6.老貴族と王の侍従
主から受けた指示通り、馬車から一抱えほどもある宝飾箱を運び出すナローティや騎士たちをちらりと目で追って……アスパルは、改めてバシリアに向き直った。
そして、慎重に言葉を選びつつ――日を改めたところでしばらくマールに会うのは難しいであろうことを告げる。
「……ほう?
そろそろ、一月近くになると思うが……それほどに重いのか、姫様のご病気は?」
「重い、といえば確かに重いのですが。それ以上に……」
アスパルは辺りをはばかるように声を潜める。
「顔に腫れ物が出来たのを気にしていらっしゃるようで……それゆえに人前には出たくない、と。
医者の話では、快復されればそれも自然に消えるとのことですが、何分、姫様もお年頃でいらっしゃいますから」
僅かに眉尻を下げ、いかにも気の毒だと言わんばかりのアスパルに、バシリアも苦笑で応えた。
「ふむ……それはさぞお辛かろうな。
しかし、間近に迫った〈聖柱祭〉では、それを理由に籠もられるわけにもゆくまい――それまでにご快癒されれば良いがな」
ソフラム王国――ひいてはその周辺国まで影響力を及ぼす創世神話の語るところでは、央都ユノ・グランデの地下には、神々が世界を創造した際、世界を支える拠り所として最初に生み出した〈一なる柱〉なるものが存在するという。
そして、神々の末裔たるクラウストラム王家は、その柱を護り奉るために生まれたのだと。
その神話に基づき、ソフラム王国では4年に一度、〈一なる柱〉に捧げるための国を挙げての大々的な祭事が催されてきた。
それこそが〈聖柱祭〉であり――特に王家の人間にとっては、重篤な病であるなど、余程の理由がない限り欠席が許されない、臣民の前で柱を守護する一族の末裔として誓いを奉り、国の繁栄と平穏を願うという、重大な祭儀なのだ。
……もっとも、神事として厳かに儀式に臨むのは王侯貴族ぐらいのもので、多くの国民にとっては単なる大きな祭りという程度の位置づけでしかなく――。
期間中、央都を包むのは、もっぱら浮かれ楽しむ民衆の、文字通りのお祭り騒ぎの熱気となるのだが。
「ごもっともです。医者によれば、〈聖柱祭〉までのご快癒も決して無理な話ではないとのことですが……。
こればかりは、姫様ご自身のお身体とご気力にお頼みするしかありませんので」
相手の様子を窺うようにやや間を置いて、アスパルはバシリアに同意する。
一方バシリアもまた、アスパルの真意を計っているかのように、ゆったりと相槌を打った。
だがそうかと思うと、彼は口もとに含みのある微笑を浮かべる。
「……しかし、何だな。儂などは――ご病気と仰られてはいるが、その実、ややお転婆が過ぎる姫様のこと……。
祭りを控えて活気に沸く街に興味を引かれ、お屋敷を抜け出してしまわれたのではないか、などと心配もしたが」
アスパルの胸の内で、ざわりと細波が立つ。
それを面に出さないよう注意を払いながら彼は、まったく本当に、と言わんばかりに控えめな笑顔とともに頷いてみせた。
「それは、何とも姫様らしい。
ですが、さすがにそれは……よしんば抜け出ることには成功したとしても、家人に見咎められて今頃は大騒ぎになっていましょう。
――それこそ、巷で噂の盗賊〈黒い雪〉が姫様を手伝った……などという話でもない限りは」
快活に笑い返しながら、バシリアは無邪気ともいえる仕草で首を傾げる。
「ふむ……〈黒い雪〉とな?
儂は聞き覚えがないが――ナローティ、その方は存じておったか?」
言いつけられた仕事を終え、戻ってきたナローティに話を向けるバシリア。
目敏い商人は多少離れていても2人の会話にしっかりと聞き耳を立てていたのか、どういうことかと問い返すこともなく、二度三度と頷いた。
「はい、存じ上げておりますとも――。
盗んだ金をばらまいて施してやったりするせいで、無知な民衆からは義賊だなどと持ち上げられておる、けしからん盗賊でございますな。
……ただ、実際その腕は確かなようで、未だ、その姿をまともに見た者すらロクにおらず――魔法使いなのだという、馬鹿馬鹿しい噂まであるようで」
「ほう……それで、なぜそのような名を?
やはり、黒い雪など存在せぬのと同じように、正体が知れぬからか?」
老貴族の重ねての問いに、今度はアスパルが答える。
「当人にはそうした自負もあるやも知れません。
――詩人、カティーニの名は閣下もご存じと思いますが……そのカティーニの若い頃の詩である、〈黒い雪〉。
それが書かれた紙片を盗みに入った所へ残していくことから、その盗賊は誰にともなくその名で呼ばれ出したと――私は、そう聞いております」
〈黒い雪〉が義賊と呼ばれる理由――それは、あくどい商売によって不当に財を貯め込んだ商人からのみ盗み、被害を受けた者たちへ還元するからであり、誰彼構わず盗むわけでも、また施すわけでもないということを、アスパルは聞き及んでいた。
ゆえに、先のナローティの説明は正確とは言い難いものだと理解していたが……しかし彼は、敢えてそれを訂正しようとまではしない。
「……なるほど、〈黒い雪〉か。
確か、役人の不正と、それを助長する大衆の軽薄さへの憤りを表した詩だったと記憶するが……。
なるほど、そんなものを持ち出すとは、風雅を解する心は持ち合わせておるのかも知れぬが、いささか傲慢よな。
けしからんと言えば、確かにけしからん盗賊よ」
興味深げに、鷹揚に頷くバシリア。
……そうしているうち、見舞品の引き渡しが無事済んだのを見届けた彼は、従者たちに帰る旨を伝え、改めてアスパルと正対する。
「ではアスパル殿、儂は今宵はこれで失礼するが……。
もし姫様にお目通り叶うことがあったならば、この老爺、元気なお顔を拝見出来る日を心待ちにしておりますと、そうお伝え申し上げてくれるか」
「承りました。――その折には、必ず」
深々と頭を垂れるアスパル。
その後ろ頭に頷きをくれて、バシリアはナローティを伴って馬車へときびすを返した。
――やがて、主人を乗せた馬車の車輪の音が遠ざかるに至って……ようやくアスパルは頭を上げる。
「……さすがに、そうそうそれらしい反応は見せない、か……」
彼の細く厳しい視線は、水路に架かる橋を渡っていく馬車を、射抜くように見送っていた。