かんでいる。


「ミラ。君が側にいると、私の完璧な美しさが曇る」


彼の声は穏やかだったが、その言葉は容赦なくミラを切り刻んだ。

一語一語が、まるで刃物のようにミラの心に突き刺さる。


「リリィのような輝かしい女性こそ、私の隣にふさわしい。

君は……申し訳ないが、あまりにも暗すぎる」


会場から同意の声が漏れる。

リリィは得意げに微笑み、ミラに視線を向けた。


「ミラ様」


リリィの声は、蜜のように甘く、しかし棘のように鋭かった。


「努力もせずに聖女の座に居座るのは、もうおやめなさい。

殿下の愛があれば、加護などなくても奇跡は起きますわ。


あなたのような暗い女には、もう用はありません」


周囲から失笑が漏れる。


ミラは鏡を抱えたまま、じっとエドワードを見つめた。

胸の奥の鉛が、ずしりと重くなる。


「殿下」


彼女の声は静かで、しかし明瞭だった。


「鏡に映るご自分を、本当にご自身の力だと思っていらっしゃるのですか?」


エドワードは鼻で笑った。


「当たり前だ。君はただ、私の輝きを反射していただけの板に過ぎない。

鏡がなければ光が見えないなどという理屈は、愚か者の戯言だよ」


ミラは深く息を吸い、そして静かに吐き出した。


その瞬間、彼女の瞳に決意の光が宿った。


「……左様でございますか」


ミラの声には、悲しみも怒りもなかった。

ただ、深い疲労と、そして僅かな解放感が滲んでいた。


「では、この『預かり物』をお返しいたします」


彼女は首から下げていた銀の鎖を外し、手鏡を両手で持った。

そして、ゆっくりと裏返す。


カチリ。


ガラスが砕けるような、あるいは骨が折れるような、乾いた音がした。

その音は、耳ではなく、直接脳髄に響いたかのようだった。


会場全体が、一瞬、静寂に包まれる。


ミラは鏡を床に置き、静かに宣言した。


「反転解除。理想を捨て、真実へ」


その瞬間が、永遠にも感じられた。


世界が、スローモーションのように変容していく。


まず、エドワードの顔が変わった。


完璧だった左右対称の顔が、ゆらりと波打つように歪み、一瞬で左右不揃いの卑屈な表情に固定された。

金色だった髪がくすみ、艶を失う。


肌は荒れ、目つきが険しくなっていく。

彼の瞳の奥にあったはずの光が、泥水のように濁っていく。


鏡の中に預けられていた「本性」が、一気に肉体へと逆流していた。


「な、何だ? 何が起きている!?」


エドワードは慌てて自分の手を見る。

荒れた肌、爪の間に溜まった汚れ。


それは、彼が隠し続けてきた「凡庸で醜い自分」だった。


そして次に、会場全体が変わり始めた。


煌びやかだったシャンデリアの光が、まるで一瞬で生気を失ったかのように鈍い灰色に沈み、煤けた蝋燭の炎のような色になった。

床の大理石には、まるでひび割れの幻影が走るような錯覚がある。


ミラの周囲だけが澄み渡り、まるで彼女だけが本物の光の中にいるかのようだった。

一方で、会場全体は「鏡の中の暗がり」に飲み込まれていく。


空気が鉛のように重く、肌を圧迫する。

会場全体を覆う、甘く腐敗したような、あるいは鉄が錆びたような嫌な匂いが漂い始める。


華やかだったドレスは色褪せ、料理は腐敗臭を放ち始める。

すべてが「虚栄の偽物」であったことが露呈していく。


そして――


「いやっ!」


リリィの声が金切り声に変わった。


「殿下、その……その醜い顔で、私を見ないで!」


彼女は両手で顔を覆い、後ずさる。

しかし、エドワードも彼女を見て顔を歪めた。


「リリィ……お前も……!」


リリィの華やかな笑顔が剥がれ落ちていく。

顔の皮膚が弛緩し、今まで隠されていた嫉妬と野心の痕跡が、シワとして深く刻まれる。


露わになったのは、欲と野心にまみれた醜悪な表情だった。

彼女もまた、ミラの力によって「理想像」を保っていたのだ。


「あなたこそ!

こんな……こんな凡庸で醜い男に、私が従うとでも思って!?」


「黙れ!

