再びあの夢へ
閉じた瞼に薄っすらと光が差し込み始める。
どうやら夜が明けたらしいと、認識し始めた脳の処理能力が上がる事で徐々に目的を思い出し始めた。
ああ、そうだった。俺は――
彼女に会いたいと、そう願って寝入ったのだ。ならば、今この状況は果たされなかった現実か、もしくは夢の中か。咄嗟に判断できない事であの夢の異常性を思い知らされる。しかしなんだろうか、妙に心くすぐられるいい匂いと暖かさを感じる。不思議に思いつつ、身体を転がしながら目を開けると、
「…………」
ぷくーっと頬を膨らませてる顔があった。それもめちゃくちゃ近く、額を突き合わせられるほどの距離に。同じベッドの中に一緒にいたらしい。
「ねぇ、何で怒ってるのかわかる?」
わからない。それが怒った女性の常套句という事は知っている。知っているが、そんな事は問題ではなかった。今は彼女が目の前にいるということが肝要だった。だから再び出会えた幸運と喜びが心から湧き上がり、うっかり衝動から思い切り彼女を抱きしめたとしても仕方のないことだと思わないだろうか。
「うわひゃぁ!? え、ちょ、何々どうしたの!?」
するっと腰に回した手をひきつけ自分の体に押し付ける。……温かい、この温かさは夢じゃない。いや実際は夢なんだが。反対の手は頭を抱え込むようにして鎖骨あたりに持ってくる。男とは違う異性の、胸のうちにすっぽりと入ってしまう骨格が妙に心地良い。
「わわわわわ、あ、いい匂い……。ってそうじゃなくって! ちょっとこら、いい加減にしろー!!」
「あだっ!?」
いてぇ!? 目がチカチカするっ!? 一体何が、と見たら勢いよくズボッ、とハグから飛び出した頭が顎にクリティカルしたらしい。ガクガクしてずれてそうなそれを擦っていると、怒った表情の佳苗が下から覗き込んでいた。
「目、覚めた?」
「…………はい、すいません」
調子に乗りすぎた。大人しく俺は身体を持ち上げてベッドから這い出る。未だに寝転がりながらこちらを睨みつけてくる佳苗は青のパジャマを着ていた。いかんな、会いたいという思いが募っていたせいかどうも見た目や仕草が可愛らしく思えてくる。
「はぁ……良かった、ほんとに」
「え?」
「会えてよかった……」
「あれ……あれぇ? 何か思ってた反応と違うなぁ」
とにかく俺は安堵した。ようやくこの心の靄を晴らすことが出来る。電話番号は嘘を教えて弄んだのか、それとも何らかの想定外でああなったのか。まぁ、とりあえずは服を着替えようか。このままでは話もできない。んん〜? と首を傾げる佳苗に声をかけて、俺たちは準備を整えてリビングへ向かうことにした。なお着替えは両者寝室に置いてあったので順番に入れ替わりで着替えたことを記しておく。ここでの関係は夫婦なのだろうが、実際の俺達はまだ大した関係を築けているわけではないので。
「電話がかからなかった?」
リビングに移った俺達は向かい合わせてテーブルに座り、もぞもぞとした佳苗の「ねぇ、どうして電話かけてこなかったの?」という発言で幕を上げた。対し俺は「いや、かけたけど」という始まりで経緯を告げる。テーブルには佳苗が用意してくれた香ばしい香りのする食パンやコーヒー、スクランブルエッグ等の朝食が置かれ、食しながら話をすることになった。
「ああ。電話番号が登録されてないって音声ガイダンスが流れてな。だから俺は佳苗が嘘をついたんじゃないかって思ったくらいなんだが、その反応だと違うみたいだな」
「そ、そんなことするわけないじゃん。間違ってかけたんじゃないの? ほら、私の電話番号言ってみてよ」
「この番号だろう?」
俺は口頭に出しながら近くにおいてあったメモ帳にも書いて渡す。それを見た佳苗は確かに間違ってない、と言った後唸り声をあげながら頭を抱えた。
「あ〜〜っ、そういうことかぁ」
「何かわかったのか?」
