7. 過去 【三】
――あなたには関係ないでしょうっ。
早紀恵が叫ぶように言い放ったが、いずみは退かない。見返すだけの幸寅に一礼すると、一之進の手を取り、美虎の元へと急ぐ。
「遅くなってごめんね、イチ」
一之進はぎゅうと握り返す。それが精一杯だった。
来てくれた。助けに、来てくれた。
嬉しくて、泣きそうで。でもまだ、泣いちゃ駄目だと言い聞かせる。
「勝手な事をしないで!当主の意に逆らうというの?!一之進!こっちへ来なさい!!」
「っ、いやだっ!!」
「早紀恵様、離れてください。体調が悪いのは、呪詛の影響でしょう。これ以上近付くと、あなたも巻き込まれますよ」
追ってきた早紀恵の手を振り払い、一之進はいずみに必死に掴まる。早紀恵はたじろぎ、幸寅を縋る様に見た。当の幸寅は、静観する構えのようだ。紅い目が、楽しむように細められる。
厄介な人だ。いずみは内心で言ちた。天才肌故、出来ないという感覚が分からないのだ。仙堂幸寅という男は。恩人でもあるし、師でもあるから感謝はしている。だが、自分の子への教育の仕方は、度が過ぎている。
「お叱りは後で。先に片付けます」
開けたままの障子から、黒い蛇が這い出ている。それを蹴り飛ばし、いずみは符を投げつける。部屋中に舞うそれらは、美虎の周りの蛇に張り付き、結界の発動と共に消滅させた。
あれ程蠢いていた黒蛇は、もう影も形もない。一之進は、初めて目にした兄の技に、驚きを隠せない。
「イチ、美虎を守りなさい」
「っ、は、はいっ!」
ぽかんとする妹に走り寄り、抱きかかえる。ぱちぱちと瞬いていた目はすぐに潤んで、一之進に掴まり大泣きを始めた。身守りの符が、巾着ごとズタズタになっている。これが無ければ、今頃は。
背筋に冷たいものが走り、泣きじゃくる妹をぎゅうと抱え込んだ。
いずみは、部屋の一角を見据えたまま、動かない。
視線の先には、女が静かに立っていた。おまきだ。
「兄さんっ…、その人っ」
おまきは目を閉じ、口元は微笑んだまま。
「違う」
いずみが投げた符は、刃に姿を変え、おまきの背後へ。金切り声が部屋中に響く。
一之進は、美虎を守りながら、自身の耳を押さえた。
鋭い目を向けるいずみに、おまきは笑みを深くする。ちらと覗いた舌は細く二股に分かれ、ゆっくりと開けられた目は、蛇のそれ。
――だって、不公平じゃない
――私の子はもういないのに、その子は生きてるなんて
――その子がいなくなれば、一緒でしょ
――そうしたら、私はまた、戻れるでしょ
『ネェ、ソウデショ。幸寅サマ』
おまきの体がぐね、と曲がり、一之進へと飛び掛かる。が、その前にいずみが立ちはだかった。
いつも穏やかな空気を纏い、朗らかな彼には珍しく、鳶色の目は据わり怒気が滲み出ている。それが肌で感じられた一之進は思わず姿勢を正し、美虎は泣き止んだ。
「くだらん男と女の事情に、」
いずみは低く構え、符を握りしめた拳を思い切りおまきに入れた。
「子供を巻き込むな!!!」
まともに喰らったおまきは吹き飛び、障子を壊し庭まで転げ落ちた。蛇体となっていた体から炎が上がり、瞬く間に全身を包む。甲高い悲鳴。
「…っあっははは!容赦無いねぇいずみ、相手は女だよ?」
その光景を意に介さず、上機嫌に笑う幸寅。
……おかしいんじゃないか、こいつ。一之進は、父親に対し初めてそんな感想を抱いた。
実の子に引かれているとは気付く事なく、幸寅は笑い続ける。いずみはちらと見返し、切り裂かれた女物の帯を手に取った。
「しょれ、こわいの」
美虎が指し、兄の後ろに隠れた。よくよく視ると、黒い靄が纏わり憑いている。呪いの大本は、あれだろう。
ごめんね、と言ういずみは、いつもの空気に戻っている。兄妹はなんとなく安堵し、力が抜けた。
「笑う程暇なら、これの後始末お願いします」
「私がやるの?最後まで責任を持つべきじゃないかい?」
