5. 過去 【一】
一之進が兄の存在を知ったのは、五歳の時であった。
――可哀想に。跡継ぎとして、本人もそのつもりだったでしょうに。
――だが所詮は養子。仙堂の血を引く、一之進様が継ぐのは当然だろう。
――いずみ様はどうなるんだい。まさか、追い出すのかい。
――いや、あの子の能力は捨てるに惜しい。旦那様は、一之進様が一人前になるまでは置いておくつもりのようだぞ。
――使うだけ使おうって腹かい。旦那様も酷な事をなさる……。
人の口に戸は立てられぬ。
ひそひそと、使用人らが話すそれらを繋ぎ合わせ、一之進は知ったのだ。
父親は忙しく、夕飯時ぐらいしか顔を合わせない。母親と乳母は今、三つ下の妹に掛かりきり。会いに行っても、やれ勉強はどうした鍛錬はどうした、兄なのだからしゃんとしろ。などと小言を言われ、追い出される。
一之進は、ふてくされていた。
見咎める者が居ないのを良い事に、どすどすと音を立て廊下を歩く。そうしてやってきたは、離れに通じる渡り廊下。
この先には、行ってはいけませんよ。何があるのと問うてもそう返されるだけで、行った事は無かった。けれど今は、止める者も居ない。
一之進は周囲を見回し、誰も居ないと確認すると、一歩踏み出した。
今まで会った事がない『兄』は、きっと此処に居るのだ。一之進はそう考えていた。
何故会わせてもらえないのか、何故教えてくれないのか。それはまだ分からないが、幼い子の好奇心をくすぐるには充分だ。ぞんざいに扱われた腹いせもあるだろう。
一之進はずんずん歩き、あっさりと離れへ到達した。奥から音がする。ひょいと覗けば、雨戸も障子も開け放たれ、縁側には本が積まれて、文机まで出ている。掃除中のようだ。
なんだ、物置だったのか。一之進はガッカリした。
期待があった分、脱力した一之進は、そのまま座り込んだ。縁側から見える庭は、お世辞にも綺麗とは言えない。雑草だらけで、しばらく人の手が入っていないようだ。鍛錬に丁度いいのに。
「ひろいのに。もったいない」
「わたしもそう思ってるんだけどね。草取りしなきゃ」
返事があるとは思ってなかった一之進は、驚き振り返る。少年が、抱えた本を下ろしていた。そして一之進を見ると、にこりと微笑む。優しい笑顔だ。被っていた手ぬぐいの下から現れたは、鳶色の髪に同色の瞳。
「こっ、こんにちはっ」
「こんにちは。何か御用かな?」
緊張してつっかえた一之進を笑う事無く、視線を合わせるよう座ってくれた。
「幸寅様から、何か頼まれた?」
幸寅は、一之進の父。
父の使いで、此処に来たと思っているらしい。一之進は首を振った。
「おれ、えと…、はなれに、なにがあるかしりたくて、きた」
「見ての通り、面白いモノは無いね。残念だけど……、君…もしかして、一之進か?」
「え、うん、じゃない、はい。おれ、せんどういちのしんです」
「あぁ、やっぱり。幸寅様と同じ色だから、そうかもと思ったんだ。敬語なんていいよ。わたしは、いずみというんだ」
いずみ。
一之進は、聞き覚えがある名前に一瞬首を傾げ、そして目を丸くした。
使用人達の話の中に、時折出ていた名前。両親が、養子として迎え入れた子。『いずみ様』と呼ばれ、兄である筈なのに会った事が無い。
使用人達はひそひそと噂はするのに、両親や一之進の前では名前すら出さなかった。まるで元々存在しないように。
やはり、兄は此処に居た。会って何をどうするとまでは、考えていなかった一之進。困り顔でいずみを見、庭を見と視線をさまよわせる。
「いずみ、と呼び捨てで構わないよ」
