現実
現のような夢から覚め、電話が通じないという失意に濡れた日曜日。ショックで何も出来ず動かなかったその日から更に明けて月曜日。通勤日故鈍った身体を動かして会社へとやってきた。いつも通り溜まった仕事をこなしていると、どうも今日は周りが騒がしい。少し静かにしてくれないだろうか。
「どうしたのかしら、望月さん。いつにもましてボーッとしてるわ」
「あれで仕事になるのか? 遅くてもいい仕事するから文句は出てないけど、あの調子だとさすがに課長に苦言を呈されるんじゃないか」
「ふふ、それはどうだろうね」
「あ、いつも訳知り顔で出てくる遠野さん」
「ちーっす遠野さん。今日も何か知ってるんですか?」
昨日電話がかからなかった時からずっと考えている。俺が見た夢は実は明晰夢の類で、あの場に並木佳苗という他者は本当はいなくて俺だけの夢の産物だったのじゃないかと。そう考えると随分とリアリティのありすぎる夢になってしまうが、その方が俺の精神安定に貢献してくれそうなのでそっちを支持したい気持ちが強い。
「知っているといえば知っているさ。経理の利根さん、撮り鉄なんだけどね。マナーを守って正しく行っていたのに迷惑極まりないやつをとっ捕まえて警察に突きだしたら自分も疑われちゃったんだって」
「あぁ、まぁあの界隈は疑われても仕方ないモラルしてますからねえ」
「ってそうじゃないでしょ。望月さんの話、そっちは何か知らないの?」
「……実はね、彼が悩んでいるのにはとても重い理由があるんだ」
「なんだ? 田舎の実家から呼び出しを食らったからとか?」
「結婚詐欺にでもあったの?」
「ふふ、それはね。…………実は僕もまだ知らないんだ!」
「あ、はい。かいさーん」
「訳知り顔してるんだったらちゃんと情報仕入れててくださいよ」
「君たちさらっと酷いこと言ってない?」
妄想、だったのだろうか。だとすると顔から火が出そうなほど恥ずかしい。あれほどロマンあふれる夢を見ておきながらその実脳内だけの出来事でしたというのなら黒歴史の一つに数えられてしまう。しかしあの夢が本物であったと思いたい未練も当然ある。俺は一体どうすれば良いのだろうか。
そうして全く考えがまとまらないときに肩をポンと叩かれた。誰だろうと振り返るとそこには同期の遠野がいた。ああ、そういえばさっきから聞こえてきた声はこいつのものだったか。社内の囀り雀みたいなやつであっちこっちで情報を仕入れては噂を流すはた迷惑なヤツだ。それでも良心くらいは持ち合わせているのか一線を超える事はないようで不評に繋がるような事を言わないお局様だの、常に何かしら知ってるから訳知り顔だの言われる社内の不審人物。
「今何か変なこと考えなかった?」
「気のせいだろう」
「そうか、そうかい? ところで今日はちゃんと定時に仕事を片付けてくれないかな」
「迷惑のかかるような仕事の残し方はしてないだろ」
「まぁ確かに。君は残業はすれどきちんと必要なデータは間に合わせてくる。でも今日の君の様子は見ていられないほど露骨だ。だから飲みに行こうと言っているのさ」
「……言ってないだろ」
「言葉に含みを持たせてることくらいわかりなよ。それに社会人の定時上がりなんてそれくらいしか無いだろう」
「それは俺とお前がサシで飲みに行った回数が多ければの話だろ」
「はは、確かに君と行った飲みの回数は片手でしか数えられないね」
ま、そういう事で頼むよ。と再び肩を叩いて遠野は自分のデスクに戻っていった。相変わらず強引なやつだ。前の時もああやって引っ張り出されたんだよな。その時の理由は何だったか……ガセネタに振り回されたストレス解消とかだったか? 自業自得だな。
とはいえあいつに誘われるほどとは、他人にわかるほど俺も相当参っているということか。仕方ない、さっさと仕事を終わらせる事にしよう。一時的に夢のことを忘れて仕事に没頭してきちんと定時に終わらせた結果、近場の同僚から心配の声を浴びせられた。失礼だな君たち……。
