15. 神隠し 【六】
濃い瘴気の中を、寅一は平然と歩く。
一歩進むたびに、景色が歪む。相手の結界内に入ったのだ。奥へ行くにつれ、歪みは酷くなっていく。
ぎぎ、と空間が鳴る。音と共に景色はどんどん変容し、色も変わっていく。
「……」
多くの妖魔と対峙してきたが、結界内は決まって歪だ。これが妖魔から見た人の世なのか、はたまた無理矢理作り上げるから歪むのか。いずみと初めて入った時は、驚いたものだ。
『歪みに気を取られるな、イチ。惑ったら付け込まれてしまうよ』
歪な木々が舞台の幕のように右手に引かれていく。寅一は足を止めた。
開けた場所に、朽ちた社がポツンとある。その手前に、蠢くモノが見えた。
『騙されるな』
「奴等の縄張りの中は、」
寅一は振り向きざまに、背後に迫っていた妖魔を切り裂く。
「嘘だらけ。……だよな、兄さん」
ぼとりぼとりと落ちた何本もの腕が、崩れていく。
喰らい続け、巨体となったのっぺらぼうが甲高い悲鳴を上げる。幾人もの人の声が重なった音が木霊し、寅一は顔を顰めた。耳障りだと刀を振るい、次々に伸びてくる手を斬り落とし、ひとっ跳びで間合いを詰めると蹴りを入れた。巨体が地響きを立て、沈む。
「話せるならと思ったが、これじゃ無理だな」
のっぺらぼうは、喰わせろ喰わせろと繰り返し、肥大化された本能だけで動き回っている。
この様子では、穢れを食えなどと口にした人物など覚えてはいないだろう。ただ、こんなモノを作り上げておいて、面白いと放置して去るのだから、中々いい性格であるとは分かった。
さっさと片付けるかと構え直したその時、のっぺらぼうの動きがぴたと止まり、ぐりんと寅一に顔を向けた。
「ケガレ」
ぽか、と開いた真っ黒な口から、腐臭がする。
「ケガレダ。ヨコセ、クワセロ」
ひたと寅一を見据え、また数多の腕を伸ばす。
「ケガレ、ドコダ、ヨコセクワセロ」
寅一自身は、穢れ者ではない。いずみが全てを引き受けたのだから。
…兄から移った僅かな気配を、この化け物は感じ取った。寅一の纏う空気が変わる。
迫る腕をすり抜け、一太刀で巨体の首を斬り飛ばした。悲鳴を上げる間もなく、のっぺらぼうは地面に縫い留められる。
「お前、兄さんを喰うって言ったな?」
寅一の紅い目には、殺意しかない。強いそれに中てられたのっぺらぼうは、正気付いたように目を見開き、震え。原型を留められなくなった肉体は、ぼろぼろと瓦解していく。
「やっと取り戻したのに、また奪われてたまるかよ」
「―――ッ、」
「もう誰にもやらない。兄さんは、俺が守る」
刀が振り上げられる。
轟音と共に、結界が消えた。
成長したのは、分かっているけれど。
いずみは落ち着かず、玄関先の気配を探る。もう何度目か。そんな自分に苦笑してしまう。童子と河童の方がよっぽど、落ち着いて庭先で遊んでいる。
『全く無駄な心配ぞ。あやつらは我を抑えたのだぞ』
「……まだ、昔の記憶に引っ張られているのかもねぇ。わたしの中では、あの子達は十と七で止まってるから」
『あのでかい図体を見てもか?あの悪人面を見てもか?』
「悪人面とはなんだ。普段はいい子達じゃないか」
『お主の前だけぞ』
呪の方が、事実をしかと見ている。あの兄妹は兄以外には割と淡白だ。十年という歳月からも、執着の一端が垣間見える。呪が兄妹を苦手とする部分は、そこであった。
それほど経っているならば、何処かで諦め、気持ちの整理もするだろう。どんな理不尽な奪われ方であっても、区切りをつける必要が生じる出来事が起こる………筈だ、と呪は、それなりに人の世を見て思うのだ。
しかしあの兄妹には無い。それが薄ら寒い。寧ろ怖い。
「いきなり静かになって、どうした?」
そしてどうしてこやつは気付かない。分かりやすい程態度に出ているというに、いい子達だとさらっと受け入れているのだ。呪の声音は、如何にも呆れているようで。