「…お、おかしい。だって、おれしってる。みんな、なんでかおしえてくれないけど、いずみは、にいさんなんでしょ」
僅かに目を見張ったいずみを見て、一之進は確信を持った。誰に教えられたのかと静かに問われ、話を繋ぎ合わせたのだと素直に答える。それに、考える素振りを見せていたいずみだが、やがて大きく息を吐いた。まだ少年の域を出ないであろうに、仕草はどこか大人びている。
「…まだ子供だと油断していたんだろうけど。それにしたっておしゃべりだね、一之進が分かってしまうくらい話して。此処へは入らないよう、言われなかった?」
「いわれてたけど、……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。でも、そうだね……一之進には話しておこうか。わたしは君の兄になるのかな、仙堂の血は引いていないけれど。幸寅様と早紀恵様が引き取ってくれたんだ」
「ようし?」
「そう。母が病で亡くなって、わたしはひとりぼっちになったんだ。こうして住む所と、食べるものに着るものを与えてくれたのは、とてもありがたい事。お二人は、恩人でもあるんだよ」
恩人。幼い一之進にも、その意味は分かった。
でも、両親のいずみに対する扱いが解せない。何故、居るのに居ないようにするのか。何故、今まで教えてくれなかったのか。一緒に食事をした事はないし、話題になった事もない。
いずみを養子にしたのは外ならぬ両親なのに、何故離れに置いて、遠ざけるのだろう。
まだたった五歳の一之進だが、他の同世代と比べても、聡明な子だった。この疑問は一之進の中に残り続け、近い未来に起こる……兄を失った一件を切っ掛けに、怒りとなって爆発する事になる。
「まって、にーしゃ、ま」
「美虎、ついてくるなってば」
「やっ、にーしゃま、いっしょ!」
やじゃなくて。一之進は仕方なく、妹と手を繋ぐ。言葉も好奇心も達者になった美虎は、目を離すとすぐに何処かへ行くか、転んで大泣きするので自然と対策を覚えた。
一緒に居てくれると分かったか、にっこにっことご機嫌に歩く美虎。まだ足取りは危うい。
「ほら美虎、花がさいてるぞ。なんていう花かな」
「ん-、かあいーの、とる!」
「とるのか?いらないだろ」
「やー!みこの!」
意思疎通できているかは定かではないが、二人の姿は仲睦まじく、使用人らもほっこり見守っている。すっかりお兄さんらしくなって、と言われる一之進だが、彼とてまだ甘えたい盛りの五歳。何かと妹が優先になっている今、本来ならふてくされるだけで、構う事もなかっただろう。
こうして妹のわがままにも応じられるのは、いずみの存在が大きい。自分にも甘えられる兄が居る。そう思えば、一之進の心にも余裕ができた。きゃっきゃと笑う妹が、かわいいと思えるまでに。
「今日の美虎様は、ご機嫌ですねぇ。お兄様がいらっしゃるからかしら」
「……?いつもこうじゃないの?」
いつの間にか側に居た乳母は、少し困り顔になった。なんでも、寝かしつける時間になると、決まって泣いてぐずるらしい。酷い時は、咽るほど大泣きして、暴れるという。
「あばれるって……。美虎、ねなきゃ大きくなれないぞ?」
「やー。みこ、ねむくない。にーしゃまといっしょにいる」
花を握ったまま、美虎はぷいと、他所を向いた。この通りなんですよ。と乳母は笑っているが、よくよく見れば目には隈。陽の下でも、肌は青白い。
「お昼寝はするんです。でも、夜は目が冴えてしまうのか、部屋から出ようとして。女の子ですけど、美虎様は活発だわ。御母上にそっくりですこと……」
乳母の視線から逃げるように、美虎は一之進の後ろに隠れた。