男二人で近所の居酒屋にやってきた。居酒屋「ふくろう」、リーズナブルで他の社員も寄り付きやすく遠野にとっては噂話の蒐集に格好の場だと吹いていた。実際この居酒屋まで仕事上がりの同僚達でアリが作る道を見たような錯覚がある。そこそこに空いていた席からカウンターを選び、共に注文した生のグラスを打ち付け合い「乾杯」を言う。俺にとっては今の状況で何が乾杯なのかさっぱりわからないが、コレも様式美というやつだろうか。
適当に数種類頼んだ焼鳥を頬張り黙々と口を動かす。居酒屋に来たはいいがこちらから話題にするようなことはない。だというのに何故かニコニコとこちらを見ている遠野は不可解だった。だからつい口をついてしまう。
「……なんだよ」
「荒んでる時に美味しい食べ物は心を癒やしてくれるだろう? それとも焼鳥程度ではまだまだ十分じゃないかな」
「そういうお前はサラダじゃないか。もっといいものを頼めばどうだ?」
「食前の食物繊維は大事だよ。胃腸があまり強いほうじゃなくてね、前も食べていたのを見ていたと思うんだけど」
「……覚えてないな」
「だろうね。君はあまり他人に興味を示す質じゃないだろう」
わかったような事を言う。だが図星なのかもしれない。夢の自分に憧れて、嫉妬して、諦めて、それでも夢を見続けている俺は他者と多く関わらず自己で完結している。諦観して僧みたいなフリをしておきながら、もしかしたらそんな俺でも彼女が出来るかもしれないと一般的な欲をかいた結果ショックを受けてしまっている。自分勝手すぎて哀れだ、遠野から見ると余程構わなければならないくらいひどかったのか。
「すいません、豚の角煮と、なすのおひたし、濃い口冷奴を一つずつ」
「俺は生をもう一つ、あと餃子と、鯛出汁炒飯を……で、結局用は何だ? 楽しい話をしたいわけじゃないだろう」
「望むのならいくらでも出来るけどね。今日はまぁ、課長に頼まれたから。君の仕事が捗らないと売上に影響が出るからね」
「……俺の作業内容にそんな重要なことがあったか? 資料を纏めてるだけだろう」
就職して数年、昇給あっても昇任無し。データ整理に今後の市場予測を仕事のやってる感を出すために貼り付けるだけ。コミュニケーションもあまり取らず正直窓際族と似たような扱いを受けていると思ったのだが、何故課長は俺のような男のカバーを依頼したのだろうか。そんな感じのことを言ったら、遠野は驚いたのか口をあんぐりと開けた。
「え、おま、まじか。自分がやってる事をわからないでやってたのか……?」
「いや、だからそんな大層な事はやってないだろう。何でそんな顔してるんだ」
発言に対するリアクションはどでかいため息だった。
「はぁ〜〜〜、君さぁ、ほんとさぁ。……僕はね、君の仕事ぶりに憧れてるんだぜ。情報通を気取って色んなネタを集めてはくるけど、こと仕事においては僕は君の成果に一歩劣る。まさかそれを自覚してないって? 仕方ない、君の成果を一から説明してあげるとしよう」
まず第一にだと遠野は前置きして、
「君の作る資料は非常に正確だ。事実との齟齬が無く上役の欲しいデータをきちんと揃えてくる。そこはまぁ、長年勤めていれば相応にできるようになる人はいるだろう。でも新人でそれが出来るのは珍しい。しかしその君は別に高学歴かと言われるとそれほどの経歴でも無い、だったかな? 有名な大学を出たとかでもないのだろう?」
「何でそれを知って……お前に聞くのは意味ないか。どうせ誰かと雑談している所を横目に見ていたんだろ」
「肯定するよ。で、新人としてはそれなりに注目されてたうえで、その資料には市場予測が添付されていた。勿論それを最初から鵜呑みにする上役はいない。新人にしてはよく頑張っているなと、その程度の評価だった。ところがだ、その予測が二度、三度と当たる度に彼らは身体を震えさせた。最早これは予知じみているとね。それからは販売戦略、商品開発、イベントの日時とあらゆる事に利用され始めた。勿論その予測とズレている事もあったが、齟齬は軽微だった。その程度は戦略立案の段階で軌道修正出来る人間がいるから大した問題にもならない」
「そんな話聞いたこと無いが」
