9. 婚約者
真門ユエは、頭を抱えていた。
仙堂家当主が、母屋に居ないのである。何かにつけては離れへ向かい、そして帰ってこない。
理由は分かっている。兄妹の兄、いずみの存在だ。
真門も彼の事は、知っていた。同期なので、仕事の折に会った事もある。しかし、言葉を交わし合う間柄ではなく、一方的に知っていただけ。
いずみは、本物だった。
嫉妬とか、そういう段階を超えていると、周りの者が口を揃える程に。真門自身もそう思っていた。彼が居れば大丈夫。そんな空気さえあった。
だから、信じられなかった。
彼が呪に負けたという話など。
彼が、仙堂家を継ぐ為に、跡取りを呪い殺そうとした話など。
早紀恵から聞かされた話は、自分が知る彼の人柄とは随分かけ離れていて。叔母が語る事とはいえ、真門はすぐには信じられなかった。
「村田の爺さんから、苦情が入ってる。美虎」
「あら、これまでにないくらい、きちんと対処致しましたのに。一体何と仰っているのですか?」
「体調が優れないらしい。言われた通り供養したのに、これは呪いだと。こっちのやり方が拙かったんじゃないのか、と言ってる」
「先に手を出したのは、村田様だというのに。言い掛かりですわ」
それに、と美虎は庭に目を遣る。童子に追い掛けられる河童の姿。
「呪っている暇は、無いと思うのですけど」
二人はいずみに止められ、縁側に座り胡瓜を食べ始めた。無邪気そのものである。今度は早食い勝負に切り替わったのか、カカカカカカッと無心で食べ続けるその様は、やっぱり妖魔だなと思わされる。
しかし、ずっと平和な風景であった。
「失礼します。寅一様、美虎様」
「真門か。どうした」
「どうしたではありません。何故、二人とも此処に居座っているのです」
「話なんて、何処でも聞けるだろ。母屋よりこっちの方が静かでいい」
寅一の態度は一貫している。美虎も同じくだ。
いずみは、真門の複雑な心情を察してか、これまで口も手も出してはいない。ただ静かに、童子と河童と共に、縁側で庭を眺めている。
真門は溜息を押し殺し、ちらといずみの後ろ姿を見、来客を告げた。
「村田家の件で、竹岡真尋が来ております」
美虎が視線を向けた。
「苦情が片付いたとの事です。詳しく報告すると言うので、待たせておりますが……お会いになりますか?」
「それは、俺じゃなく、美虎に訊いてるか?」
「お二人に訊いております」
「……私が行きますわ、イチ兄様。しばらく会っていませんでしたし」
美虎は立ち上がると、いずみに会釈し真門と離れを出た。
おおよそ、婚約者に会う顔じゃないなと寅一は見送る。妹は無表情であった。
「……たけおか、まひろ。…聞いたような、聞かなかったような。美虎のいい人かい?」
あれからひと月経った。
いずみの記憶は、ぽつぽつ穴があるものの、兄妹に関しては取り戻している。最初にあった余所余所しさは消え、普通に接してくれるようになった。十年という歳月は長いが、変わらない面影を見付けてくれたらしい。此方が何を言うまでもなく、それを自力でやってくれるのだから、この兄は変わらず優しい気持ちで満たしてくれる。
騒いでいた周囲は、完全ではないが静かにはなった。兄妹と、更に真門からも厳命を下され、離れに近付く者は無い。しかし、忌々し気に離れを見る目はある。納得はしていないのだろう。
まぁ、仮に手を出したとしても。寅一は、思い出そうと難しい顔になっている兄を眺めた。
返り討ちになるのがオチだ。万全でなくとも、兄を出し抜けるとは思えない。
「婚約者だよ。子供ん時に、親が決めた相手」
「……あぁ、確かまだ三歳の時だったね。気が早いと思ったけど……うまくいってない?」
美虎の表情で気付いたのだろう、いずみは心配そうだ。しかし、こればかりは当人同士の問題。周りがあれこれ言うものではないだろう。寅一も、兄として心配はしている。
「どういうお人なんだい?わたしは会ったかな…」
