モブは主役になれますか? ⑨
あっという間に土曜日になり、スマートフォンで日付を何度も確認してしまった。当日まで日にちがあると思っていたのにすぐに当日になった。
今日になるまでにも潤理は頻繁に食事に誘ってくれてふたりの時間を持ったが、完全にふたりきりになることはなかった。ふたりきりは、最初のデートで車に乗ったとき以来だ。
失敗しないように気をつけなければ、と気合いを入れるために手を握り込んだ。
掃除はしたし、おかしいところはたぶんない。あとは彼の到着を待つだけだ。
近所のスーパーで買いものなんてデートっぽくないだろうかと心配になる。そのことについてはこれまで潤理は特になにも言っていなかったので大丈夫なのか。すべての基準がわからないのだから、小さなことでも悩むのは仕方がない。
買いもののあとがおうちデートで、なにをするのか本当に謎だ。念のためインターネットで検索したら「初エッチ」とあり、ラスボス級の妄想力によってやましい想像で頭の中がいっぱいになってしまった。危険なので検索するのは一度きりでやめた。
スマートフォンが短く鳴り、確認すると、潤理からの『もうすぐつく』のメッセージだった。一気に緊張して固まる身体をほぐすように口角をあげてみた。可愛く笑えると満点とのことだから頑張らなくてはいけない。椎は主役になるのだ。
インターホンの音ではっとして玄関に向かう。
「お待たせ」
「い、いえ。そんなに待ってません」
こういうお決まりのやり取りも恥ずかしくて、椎は頬が熱くなる。
潤理はライトブルーのシャツに黒のチノパンを身につけている。椎の着るブルーのシャツと彼の服の色が若干似ていて、照れくさい。
「行こう」
潤理が電車で来てくれたので、ふたりで部屋を出た。
いい天気で空が真っ青に澄んでいる。歩道の脇に咲く花も綺麗で思わず足を止めた。
「これ、綺麗ですね」
「サツキだな」
なんとなく写真が撮りたくなってスマートフォンを出すが、なかなかうまく撮れない。咲き誇る紫色の花の輝く美しさが写真に表れずがっかりしていると、潤理が椎の手からスマートフォンを取った。
「俺が撮ってやる」
「わ、綺麗です」
潤理が撮ってくれたら、花がそのまま画面におさまったように綺麗で驚いた。「そうだ」と彼は思いついたようにサツキの前に椎を立たせ、椎まで写真を撮られた。
「俺の写真なんてどうするんですか」
「送ってくれ。壁紙にする」
「絶対送りません」
「じゃあ自分で送る」
潤理が椎のスマートフォンをいじりはじめる。見られて困るものはないけれど、パーソナルスペースに入られるようで恥ずかしい。少し俯くと、頭になにかがこつんと当たった。
「やっぱ椎が送れ」
「は、い」
頭に当たったのは椎のスマートフォンだった。椎が操作して写真を送ると、受け取ったことを確認した潤理は優しい瞳でその写真を見つめる。
こんなに柔らかい表情ははじめて見た。そんな顔をしてくれるのは、恋人のふりをしているからだろうか。
胸がきゅっと絞られるように痛み、わずかに俯いた。痛みに気がつかなかったふりをして、スーパーへ向かい足を進める。潤理を見あげると、穏やかな表情で前を見ていた。
「なに買うんだ?」
「食品です。なるべく冷凍保存ができるものを買います」
モブなりに頑張って会話を続けようと思ったが、意気込まなくても不思議と口から言葉がするすると出てくる。これまでは必要なことを伝えるのでも精いっぱいだったはずなのに、話したいことがいろいろ浮かぶ。
「最近は魚やお肉を塩麹に漬けてから冷凍しておきます」
「へえ。うまい?」
「おいしいですよ」
椎はモブのはずなのに、自分ではないようにスムーズに会話ができる。もっと話したくて、潤理の言葉を待っては思いつくことを口にする。会話とはこれほどに楽しいものだっただろうか。