褒められたりとかも記憶にないし、話が出来すぎてやしないか。
「君が右から左へ聞き流してるだけじゃないか? 課長はそれなりに褒めてたはずだぜ。それとも君は称賛を正しく受け取れない厄介な性格をしているのか……なんかこれっぽいなぁ。まぁ、君は人付き合いが苦手そうだから仕事がしやすいように課長が守っていたというのも一因かもね。これでやる気もあれば昇任も話題に上がったんだけど、手を抜いて仕事をしてるだろう君。今日みたいにやれば出来るはずなのにわざわざ残業しているんだ。どうしてそんな事してるんだい?」
「家に帰っても寝るだけだからな。特にやることないし」
「え!? じゃぁあの資料って社内でしか制作してないの!? 普段から情報収集してるわけじゃないのかい!?」
「お前とは違うぞ」
そう言うとへなへたとテーブルに伏した遠野は泣き言のように文句を漏らす。
「そんなぁ、絶対僕と同じ畑の人間だと……同類だと思ってたのにぃ。僕のあこがれを返してくれよう」
知らん。勝手に人に偶像を貼り付けるんじゃない。
「はぁ……。じゃぁ君はどうやって情報収集してるんだい?」
どうやって、どうやってか。言われてみれば俺はトレーダーのように株価チャートを眺めているわけでも、足を使って市場調査をしているわけでもない。何の気無しに出来ることをちょっと付け加えただけだ。
「えぇ〜。なにか思い当たる事はないのかい?」
「どうしてそんながっつくんだよ」
「勿論気になるからさ。どういう手段かわかれば自分だって使いたい、そう思わないか? 実際僕としても会議では居所が悪いんだぜ? 課全体でカバーしているとはいえ君の成果を横から掠め取っているようでね」
そうか、それは悪いことをした。だけど本当に思いつくことは……。
「あ」
「何かあるのかい!?」
「いや、これは正直眉唾な話だと思うんだが」
「何でも良いから言ってくれよ。使えるならいいし、使えないなら話のネタになるからさ」
「ぶれないなお前……」
心当たりは俺が見る夢の話だ。
「昔から夢を見ることがあるんだ。幼い頃から、未来の自分の夢を」
「ほう、予知夢! それは興味深いね。どんな風に見るんだい?」
「自分を客観的に見るような感じだな。でも、その夢に見る自分は今の自分とは違う。音楽家だったりスポーツ選手だったり、立場が色々だ」
「おお、そういう夢を見ることで未来の知識を得ているんだね! そりゃぁ真似出来ない!」
「仕事してる感を出すために何となく見たことをやっつけで貼り付けてただけだ。それが正しいものとは思ってなかったし、自分が見ている状況は今の俺と違うし過去の俺とも繋がらない。正確性があるとは思えない」
「いやいや、それは君の近辺の状況が違うだけで周りは大して変わってないんじゃないかい?」
不意に遠野は目からウロコのような事を言った。確かに俺は自分の夢を見るとき、当然その焦点は自分にしか当てていない。だからそれ以外の外部情報は些事といえばそうだし、なんとなくでしか記憶してなかった。しかしそれを何度も繰り返していた結果焼き付いたものが正確な情報だったとしたら。
「仮に君がどんな職業についていようとも、社会に与える影響は軽微だろう? だったらどんな未来を見ていても共通項はそれなりにあるんじゃないかい?」
そう、なのだろうか。しかし所詮は夢でしかない。その未来が脳内の想像に過ぎない可能性は否定できないのだ。あの現実離れした夢の中で、並木佳苗はこれを異能だと言った。だとしたら本当に並行世界の自分を見ていることになるのだろうか。
「にしても、お前そういうオカルトじみた話信じるんだな」
「いや、別に信じてるわけじゃないよ。信じる信じないで語っちゃうと極端な話宗教じゃない。昨今はきのこたけのこですら戦争が起きる時代だよ? そういうのめり込み方は好きじゃないんだ。言うなればこの手の話は割りとよく聞く事と、単純に現代科学で証明出来てないだけで分かる人にはわかるんだろうと思ってるだけ。流石に胡散臭い人間は除くけどね」
「俺ですらただの夢だと思ってたんだがな」
