第20話―3
「……悪いのは、兄さんとアリスティア。兄さんに、また大切なものを盗られたような気がして、ここしばらくはずっと最悪な気分だった」
俯きながら、ああ言ってしまったとアンドレアは思う。エルヴィスにもアリスティアにも悪いところなどひとつもないのはわかっている。それを悪だと突きつけてしまう己こそ真の悪であることにも気がついている。そうしてそういう気づきを与えてきて、己を悪なる存在にしてしまうエルヴィスとアリスティアに勝手な恐れを抱いていることにも、また。
関わらなければアンドレアは己の悪いところなどひとつも気づかずに脳天気に一生を終えられたはず、だった。
「……盗るもなにも。本当にアンドレアの話をしていただけなんだけどな。アリスティアくんから見たアンドレアの話、本当に面白いんだよ。転んでもただでは起きないって会長のためにある言葉だと思います、とか言ってたかなー。落ち込んでたかと思えばコロッと機嫌をよくするのとか、かわいいって」
「……は?」
アンドレアは持っていたティーカップを地面に落として割った。エルヴィスは「おー……」と落下していくさまを眺めたのち、慣れたように指先を振るって割れたティーカップを元に戻した。優秀さをまざまざと惜しみなく見せつけられてアンドレアは腹立たしい気分になる。
「どんな言葉をかけてしまったのかはわからないし、聞かないけれど。アリスティアくんは僕とアンドレアの仲を取り持とうとしてくれている、本当にいい子だよ」
「……ふん」
アリスティアのアンドレア評を聞いて少しだけ上向いた機嫌が、またしても急降下した。
「自分には家族がいないから、エゴかもしれないけど、仲良くしたいって言ってくれている家族がいるなら少しだけでも会話をしてほしいって。会長はきっと、取り返しのつかないことになってしまえば後悔するような、無情になりきれない優しいひとだからって。会長にとって優しくしてくれる存在が、会長が優しくしたいって思える存在が少しでも増えるなら嬉しいって、そう言っていたよ。あ、あと、いまの家族が大切なのもわかるけど、家族はいくつあったっていいと思うとも言ってたかな」
「……え? いま、なんて?」
「僕と仲良くしてほしいって言ってた、よ?」
「絶対そうは言ってなかっただろ! そうじゃなくて、アリスティアに家族がいない……?」
アンドレアはテーブルに両手をついて立ち上がり、エルヴィスを見下ろす。エルヴィスの衝撃的な発言にアンドレアは体の奥底からじわじわと凍りついてくみたいだった。
「え? うん」
エルヴィスが淡々と頷いてから、カップに口をつける。それから、一歩遅れてハッと目と口を大きく開いた。
「もしかして、知らなかった?」
「……なんで僕が知らなくて兄さんが知っているの」
「あれ、かな。年上だし、よく知らないひとだし、却ってそれがよかったんじゃないかな。年が近くて同じ学校に通っているひとだと言いづらいことだってあると思う。……それを僕は言ってしまったけど」
エルヴィスが苦笑いを浮かべるのは珍しいな、と思いつつ、アンドレアはやっと、いままでアリスティアに投げかけてきた言葉や心のどこかで思っていたことが彼女を傷つけるようなものだったと気がついたのだった。
「……どうしよう、僕、彼女に対してとても無神経だった」
血の繋がらない親と暮らしていることも、その親からの温かく穏やかな気づかいが時々どうしようもなく痛くて堪らなく感じることも、その親に子どもができる苦しみも。実の親に駒のように扱われ挙げ句捨てられたことも、彼女には到底理解できないと決めつけていた。その明るさは、伸びやかさは、至って普通の家庭で、優しい両親のもとで育ったがゆえのものなんだろうと。
もちろん、彼女はアンドレアの苦しみを真の意味では理解できないだろう――ただそれは、アンドレアの想像とはまるで違ったことが原因で。
彼女の優しさに甘えて、いつかとんでもないことをしてしまう。ずっと恐れていたことを、アンドレアはとっくの昔にしてしまっていた。それも、自覚のないうちに。
「……エルヴィス殿下、これ以上外にいられますとお体に障りますよ」
「……きょうくらいいいじゃないか。やっと弟が会いに来てくれたんだ」
ずっとそばに控えていたらしいエルヴィスの従者がずり落ちたエルヴィスのジャケットを直す。エルヴィスは恨めしそうに従者を見上げるが、その直後に咳き込み始めた。
「……え、兄さん、まだ体の調子、悪いの」
見た目ではわからなかった、とアンドレアは目を丸める。
「……そう、だね。治ってはないかな。けほっ……」
次第にエルヴィスの咳が激しくなる。
「兄さん?」
エルヴィスの体がゆらりと倒れていくさまが、やけにスローに見えて、アンドレアは動けない。ただ焦った従者の、エルヴィスを呼ぶ声だけが、やたらと耳にこびりついていた。