お前のような欲深い女と結婚するくらいなら……!」


二人は罵り合い、周囲の貴族たちも次々と本性を露呈していく。

会場は阿鼻叫喚の地獄と化した。


ミラは静かに踵を返した。


彼女の足元だけが、鏡のように磨き上げられた光の道となって、出口へと続いている。


エドワードが、ミラの背中に向かって叫んだ。


「待て! ミラ!

お前がいなければ、私は……私は……!」


だが、ミラは振り返らなかった。


「鏡の世界では」


彼女は静かに言葉を紡ぐ。


「右を差し出せば、左が削れるのです。

殿下は理想を手に入れる代わりに、真実を私に預けた。


そして今、その収支が清算されたのです」


ミラは会場を後にした。


王宮の廊下を歩きながら、ミラは自分の体が軽くなっていることに気づいた。


長年抱え続けていた鏡の重みが消え、澱が彼女の体から抜けていく。

顔色が戻り、唇に血の気が差す。


失われていたはずの指先の温かさが戻ってくる。

足の裏が地面に吸い付くような感覚。


呼吸が深く、楽になる。

重苦しかった空気が、清涼な風に変わった。


花の香りが、かすかに、しかし確かに鼻腔をくすぐった。

遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。


やがて、彼女は王宮の大広間に辿り着いた。


そこには巨大な鏡が立っていた。

天井まで届くその鏡は、王家の歴史を映してきた聖なる鏡。


そして、その鏡の前に、ひとりの男性が立っていた。


隣国の第二王子、レオンハルト。


彼は生まれつき目が見えなかった。

だからこそ、彼は「鏡に映る理想」など必要としない。


彼は常に、人の「声」と「心」だけを見てきた。


「ミラ」


レオンハルトが優しく微笑んだ。


「やっと、自由になれたんだね。

君の声が、ようやく淀みなく響くようになった」


ミラは涙を浮かべながら、彼の前に立った。


「もう、重い鏡は持たなくていい」


レオンハルトは手を差し出した。


「君の本当の顔を、声で、心で、

手のひらの温かさで、感じさせてくれ」


ミラは彼の手を取った。


そして初めて、鏡を介さず、他人の瞳……

いや、他人の心に映る自分の姿を知った。


それは、温かく、優しく、そして強い光だった。


「行こう、ミラ」


レオンハルトが告げる。


「私の国では、誰も偽りの姿を求めない。

ありのままの自分を認め合う、そんな国だ」


ミラは初めて、心から微笑んだ。


二人は巨大な鏡の前を通り過ぎ、王宮を後にした。


それから数ヶ月後――


エドワードの国では、誰も自分の姿を偽れなくなる呪いがかかった。


化粧も礼儀も虚飾も、すべてが無意味になった。

人々の顔には、本性だけが露わになる。


欲深い者は欲深い顔を、

傲慢な者は傲慢な顔を、

嘘つきは嘘つきの顔を。


やがて国は荒廃し、人々は互いを信じられなくなった。

貿易は途絶え、同盟国は次々と離れていく。


エドワードは玉座に座り、

かつて自分が輝いていた頃の姿を思い出していた。


彼は毎夜、割れた鏡の破片を拾い集め、

その中に「理想の自分」を探し続けた。


しかし、鏡が映すのは醜く歪んだ自分だけだった。


彼は絶望し、

最後に見た鏡の中の「かつての輝き」を掴もうとして、

鏡を握り潰した。


破片が手に突き刺さり、血が流れる。


それでも、理想は戻らなかった。


一方――


ミラが嫁いだ隣国では、

人々が「ありのままの自分」を認め合うようになっていた。


見栄も虚栄もなく、

弱さも強さも、すべてをさらけ出して生きる人々。


彼らは互いを支え合い、欠点を補い合い、

真の意味での繁栄を築き始めた。


ミラは城の窓から、その光景を見下ろしていた。

隣にはレオンハルトがいる。


「ねえ、レオンハルト」


「なんだい?」


「鏡の中に映る理想なんて、

最初からいらなかったのかもしれない」


レオンハルトは微笑んだ。


「そうだね。

本当に大切なのは、誰かの心に映る『本当の自分』だから」


ミラは彼の手を握った。

そして、初めて心からの笑顔を浮かべた。


鏡はもう、必要なかった。

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