モブは主役になれますか? ⑧
「森部、ランチ行くぞ」
潤理に誘われて立ちあがると、女性社員が三人近寄ってきた。
「一星主任、私たちもご一緒していいですか?」
一緒に行くのかな、と様子を窺うと、潤理は女性たちを見もせずに首を横に振る。
「悪いが、森部と重要事項の相談をするから遠慮してもらえるか」
「はあい」
「残念」
「次はご一緒させてくださいね」
しゅんとした女性たちを置いて潤理が部署を出るので追いかけた。今日は歩調をあわせてくれず、椎が一生懸命に追いかけても距離が広がるのが悔しい。
「重要事項ってなんですか?」
「あとで話す」
なんだろう、とついていき、いつもの定食屋でふたり掛けのテーブル席に向かいあって座る。重要事項と言ったわりには潤理の表情は和やかだ。
「今週末、どこ行きたい?」
「重要事項では?」
「重要事項だろ」
椎が首をかしげたら、潤理の真剣な表情がにわかに険しくなって眉が寄った。
「森部がなんと言おうと、重要事項なんだよ」
「はあ」
どこに行きたいかということは、デートの誘いだろうか。デートの相談が需要事項――椎はまた首を傾ける。
「反応が減点」
「そんな!」
「行きたい場所は?」
「なんて答えると減点されませんか?」
こういうときはわからないことを素直に聞く。潤理は睨むように軽く目を細めてから息をついた。ため息ではなさそうだが、どこか呆れを含んでいる。潤理はいつも呆れているように感じるが、それだけ椎がずれているのだろう。
「森部が本当に行きたい場所を言うと満点」
「……行きたい場所……」
考えてみても浮かばないのは、ひとりだと出かけるのも億劫で休みの日は部屋でごろごろしてすごすばかりだからだ。誰かに誘われることも誘うこともない、至って地味な人生だと自分でもわかっている。
「スーパーに行きたいです」
「は?」
「買いものしないと」
ようやく思いついた場所を口にする。経験も知識もないのだからそう簡単に浮かぶわけがない。これまでデートなんて言葉とは遠い位置にいた椎が、行きたい場所をぱっと言えるほうがおかしい。
こういうとき、恋愛に慣れている人ならば「あそこに行きたい」、「ここに行きたい」とすぐに返せるのだろう。その差に少し落ち込んだ。
「買いものからおうちデートの流れか。なかなかやるな」
「はい?」
おうちデート?
挑戦的な潤理に椎はたじたじだ。
「違うのか?」
「違います」
「減点」
「厳しすぎます!」
減点をされ続けてもなにかを取られるわけではないのだが、なんとなくすっきりしない。ここは挽回しなければ、と椎は気合いを入れる。
「どうしたら追加点をいただけますか?」
「おうちデートで取り返せ」
「決まりなんですか?」
「買いものに行きたいと言ったのは森部だ」
たしかに言ったけれど、そういう意味ではない。その思考を読んだかのように潤理の鋭い視線が「減点」と言っていて、仕方がないので頷いた。
「でも、俺の部屋なんて楽しくないですよ」
「そういうときは『ふたりでいられたら、それだけで楽しい』って言うんだよ」
「ほう」
「『ほう』じゃない」
まったく、とまた潤理は息を吐き出した。今度のものはため息だと思う。
これが重要事項の相談なのか、と気が抜けた。それを顔に出したら間違いなく減点されるので表情を引き締めるが、潤理の瞳は厳しいままだ。
「減点」
「なんでですか!」
今は思っただけで言っていない。潤理は椎を見つめて、柔らかく目を細めた。
「可愛く笑ったら満点」
可愛くとはどうしろというのか――一度首をかしげてから、なるべく可愛くなるように笑って見せたけれど、頬が引き攣った。ぎぎぎ、と音を立てそうな笑顔になり、もちろんため息をつかれた。
「ほんと、森部ってさ」
「すみません」
「――そういう、初心なとこが可愛いんだよ」
口に含んだ水を噴き出しそうになった。慣れないことをして渇いた喉を潤すつもりだったに、とんでもない罠だ。そんな馬鹿な、と潤理を凝視する。
「他の男に捕まるなよ?」
「どういう意味ですか?」
「減点」
どれだけ減点されたかわからないくらいにマイナスされ、重要事項の相談兼ランチは終わった。今日のランチ代も、抵抗したのに潤理に支払われた。
「おうちデートとはなにをするのか」
考えてみてもわからず、仕事が終わったらまっすぐ帰宅して部屋を見まわす。
キッチンとダイニング、洗面室と浴室と寝室がある、なんの変哲もない部屋だ。キッチンは流行りのカウンタータイプではないし、寝室もたいして広いわけではない。ダイニングはゆったりとできる間取りになっているが、それ以外が手狭だと常々感じている。でも懐具合と、会社までの近さを考えると引っ越せない。電車で十分、乗り換えなしで勤務先につくのは助かるのだ。
とりあえず、週末まで日にちがあるのできちんと片づけをしよう。見られたら困るものは隠して――そんなものはないか。本当にたいしたものがない、ごく普通の部屋だ。彼はそんなところに来て楽しいのだろうか。首を傾けて、また傾ける。唸ってみても答えは出ない。
「そうだ」
潤理にメッセージを送ってみよう。すごく恋人らしい。意気揚々としたが、なんと送ったらいいのかがわからない。
お疲れ様です――それは帰りに言った。おやすみなさい――まだ寝ない。
悩んで悩んで首をかしげ続けた結果、『おうちデート楽しみにしてます』と送った。送ったはいいが、今度はなんと返ってくるのかが気になりすぎてスマートフォンをじっと見る。なかなか既読にならず、部屋の中をうろうろした。
通知音が短く鳴り、心臓が跳ねあがる。どきどきしながらメッセージアプリを確認すると、やはり潤理からの返信だった。
『合格。俺も楽しみにしてる』
合格をもらえたことが嬉しくて口もとがにやける。たくさん合格をもらいたいから、もっと頑張ろうと心に決めた。
今日も終業後に潤理から食事に誘われて、ふたりで先週行った居酒屋に入った。
「土曜日だけど、買いものするなら車出すからここはどうだ?」
潤理がスマートフォンを見せてくれて画面に視線を落とすと、郊外型のショッピングモールが表示されていた。アクセスを確認したら、椎の自宅からだとけっこう距離がある。
「潤理さんが見たいものがあるなら」
「俺はない。椎の買いものがメインだ」
「それなら近所のスーパーで充分です」
わざわざ車を出してもらうのも申し訳ない。椎の気持ちを汲んでくれたようで、潤理は無理にとは言わなかった。
「主役の自覚は出てきたか?」
「まだ戸惑ってます」
こうして潤理とふたりの時間を持つことにも慣れず、据わりが悪くてそわそわしてしまう。
椎は前回食べて気に入った、鶏の砂肝の黒胡椒焼きをひとつ箸でつまんで口に運ぶ。こりこりした食感と一緒に心も弾む。潤理といると楽しくて、ときどき意地悪なことを言われるけれど居心地がいい。それは椎がわずかでも主役に近づいたということかもしれない。
「時間はあるからゆっくり慣れていけばいい」
潤理の優しい微笑みに、なぜかどきりとした。
そんなにつきあわせるのは申し訳ない。でも、ずっとそばにいられたらいつまでも楽しいのかな、と椎は落ちつかない気持ちを抑え込んだ。