「挨拶はしたんじゃないかな。確か、美虎が連れてきて」
美虎のにーしゃま!と、得意気に紹介された記憶がある。まだ婚約だの結婚だのは分からない頃だ、新しい友達に兄を自慢したかっただけだろう。
「竹岡の家は凄腕の退魔師を輩出してたが、今は全く。真尋は長男で、下に一人。両方男で、能力は揃って中の中、てトコだな」
打診してきたのは、向こうからと聞いている。同じ年頃で、美虎は幼い時から優れた霊力を持っていた。返り咲きたい竹岡家にとっては、どうしても欲しい相手。めでたく婚約となったが、当人達はどうにも…。
「性格は、一言でなら『いいやつ』だ。人当たりはいい、衝突もない。戦うよりかは……さっきの苦情の件を纏める方が得意みたいだな。そこを伸ばせればいい。でも、真尋のヤツ、美虎に劣等感持ってる」
「退魔の腕は、美虎が上。……彼としては嫉妬してしまうのかな?」
「男だ女だで、拘るのもまだ居るんだよな。能力があって、本人がその道を選ぶなら、性別なんて些末だと思うけどなぁ」
いずみは目を丸くし……そして、微笑んだ。すっかり大きくなり、背も超えられてしまったが、手を伸ばし弟の頭を撫でる。
「イチは視野が広い、いい当主になったね。たくさんの人が、イチの後を連いてくるのも分かるよ。頼れて優しい立派な子になってくれて、わたしは凄く嬉しい」
いい子いい子、と撫で続けられる寅一は、喜びの余り他には見せられない顔になっている。
それを真似して、童子も河童の皿を撫でくり回していた。
真門は美虎を見遣る。
明らかに張り付けた笑顔だ。嫌っている訳ではないらしいが。
「お久しぶりですね、真尋さん。真門から聞きましたわ、村田様の苦情を片付けてくれたそうで。ありがとうございます」
「元気そうで良かったよ、美虎。今回の討伐は大変だったみたいだね、時間が掛かったそうだけど…」
「えぇ、まぁ。兄様に代わり、私が聞きますわ。どうぞ、お茶を」
真尋は促されるまま座り、出されたお茶で喉を潤す。真門は廊下に控える。
閉め切っては風が通らないので、母屋は襖や障子は開け放たれている。離れと同じく、整えられた庭がよく見えた。
「今回の件、呪いじゃなかったよ。村田様の勘違いだ。でも、色々とあって疲れが出たんだろうね、以前より弱ってた」
「まぁ。あの時は、大声を出す程お元気でしたのに…。それだと、私が行っては迷惑ですわね」
真尋は困ったように笑い、そうだねと相槌を打つ。
「あの人は、女性を少し…下に見ている節があるから。でも美虎、だからと言ってやり過ぎるのも、よくないんじゃないかな」
「やり過ぎですか?」
「聞いたよ。妖魔の首を、見せつけるようにしていたって。村田様は一般人だ、妖魔への耐性がないんだよ?あの人の言動が気に食わなかったとしても、そこまでする必要はあった?」
美虎は微笑んだまま、先を促す。
「君に実力があるのは知ってる。でもそれは、理不尽に振りかざすものじゃないだろう?」
「竹岡様。お言葉ですが、美虎様は力の使いようを分かっておいでです」
「そうかもしれないけど、持たない者への配慮も必要だ。今回は、そこが足りなかったから苦情が来たんじゃないか。美虎、君がお兄さんに追いつこうと躍起になってしまうのは分かるけど、次からは冷静になって、周りを見た方がいい。でないと、独りになってしまうよ」
「……そうですわね。私も短慮だったかもしれませんわ」
美虎の素直な返事に、真門は目を剝く。
対する真尋は、安堵の顔になる。ご助言をありがとうございます、と頭を下げようとする美虎をそっと止め、優しく笑う。
「分かってくれたなら、いいんだ。美虎は、本当は優しい子なのに、あの人は鬼のように言うものだから……」
「そう見えても仕方ありません。妖魔に付け込まれまいと…気を張っていた事もあって、余裕が無かったもので。ほんの少し。お恥ずかしいですわ」
「君は間違ったら直せる、素直な所もあるんだから。大丈夫」