「この事態を引き起こしたのは、紛れもなく師匠でしょう。責任というなら貴方にあると思いますが。あと、五歳と二歳に任せる馬鹿な真似、二度としないで下さい」
「私が一之進くらいの時には、祓えたんだけどねぇ」
にやにやしつつも受け取った辺り、やってはくれるようだ。
父は随分、砕けた口調になっている。あれが素なのだろうが、当主としての顔しか見た事がなかった一之進は、なんとなく落ち着かない。兄を取られた気がするのだ。しかし、幸寅に向けられる鳶色の目は鋭かった。
「貴方とイチは違います。全く同じな訳ないでしょう」
「イチねぇ。知らない内に仲良くなってたんだねぇ。随分懐いているようだし……そのせいかな?私に当たりが強いのは」
「いつも通りです。……それではわたしは戻ります」
全て焼け落ちたのを見届け、いずみは夫妻に頭を下げる。
行ってしまう。一之進は美虎を抱えたまま立ち上がり、慌てていずみの手を握った。
「いっしょにいる!」
「みこも!」
「…っ一之進!美虎!」
「早紀恵、いいじゃないか。どちらにせよ、このままじゃ美虎は休めないし。離れの方が、静かでいいよ。ねぇ?」
先程とは違う笑みで、幸寅は止めた。
「それにしても誰だろうね。こんな呪物を、仙堂の家に入れるなんて」
ぽん、と。幸寅が軽く叩いた帯は、黒い靄ごと消失していく。
媒体を必要としない父の技術は、確かに本物であった。それをいずみの背後から見ていた一之進は、母の顔色が悪い事に気付いた。
「これはおまきのだろう?彼女は先月、亡くなった。だから、彼女じゃあない。誰だと思う?」
「…さぁ。なんにせよ済んだ事です。師匠が生き方を改めるのも、一つの手ではないでしょうか。早紀恵様、この子達を離れに泊めてもいいですか」
「……、…明日の朝、広間に連れて来なさい。いいわね」
「はい、失礼します」
…ゆっくり離れへ向かう中、美虎はいずみの肩越しから眺めていた。目が慣れ、暗闇でも廊下がよく見える。
小さな手で、両親が居た場所を指す。
「こわいの」
――残念だったわね
――本当に消したかったのは、あの子だったんでしょう?
くすくすと、女の笑い声。
「どしたんだ、美虎。ねむいか?」
頻りと辺りを見回している美虎に、一之進は声を掛ける。
「うー、やー」
「寝てていいよ。疲れただろうから」
優しく背中を叩かれ、その温かさに力を抜いた美虎は、大欠伸。
くすくすと、今でも笑い声は聞こえるが、兄が居るから大丈夫。
美虎は安心感に包まれ、ようやく眠りにつけた。
……
…………
……………
「兄さん、お帰り!」
「兄様!」
ばたばたと二人して走ってくる。十八になったいずみは、毎回出迎えてくれる弟妹に微笑んだ。
時はあっという間に過ぎ、一之進は十歳。美虎は七歳。
「ただいま。いい子にしてた?」
「してた!言われた勉強と鍛錬、ちゃんとやったよ。あと、」
「兄様、私もがんばりましたの!」
「俺がまだ話してるだろっ!」
これも、いつもの事。二人は我先にと成果を報告してくれるので、離れは賑やかだ。
あの日から、いずみが兄妹の師となり、退魔の技術を教えている。
理由は簡単。幸寅に任せておいたら、命が幾つあっても足りないからだ。未熟な幼子を、笑顔で妖魔の前に放り出すのが、仙堂幸寅。天才もそこまで来たら、一周回って馬鹿である。
頑なに反対したのは早紀恵だが、彼女は身を守る術しか心得がなく、他の適任と言ったらいずみしかおらず。まぁ、いいよ。と軽い承諾を得て今に至る。
幸いな事に、弟妹は充分な程の能力を持っており、吸収も早かった。一之進は、時々兄に付いて妖魔を狩るまでになっている。
「いずみ兄様、次は私も連れて行ってください」
「美虎はまだ早いんじゃないか?」
「そんな事ありません!イチ兄様は、私の歳で行ったではありませんか!」
