純潔の坂、永遠の海
五郎は、毎朝、同じ坂を登っていた。 坂は海へ向かって開けた丘の上にあり、頂には白磁の壺が置かれている。壺の中には、水が満ちているはずだった。だが、手を伸ばすたび、その水は指の間から零れ落ち、壺は空になる。翌朝には、また水が満ちている。
五郎はそれを「純潔」と呼んだ。触れようとすれば消え、遠くから眺めれば、そこにある。川端の雪のように、三島の刃のように、それは冷たく、鋭く、そして脆かった。
純潔を知ろうとする者は、純潔について知ることはできない。 純潔を知る者もまた、純潔について十分に知ることはできない。知った瞬間、それは純潔ではなくなってしまうからだ。
それでも五郎は坂を登る。有理数でしか近づけない無理数の境界へ、デデキントの切断の片側から、もう片側へと、決して届かぬ白の裂け目を、両手で押し広げようとする。
ある朝、五郎は坂の途中で立ち止まった。 壺はまだ遠くに見える。だが、その輪郭は霧の中で溶けかけていた。 ふと、五郎は気づく。 自分が求めていたのは、壺の中の水ではなく、その水に触れられないという事実そのものだったのだと。
純潔は、手に入らないからこそ純潔である。無理数は、有理数で近づくからこそ無理数である。 そして、坂は登り続けるからこそ坂である。
五郎は壺に背を向け、坂を下り始めた。海からの光が、足元の石畳を白く染める。 その光もまた、触れた瞬間に失われる純潔のひとつだった。 だが今の五郎には、それを掴もうとする必要はなかった。
坂の下に着いたとき、五郎は初めて深く息を吸い込んだ。白の裂け目は、もう五郎の前にはなかった。それは五郎の中に、静かに閉じられていた。
ーー霧の向こうから、もえあずが駆けてくる。その姿が野の中に大きくなる。膝の正しく屈折する影が、斜めの日を浴びていさぎよく見える。やがて汗ばんだ白い頬が五郎のかたわらに立ち止まり、息一つ切らしていない。
「海の方はどんな匂いがした?」
と五郎が尋ねると、もえあずはにべもなく答えた。
「永遠」
その言葉は、五郎の胸の奥で静かに響いた。 とわにはアリス、エドワードにはキム、触れる者と触れられぬ者の間にある、時間のかたち。それは純潔の形代だった。
もえあずは五郎の肩を見上げ、いたずらっぽく笑った。 そして抱きつき、そのまま軽やかに肩車される。
「井之頭さんに乗ってもいいのかしら」
たまさかの駄洒落が、秋空に吸われた。
二人は海辺へ向かう。波間に沈む陽が、二枚の白い円盤に封じられている。かじるたび、熱が舌の奥でほどけ、光が喉の奥へと流れ込む。 パンの香ばしさが、遠い潮の匂いと混ざり合い、 噛みしめるごとに、時間がゆっくりと溶けていく。
肩の上で揺れるたび、視界の端に海がきらめき、そのきらめきは、かつて坂の上で手を伸ばしても届かなかった水面と同じ色をしていた。
永遠とは、こうして少しずつ、歯と舌と心で味わいながら、体の奥に沈めていくものなのだ。
友情出演
井之頭○○(孤独なグルメ)
△△の△△き(大食い女王)