俯く美虎の髪をそっと撫で、まだ仕事があるからと真尋は立ち上がる。美虎は頷き、再び真門と共に見送った。滞在は二十分程か。
凪いだ顔で移動する美虎を、困惑のまま追う真門。
「美虎様」
「何かしら」
「正直に申し上げますが、あれは助言なのでしょうか。私には的外れに思えましたが」
「あの人はああ言っておけば満足するのよ。私が何を言おうとも、言い訳だと断じられるもの。だったら大人しく肯定しておいて、早く帰らせるのが一番よ。あぁ……いずみ兄様との時間を、あんな下らないものに二十分も奪われるなんて」
「婚約者でしたよね?」
「ええ、そうよ?それがどうかした?」
「その、余りにも淡泊なので、つい確認したくなり…」
「親が決めた相手だもの、それ以上以下でもないわ。私の一番はずっといずみ兄様よ。次がイチ兄様ね。後は横並びかしら」
「……このままで、良いのですか?夫婦になるのですよ」
美虎はぴたりと足を止め、振り返った。諦め切った表情に、真門は口を閉じる。
「私も、最初はそう思ったのよ。夫婦になるのだから、と」
あの人が、私の力を疎んじているのも知ってるわ。
聞き逃しそうになる程、それは自然だった。美虎は婚約者と向き合い、とうの昔から気付いていたのだ。
美虎は離れの方角に視線を遣りながら、縁側に腰を下ろした。促され、真門も続く。
「兄様には聞かれたくないの。凄く、心配するだろうから」
「今もそうだと思いますが」
「そうね、私も態度に出してしまっているものね。……あの人と一緒になる為に、力を捨ててしまおうかと考えた時もあったの。でも、」
彼女が見ているのは、『いずみ』だろう。
「私はあの時、何もできなかった。イチ兄様が苦しんでいるのに、いずみ兄様が自身を投げ出したのに、……私は泣くだけで、守られるだけで、何もできなかったのよ」
真門にも、覚えがあった。
戦える力があるといっても、相手によっては通じず、結局守られてしまう。歯痒く、悔しい思いを何度抱えたか。
「私はそんな自分が、心底嫌になった。だから、イチ兄様と同じように鍛えたわ。もう失いたくなかったから。……夫婦になるのだから、その私の気持ちを、知って欲しかった。でも真尋さんは、違ったの」
――美虎は女の子なんだから、中途半端に背負わなくていいんじゃないかな?
「……そう言われたわ。まるで私が最後まで責任を取れないように。それにね、いずみ兄様の事も」
――そんなに自分を追い詰めないで。君は悪くない、不幸が重なっただけなんだ。お兄さんの事は、早く忘れるべきだ。
「生きている可能性がまだあるにも関わらず、もう鬼籍に入れていたのよ。あの人の中では。こればかりは例え婚約者であろうと許せなかった」
思い出したのか、美虎から殺気が出ている。真門は拳一つ分、離れた。
怒りを抑えてそれからも、美虎はなんとか分かってもらおうと話し合いをしてみたが、真尋は困ったように笑うだけで、受け入れず、聞き入れず。これでもかという程に、平行線だった。
この人とは未来永劫分かり合えない。美虎がそう悟った日を最後に、会う事はなくなり交流も激減した。
丁度、マガツモノ騒ぎと同時期だった事もあり、真尋側は忙しいからだと解釈していたのだろう。今日のあの変わらぬ様子で、よくよく分かった。
「あの人なら、少しおだてて褒めてしおらしくしていれば、転がすのは容易いと思うの」
美虎はもう、幸せな結婚生活なぞ諦めている。血を繋ぐだけでいい、もうそれでいいのではと考えるに至ったらしい。
「愚痴ちゃったわね。兄様には内緒よ。……さ!早く戻っていずみ兄様とおしゃべりしましょ!」
切り替えたか、美虎の足取りは軽い。早足で離れへと向かう。
真門はそれを静かに見送り、寅一への報告を纏める為、自室へと向かった。
……いずみが居なくなった数年後、それから仙堂家に雇われ、兄妹を見守ってきたのだから情はある。あんな内容を聞かされ黙っていられる程、真門の心は広くなかった。