「もっと詳しく確認してみればいいんじゃない? なんとなく目にしていたものであの資料が出来上がるんだったら、未来の売れ筋商品とかわかるかもしれないだろ。でも参ったな、これは僕には真似出来なさそうだ」
事実ならある意味ズルみたいなものだからな。誰もが目の前の未知に立ち向かう中で一人だけ霧を晴らしているようなものだ。しかしそうか、俺にも他人から憧られる程度には得意分野があったのか……。俺は夢の自分と比べてずっと平凡だと思っていた、思い続けていた。だけどそれは比較対象が問題だっただけで、周囲の人間からは手が遅くてもそれなりに出来る人間として評価されていたらしい。上も下も見ない悪癖があったからそんな事にも気づけなかったわけだ。今度からはもう少し周りを見ることにしよう……。自分がどんな風に思われてるか考えて動かないと課長や他の同僚に申し訳ない。
「はい、注文の品お待ち〜。ごゆっくりどうぞ」
「お、きたきた。相変わらず良いものを作るねえこの店の大将は。そっちの鯛出汁炒飯も美味そうじゃないか」
「お茶漬けっぽくて好きなんだよこれ。小皿に分けようか」
「おぉ、以前までは飲み会でも一人で細々と食べていただけの望月君が。成長したわねぇ」
「母親気取りかよ……」
悪態をつきながら意外と俺は笑うことができていた。夢のことでは確かに落ち込んでいたが、美味い食事や直接的な人との会話がそれを和らげてくれた。俺も現金なものだが、そのへんの気配り上手いんだよなこいつ。ああ、だから課長は彼に頼んだのか。直接課長がでしゃばってきたら確かにこんな眉唾な話はしづらい。
この後は適当に雑談をしながら食事を続けた。同期ではあってもお互いがどんな一生を過ごしてきたかとか、趣味は何かとかも全く知らない間柄だ。酒を飲み、気分を上げながら話は相応に盛り上がった。とはいえ自己中心的な生き方をしていただけあってあまり上手いトークとはならなかったが、遠野は聞き上手でガタついている口の引き出しをスルリと抜いてくれた。流石は社内の雀である。
「はー、食った食った。それじゃまた明日なー」
「ああ、また明日」
それなりに満足行くまで食べて話したところで、宴は解散になった。互いに反対方向に歩き帰路につく。そういえばあいつ、結局何で落ち込んでたか、とか直接聞いてこなかったな。それもまたあいつなりの処世術なのだろうか。どちらにしろ気分は晴れたんであいつからすれば内容そのものは問題じゃなかったのかもしれない。
「それに、少しだけやる気も出てきた」
気が沈んでいた時には思いつかなかったこと。俺の異能が本物ならば、夢に出てきた並木佳苗もまた一人の人格を持った女性なのだろう。俺の理想が生み出したイマジナリー女性とかでなければ。仮に彼女が俺が生み出した存在だというのなら、行動や反応は全部俺の理想とするものになってなければおかしい。しかしあの女は中々トンチキな性格で予想外だ。加えて頭が良すぎる。そんなものは俺の想像力では型を作っても落とし込めないだろう。
なら電話番号が登録されてなかった理由はきちんと聞くべきだ。
あの出来事はもう二度と起こらないような奇跡だったのかもしれない。それでも諦める理由にはならないし、努力はしてみるべきだろう。騙されたにしろ、何かの事故だったかにしろ、納得できるところに着地出来ればそれで良いのだ。
酔いに踊らされながらも無事家に帰り着く。さっさとシャワーを浴び、寝巻きに着替えて明日の準備をしておく。これで寝る準備は万全だ。するっと潜り込んだ布団は変わらず質がいい。内装は頓着する方ではないが、ベッドだけは自分のメインスペースだけあって高級なものを取り揃えている。マットレスも適度な硬さと寝心地の良い柔らかさを両立させ、枕は反発力はそこそこのそば枕。シーツも生地がさらさらでどの季節でも使えるすぐれものである。会えるかどうかの緊張はあったがベッドのクオリティが心を落ち着かせてくれるのだ。
「よし、頑張ってというには変だが、頑張って寝よう」
夢でまた彼女に会えますように。
俺は再び『結婚生活をしている俺』の夢を見ることを願って瞼を落とした。