「椎の手料理、食べてみたい」
「て、手料理……」
突然潤理の口から飛び出した言葉に心臓が跳ねた。
「それは、あの」
「なに?」
「な、なんだか恋人のようで」
やはり椎は椎のままで、「恋人」と口にしたら恥ずかしくなった。潤理が険しい顔をして睨むように目を細めた。
「おい。恋人だろうが」
「恋愛指導のための恋人であって、本物ではないでしょう?」
「うわ」
信じられないものを見たという目をした潤理の表情が歪む。事実を言っただけだが、いけなかっただろうか。
「すごい減点発言。なんだそれ、ありえない」
そこまで言われるとは思わず、椎はずどんと地に落とされたように落ち込む。俯いて足もとを見ながら歩いていたら、頭をこつんと叩かれた。恐る恐る顔をあげてみると、拗ねたような表情をした潤理が椎の頭をもう一度軽く叩いた。
「椎はもっと自信持て」
「なにをしてだめな自信はあります」
少し調子がいいかと思えば失敗をする。モブからは成長できないのかもしれない。
「椎は主役だ。なにをしても成功なんだよ」
「どういうことですか?」
「椎が自らすることには価値があるってことだ。もちろん、否定的なこと以外な」
なんだか難しい話になり、椎は頭を必死で働かせる。
「自ら、ですか」
自分からなにかをするということだというのはわかった。でも椎にそれができるだろうか。潤理はそんな椎の躊躇いを払拭するような力強い微笑みを浮かべる。
「そう、自らだ。今なにしたい?」
なにをと聞かれても、スーパーに向かって歩いているから特別できることはない。遊びに行ったら買いものができないので、頭を使う質問だ。
「椎が主役なんだ。恋人とこういうことがしてみたいとかあるだろ?」
「ありますけど」
「なんだ?」
穏やかな表情で優しく促されて口を開く。
潤理はいつも自然に話しやすくしてくれる。きっと恋愛経験があることからの余裕なのだろう。
途端椎の胸でなんとも言えない複雑な感情が入りまじり、それはかすかに心をざわつかせた。
「手をつないでのんびり歩きたいです。散歩をしたり、寄り道したり」
口にしていて頬が熱くなってくる。そんな願望はモブの椎には過分で、まるで主役のような願いではないか。そう考えたら潤理の言葉が耳に蘇った。
――椎が主役なんだ。
本当に自分は主役になれるのか。心細くて隣を見あげると、潤理が手を差し出してきた。
「よし。ほら」
「えっ」
「手、つなぎたいんだろ?」
「でも……」
もともと人通りが少ない道で、周囲を見まわしても誰もいない。
「ほら」
もう一度促され、おずおずと手を握ると、いつかのように温かい。ぽうっと頬が熱くなり、胸が甘く高鳴った。
「寄り道したいところは?」
椎の願望を叶えてくれようとする人の優しい声。どくんどくんと心臓の音が耳に響いてうるさい。心が疼いて、こんな疼きはおかしい、と小さく頭を振った。
「商店街にお肉屋さんがあって、そこの揚げたてメンチカツがすごくおいしいので」
「うまそうだな」
頷いてから椎が少し言いよどむと、潤理が「それで?」と続きを急かした。
「い、一緒に食べたいです……」
こんな子どもみたいな願いを口にしたら呆れられるかもしれない――言ってからとてつもなく恥ずかしくなった。もっと大人っぽい願いを言うべきだった。
潤理の様子を窺うと、優しい笑みを浮かべて椎を見ている。
「スーパーの帰りに寄るか。それでメンチカツ一緒に食べよう」
「はい……!」
どきどきと激しい鼓動がおさまらない。どうしよう、と胸もとをそっと押さえる。頬は熱を持って、自分の中でたしかに潤理の存在が膨らんでいることを自覚した。
スーパーでは食料品を買うときに潤理がカゴを持ってくれて、照れくさい気持ちを抑えられない。自然なことのように隣に潤理がいて笑っている。彼のどこが苦手だったのだろう。