『お主、鈍いと言われた事があろう』
「……さぁ、どうだろう?でも、そんな事はないと思うけどね。鈍いなんて、命取りじゃないか」
そっちじゃない。呪が叫ぶ前に、離れに近付く剣呑な気配を察知した。
いずみの存在が気に入らない者らが、主不在の好機に乗り込んできたと見える。しかし呪に言わせれば、ただただ兄妹の逆鱗に触れる行為だ。生き急いでいるのか。
『命知らずか』
「流石に命までは取らないよ、わたしは」
『お主はな。向こうは違うであろうが』
よもや、と呪の声が冷える。
『話せば分かる筈などと、甘い事を考えているのではあるまいな』
「まさか。話し合いで終わるなら、当主の目を気にする必要なんてないじゃないか。向こうさんがその気なら、わたしが手加減する道理はない」
いずみは童子と河童に隠れているよう言い置くと、此方を窺う気配へ近付き、襖を開け放った。
呆気に取られた男女の顔が、六人。最近見慣れた、揃いの着物。
いずみは手前に居た一人に掌底を入れ、もう一人の着物を掴んで庭へ放り投げる。悲鳴の後、ばっしゃんと池に落ちる音。
「わたしは居候の身なんだ。此処じゃなくて、外に行かないかい?」
「っっ、化け物がっ!!」
得物を抜いて、振りかぶってきた一人に足払いを掛け、昼間から開いたままの穴に落とし。離された刀を拝借し、峰へ返すと、固まっている男の胴へ。男は衝撃に耐えられず、襖もろとも縁側へ転がり落ちていく。
やってしまった。いずみは顔を顰め、壊してしまった障子と襖を見遣る。
「ウソでしょ?!弱ってるって言ったじゃない!」
「その筈だよっ!と、寅一様がそう、がっっ」
柄頭で脳天を殴られ、沈む。残る一人は総身が震えており、すっかり戦意喪失。涙目でへたり込んでいる姿を見せられてしまうと、いずみとて鬼ではない。刀を下ろし、殺気を解いた。
『おい、甘いぞ。最後までやらんか』
「…君らだけ?他には?」
「っっ近付かないで!!たすけっ……!だれか、」
……酷い怯えられようである。泣くぐらいなら、近付かなければいいものを。
少数で来たとなれば、腕に覚えがある者らだったかもしれない。彼女はそうは見えないが。
「これは、寅一様の御意思かな?君らに、わたしを始末しろとでも言ったのかい?」
「と、当然でしょ!化け物をいつまでも、置いておく訳ない!!そうよ!これはっ、」
「へぇ、そうなのか。一之進がねぇ」
離れに、気配がもう一つ現れる。いずみは自身の耳を疑った。今は此処に居ない者の声だったからだ。
誰ぞ?と問う呪には応えず、廊下に目を向ける。
「という事は、美虎も諦めたのかな?いずみを」
記憶より少し褪せた、稲穂色の髪に紅い目。寅一と美虎が受け継いだ色。
「……、少し、老けました?幸寅様」
「最初に言うのがそれかい?」
兄妹の父、いずみの師であった幸寅が、そこに居た。随分楽しそうで、口元が歪んでいる。
あれは笑い出す前の顔だ。この最中で笑いを堪えますか。変わらない様子の師に、いずみは呆れた。
「先代様!勝手に動かれてはこま、………、」
「ま…真門様ぁっ、がっっ」
擦り抜けようとした女を、躊躇なく手刀で落とす幸寅。それを受け止め、離れの惨状に唖然とする真門。
あぁ、といずみは頷く。
侵入者が真門の目を搔い潜れたのは、幸寅の対応をしていたからだ。急に現れたのだろうから、さぞ慌てただろう。幸寅も幸寅で、自分の家なのに何故か気配を消していた。
本人は悪戯が成功したように笑っているので、深い意味はないだろう、多分。
「あ」
「帰ってきたな」
兄妹の気配に、真門の肩がびくりと跳ねるという、珍しいものを見せられた。
諸々やる事があるであろうに、二人の気配は真っ直ぐ此方へ。幸寅に気付いたか、もう走っている。
これは、隠せないなぁ。いずみは離れを今一度見渡し、覚悟を決めた。
「そうだ、いずみ。私はもう当主ではないから、幸祐と呼んでくれ」
「今言う事ですか?」