美虎は頬を膨らます。修行も大事だが、実戦の経験も大事だ。しかし、といずみは困り顔に。
「美虎には怪我をさせるなと、早紀恵様から言われているしねぇ…。それに実際、美虎はまだ早いよ。結界の出来が甘い」
やってみなさい、と促され、美虎は集中。自分の周りに壁ができたのを感じ、目を開ける。
「はい、これじゃあすぐ、破られる」
ぺしん、と軽く叩いただけなのに、あっさり崩れる。いずみはにっこり笑った。
「結界は基本だよ、美虎。結界を維持した上で、妖魔を倒せなくちゃいけない。イチはそれができてるから、連れて行っても大丈夫と判断したんだ。意地悪で言っているんじゃない。先々、美虎自身を守る為にも必要なんだよ」
美虎は涙目で頬を膨らましていたが、兄が厳しいのは自分達の為と理解はしている。その顔のまま、ゆっくり頷いた。
温かい手で、頭を撫でられる。
「でも、前より頑丈になってきているよ。あと、もう少しだ」
「……はい。その、兄様、何が足りないですか……?」
「…そうだね、これに関しては……。イチ、あの子は?」
「童子?さっきまでは、あ、兄さん後ろ」
のし、と背中に何かが乗る気配。いつの間にやら、回り込まれていたようだ。いずみは後ろを向いた。
おかっぱ頭の小さな童が、片手を振っている。
「童子も、ただいま。二人を見ててくれてありがとうね」
弟妹よりも小さい童は、ザシキワラシと呼ばれる、人ではないモノだ。
居着いた家は栄え、出ていくと衰退を招く。神か、妖魔か。判断が難しい存在。それがザシキワラシ。
このザシキワラシは、妖魔と断じられ狩られた。それを助けたのが、いずみだ。
いずみに懐いた童子は、離れにすっかり居着いている。一之進よりも先に居たので、自分が上と思っているのか、どうにも兄妹の扱いが雑なのだ。子供が子供に振り回されている様は、離れではよくある光景になっていた。
「童子が、どうかしましたの?」
「強固な結界を張れるのは、この子を措いて他にないからね」
ザシキワラシは家を守る。褒められた童子はでーんと胸を張っている。
美虎は嫌な予感がした。
「兄様…、その、」
「童子から結界がなんたるか、教えてもらうといい。私も教えられたよ」
笑顔の兄から、童子を手渡される。
抱えたまま固まる美虎の肩を、優しく叩くは一之進。
「腹括れ、美虎。俺も通った道だから」
「ど、どうなりますの…?」
「うん、なんか、超がんばれ」
同情を隠しきれていない兄の顔。そして童子は、何か企んでいそうな悪い顔。
この日の離れは、一段と賑やかであった。
……
………
……………
いってしまった。
童子は、兄妹に振り返った。
イチという子からは、もう悪い気配はない。いずみが完全に、『引き受けた』
だから、この子が蝕まれる事は、もうないだろう。
「兄様、にいさま、にいさま……っっ」
いつも笑っていた美虎という子は、ずっと泣いている。
「っ……っっわらしっ、お前だろ……!なんでっっ」
なんで。
いずみの意思だったから。守ってと、残ったいずみの意思がそう言ってたから。
だから、いずみを此処から離した。
間違ってなかったよ。
だっていずみ、笑ってたから。
この子達が大事で、無事でよかったって。
……童子は庭を眺めながら、今日も縁側に座っている。
出て行ってもよかった。大好きな人間は居なくなったから。けれど。
寂しくなった部屋には、兄妹が居る。前みたいに、笑わなくなった兄妹。
この子達に何かあったら、いずみが悲しむ。
だから、童子は此処に居る。
また会いたいなと想いながら。
父親の行き過ぎた教育。止めずに従う当主絶対の母。いずみが居なかったら、親も他人も信じない共依存兄妹になってたかもしれない。
環境って、大事ですね。
座敷童子。子供の頃一番最初に知った、不思議かわいい妖怪。思い入れがあります。