「うん、その、ごめん。私もだいぶ舞い上がってたみたい。まさかこんな初歩的な事に気づかなかったなんて」
コーヒーを一口啜った佳苗は直ぐに落ち着きを取り戻して話を再開する。
「まず第一に、私は並行世界の全ての私と同期してるって前に言ったよね」
「ああ、聞いたな」
「うん、渡した電話番号はその中でも一番主流……じゃないか。多く使ってる電話番号なんだよ」
「え、それっておかしくないか?」
携帯電話の番号だろう? 並行世界でそれぞれに別の人生を辿っているからといってそう電話番号が違うことがあるだろうか。携帯電話にはMNP、モバイルナンバーポータビリティというものがある。このサービスはキャリアが変わっても電話番号はそのままキャリアを移転できるというもので、2006年に始まっている。俺の年齢が2023年現在で26歳だから、当時9歳。恐らく佳苗の歳もそう離れてないだろうから、携帯電話を持ち始めたのはもう少し後、中学〜高校生くらいだろうか。スマホ全盛期の今は小学生でも割と持っているが、この頃はガラケーが主流で子供が持っているのは稀だ。だから一度契約してしまえばそう変わることはない。実際俺も初めて契約した番号からずっと変わっていないのだ。
ということを聞いてみると、
「うん、まぁそうなんだよね普通は。現在はともかく、選択分岐が少なくって『私達』の総数も今よりずっと少なかった時代だから、契約時の番号が違うのは殆どなかった。親の用事とかで予定が遅れて違う番号になった私もいなくはないけどね」
ただし、コレはまた後で説明するけどと前置きした上で私にも色々あったんだよと、佳苗はがっくりしながら言う。
「わざわざMNPを使わずに番号を変えた私の理由は様々。気分を心機一転したかったからとか、過去のつながりをばっさり切りたかったからとか、ストーカー被害にあって電話番号バレしたから変えたとか。まぁ色々ね。多分望君はそういうイレギュラーな行動をとった私の内の誰かがいる世界線に存在しているんだと思う」
でも、そうじゃない場合もある。と佳苗は暗い声で告げる。それは俺にとってもあまり許容したくない内容だった。
「私が初めから存在しない。生まれてない世界、あるいは既に死んでいる可能性のある世界。もしもそれだったらお手上げだ」
「なっ……。いや、そうか。そうだよな、事は俺達のとんでもない異能から始まってるんだ。そういう事も考慮に入れなければ駄目なんだな」
洒落にならん。もしもそうなら望み薄どころか皆無だ。
「俺は、現実でも佳苗に会ってみたい」
「私だってそうだよ。だから考えてみたんだけど、メセッターとか、ウィズコードとかのアカウントに当たってみるのはどうだろう」
メセッターはソーシャルサイト、ウィズコードは俺は使ったことはないがボイスチャットアプリだったか。しかしそれで探す理由はなんだろうか。電話番号のように各々が違うアカウントの場合手当たり次第になるのもそうだが、記録したものを夢から持ち出せない以上俺の記憶だよりになる。数があったら思い出せないぞ。
「それについては大丈夫。電話番号の乱雑もあって同期したときの記憶の混乱で、IDやパスワードがわからなくならないように作るときは全員統一するようにしたんだ。だからどの私にも繋がるはず。……まぁ、繋がったとしても既に結婚してたりとか、彼氏がいる私に当たってしまったらごめんなさいするしかないんだけど」
「ん? あぁ、そういうお前達もいるのか。悪名で呼ばれるほどに嫌われていると言ってた割にはちゃんと結婚できてるんだな」
「むむ、失礼だな―。別に近隣のそういう男たちじゃなくて他から探せばぁ、まぁ、それなりにぃ……いたりもしますというか」
「どうしてそこで言い淀むんだよ……」
「旦那をゲットできた私も語るも涙な苦労があるんですよ……。いるのは『私達』の中でも10%以下なんだけど。というか、君はその辺あまり気にしないんだね?」
何がだ?