「でも一之進様は、本当にそっくり。同じ稲穂色の髪、同じ紅玉のような瞳。幸寅様が目の前にいらっしゃるようだわ」
「……そうかな」
「ええ、そうですよ」
気のせいだろうか。乳母の笑い方が、さっきとは違うように見える。
一之進は、美虎を庇うようにして下がった。
「一之進様なら、幸寅様になれますよ」
「おれは、父さんじゃない。……美虎、もすこし、あそぼう」
「うん!にーしゃまとあそぶ!」
なんでだろう、気味が悪い。
乳母の此方を見る目が、爛々としていて。寒気を覚えた一之進は背を向け、歩き出した。
手入れされ、季節の花々が植えられた庭。それを横目に奥へと進む。端も端まで行くと、板壁が阻む。けれど、ここなら屋敷からは見えない。一之進は、美虎の視線に合わせるよう、しゃがんだ。
「なぁ、美虎。あの人、どんな人?」
「う??」
「うーん……。いやなこと、されてないか?」
「やー?」
「うん、美虎が、夜ねないのはなんで?」
「みこ、ねむくない。いたいいたい、やーなの。ねむいの、きらい」
ぷくー、と。頬を膨らませて、美虎は下を向いてしまった。これだけでは流石に分からない。一之進は空を仰ぐ。まだ二歳の美虎では、うまく説明はできないだろう。だが、不穏な言葉が出てきた。
痛いのが嫌だから寝ない。美虎はそう言っている、のだと思う。痛いって、どこが。一之進は首を傾げつつも、続ける。
「美虎、どこが、」
「あなー。にーしゃま、あなある」
「あな?あなってな……あ、穴だ。ほんとだ」
板壁の一部分が、欠けている。弱って腐り落ちたか、ぽかりと空いていた。小さい美虎なら通り抜けられそうだ。見付けてしまったら最後、好奇心の塊が素通りする訳が無い。這って潜ろうとする妹を、一之進は踏ん張って止める。
「やー!」
「やじゃないの!まだ外は早い!ダメだ!」
「やーの!いくの!」
「イチ、そこにいるのか?」
イチと呼ぶのは、一人しか居ない。ぴたりと動きを止め、一之進の目が輝いた。
「にいさん!うん、おれここにいる!」
やっぱり、と笑い声と共に板壁が叩かれる。向こう側は外ではなく、離れの庭らしい。いずみは草取りをしていた所、話し声が聞こえたので確かめに来たそうだ。
「こんな端で、何をしてるんだ?もう一人の子は?」
「あ、妹。美虎もいっしょなんだ」
「にーしゃま、だあれ?」
美虎は不思議そうに、つられて上を見上げている。一之進は妹を壁から離し、助走をつけ思い切り穴を蹴り壊した。そうしてさっさと潜ると、美虎を手招き。先程まで止めていた兄の真逆の動きに、目を丸くしつつも喜々とついていく。無事通り抜け、仲良く立ち上がると、驚き顔のいずみがお出迎え。
「何やってるんだ、あぁもう泥までつけて…」
「だって、近道だし」
「これは道じゃありません。怪我は……無いね。ほらおいで、ちゃんと拭かないと」
「はぁい。美虎、いくぞ」
「う?」
嬉しそうな兄。それを初めて目にした美虎は、コテンと首を傾げた。ぐい、と、いずみの着物を引っ張る。
「だあれ?」
「わたしは、いずみだよ。イチのお兄さんになるのかな。君は美虎だね、よろしく」
「いじゅ?にーしゃま?」
「君のお兄さんでもある、のかな」
美虎はますます首を傾げる。養子と言っても、まだ分からないだろう。ともかく、着物に付いた泥を落とさねば。まだまだ足場は草だらけ。転んだら大変だと、いずみは美虎を抱っこすると、空いた手で一之進と繋ぐ。
「イチ、足元気を付けて」
「うん!」
視界が変わったのが楽しいのか、美虎はすぐにご機嫌に。それを見た一之進、少し羨ましいと思ってしまったという。