「だって私は全員の記憶を同期する女なわけで、多くの旦那達の記憶は全員分持ってるわけですよ。実際に結婚してる『私』以外は記憶だけだから、実感は無いし夫達が好きになるわけじゃないんだけど嫉妬したりとか、そういうの?」
「そんな処女厨があるまいし……。自分ではどうしようもない異能にそこまでの潔癖を求めたら元彼がいる女ってだけで俺は付き合えないことになってしまうじゃないか」
元々様々な自分を見て諦めてきたから、他人に高望みなんて抱いてない。というかそれは漫画やアニメのキャラを好きと言ってるのと何が違うのだろう。いや、実際に会える可能性があるという点ではどちらかというと芸能人のほうがイメージとしては近いか?
「逆に聞くけどさ。そういう結婚した自分たちを見て羨ましいとか、自分も同じ人をゲットしようとか思わなかったのか? 端的に言って佳苗の理解者なんだろう、その人達は」
「とは言いましてもですね、その結婚した『私達』も割と奇跡的な出会いで結婚した希少種でしてぇ……。同じ人だからといってコミュニケーション取りに行ったら相手にとっては知らない人なわけじゃないですか。となると下手するとストーカー扱いでして……」
「不器用か」
「ヴッ! い、いえそんなことはナイデスヨ―」
器用な女だったら出会いを演出するくらいはするだろうに。何しろ相手の性格や好物、行動パターンをおよそ知ってるわけだからな。俺が見る並行世界の『俺』とは違って、佳苗の大元、出発点は同じで、記憶の共有もしているから並行世界毎の性格差はあまり無いのだろう。無数にいる自分が全員不器用って、逆に面白いな。
「となると、まさか異能についても話してないのか?」
「えーと、うん。言っても意味がない事ではあるし……」
「そりゃそうだろうけど」
俺に異能を伝えたのは状況から仕方なくだろう。随分と自分の置かれた状況に浮かれてたからにも見えたが。
話が途絶えたタイミングで、テーブルにはマーガリンしか無かったので席を立ち冷蔵庫からジャムを探す。イチジク、イチゴ、マンゴー……色々あるな。取り揃えがいいのは誰の趣味だろう。その中からマンゴーを取りパンに塗りつける。うん、現実の自宅に置いているわけじゃないからなかなか新鮮だ。
「おほん、それじゃぁ前回はフィールドワークが中心だったし今日はデスクワークにしよっか。色々とわかったこともあるんだ」
「わかったこと?」
スクランブルエッグをこねこねしながら話をずらしている。藪を突く趣味は無いし流れに乗ることにしよう。
「うん。まず私の能力について。実は君と会った後、夢から覚めるときの話なんだけど。私の記憶は『私達』に同期されていなかったの」
「何かまずいのかそれは?」
「良い悪いの話じゃなくてね。同期そのものは翌日には何の問題も無くされた。となると、この夢を見た日は総体の私と『私達』は切り離されてる状態になる。中々に新鮮だったよ、記憶を共有しないで自分の経験した一日しか記憶が存在しないってのは。まぁ、それを実感したのは私以外の『私達』なんだけど」
「そりゃ良かったな?」
科学の沼に浸かった女だから新発見ともなれば何でも嬉しいのか。ご機嫌でスクランブルエッグを口にし始める。
「それで、同期が取れたら今度は全員電話なんてかかってきてないって知って、何でかけなかったのと怒ってたけど結局は私のミスと今わかったわけで。ごめんね?」
「まぁ、こっちも落ち込んだのは確かだけど。棚ぼたでそう思うのは身勝手すぎるだろう」
「あ、またそういうこと言う。駄目だよ、君だって一人の人間なんだから自由に望んで良いんだ」
そう言われても、卑屈だった今までからすぐ変われと言われても難しい。
「はぁ。ならそれは宿題ね。二度あることは三度ある、この夢も一夜限りの奇跡じゃないみたいだし経過は見させてもらうから。ついでに言うと、私達がこの夢で過ごしたのはおよそ4時間から5時間ほど。私の睡眠時間は7時間くらいだから2時間の余裕はあったはずなんだけど、それでも同期されてないということはこの空間で時間的概念はあまり意味がないかもしれないってことね。もしかしたら、ここで何時間過ごしても醒めようとしなければずっと過ごすことも出来るかもしれない」
「前回醒めてしまった理由は何だ?」
「時間経過で何となく醒めるだろうと考えたからとか、話の区切りがついてしまったからとか、きれいな別れ方をしてみたかったから?」
「なんて曖昧なんだ。それはシンプルにご都合主義ってやつか?」
「かもね。自由にできるならそれに越したことはないよ」
ガブリと食パンにかじりつく。大雑把というか、どこか佳苗は男っぽさがあるな。
「じゃあ次に、このシチュエーションの私について。端的に言えば、私はこの『私』と同期することが出来なかった」
「それはさっきの問題と違うのか?」
「全然。今までのはあなたの主観に捕まってたからが理由。つまり同期の阻害ね。でもこれはそもそもが存在しなかった世界なの」
「存在しない世界?」
変な話だ。並行世界を覗き見した結果出来た世界なら大元が無ければおかしい。
「うん。私もそう考えたし、もしかしたらこのシチュの『私』は意図的に同期をカット出来る存在かと思ってた。でもコンピュータ原理に基づくなら、こちらの送信に対してエラー情報かブロック情報が返ってくるはず? まぁ私は人間だから違うかもしれないけどさ、元々存在してるはずの並行世界だし存在してるなら認識はできるはずなんだよねぇ。でもそもそもの話、受信元が存在しないならエラー自体が存在しない。じゃぁ、一体このシチュはどこから生まれたのでしょうというのが新しく追加された謎」
「それこそ、俺が見ようとした夢そのものじゃないのか? 俺は自分が見ている夢が並行世界だとは思っていなかった。ただの夢ならそんな不条理は無視できるだろう」
「うーん、だったらこのリアルさに説明がつかないんだよなー。あ、ちなみに君の異能が並行世界を観測しているのはきちんと証明できたよ」
何だって?
「記憶の同期が取れた後、『私達』で君の事を出来る範囲で探らせてもらったの。で、名前を検索した結果分かったのは、君が言った通り様々な職種についている君が何人もひっかかったってことかな。音楽家の君、様々なスポーツ選手の君、宇宙飛行士の君、アイドル、コメンテーター、棋士、その他色々。随分と多様な個性をお持ちね」
「俺は並行世界に実在するそいつらを見てたってのは正しいのか。ただの夢じゃなかったんだな……」
「ただの夢だったら私を捕捉出来ないって」
まぁ、佳苗が言うならそれが正しいのだろう。しかし、なんだ。何か小骨が喉に刺さったような違和感がある?
「ということで、名前が確認できた並行世界にいる『私』は君と同じ時間を生きていないということがわかった。君はただのリーマンだから、ネットの検索ではそう引っかかるはずもないってことだしね」
「そうだな。俺が有名人だったら早々に解決しただろう」
「砂漠から砂金を探すような作業になりそうだね。後でこっちにも電話番号なり、SNSのアカウントなり教えてよ。アクションをとってみるから」
「わかった」
一日は同期がとれないって話だから、現実の彼女からアポイントメントがあるのはその次の日以降になる。
話しながら食べていた食事はいつの間にか全て胃の中に収まっていた。やはり普段とは異なる満足感がある。一緒に食べる相手がいるからだろうか。
「よし、とりあえず報告も終わったね。あとは〜、お互いの能力をきちんと把握しよっか」
「……? それは前回やったことじゃないのか?」
「いやいや、あれじゃ全然説明が足りないよ。君の見る夢ももっと聞いて解明したいことがあるし」
「そうか。で、何をするんだ?」
二人で食器を片付け終わった後、佳苗はまたホワイトボードを引っ張り出してきてキュキュッとペンで字を書き始める。
「お題その一! 私の能力、その全容を確かめるために我々はジャングルの奥地に向かった!!」
「ここリビングな」
「そこはのってよ〜」
そうは言われてもな。本当にしまらんなぁこいつ。