帰り着くのが鳩
「……それにしてもまさか、戻らない――だなんてね」
普段着のサヴィナは、どこか呆れさえ含んだような調子でそう言うと、湯気の立つコーヒーを静かに一口含んだ。
それに、酒杯を片手にロウガも同意する。
「ま、こいつも意地っ張りだからなあ……馬鹿が付くほどに」
「……何とでも言え、くそったれ」
――〈シロガネヤ〉の昼下がり。
訪れたサヴィナとロウガは、いつ王族に戻るのか、という問いに対してレオが返した答えに……2人して苦笑を漏らしていた。
「まあまあレオ君。
ロウガってば、王族として宮廷に戻るより自分たちを選んだくれたことが嬉しくて、照れてるだけだから。許してあげてよ」
「おい、下らねえこと言ってんなよ?
……まあ、実際……〈仕事〉を任せられるような鍵師を新しく探す必要がなくなったことは、純粋にありがてえけどな」
ロウガがギロリと一睨みしても、まるで意に介した様子はなく、サヴィナはのんびりとコーヒーを楽しむ。
「まったく、ほんの数日前に生きるか死ぬかの状況に置かれていた人間とは思えねえ。
つくづく、女ってやつぁ逞しいねえ……」
舐めるようにちびりと酒杯に口を付け、しみじみとそんなことを言っていたロウガは……ふと何かを思い出したのか、軽くテーブルを打った。
「ああそうそう、今朝早くに入った情報だがな、レオ。
……ナローティの奴、昨夜の内に、自分から警備兵詰め所に出頭してきたらしいぜ?
手土産に、バシリア卿とゾンネ・パラスの間で結ばれた密約の誓書を持って、な。
引き換えに、財産を没収されようと、地位を失おうと、何としても命だけは守ってくれ――と、必死に哀願してきたそうだ」
得意げなロウガの話に、蜂蜜を溶かし込んだコーヒーを啜っていたレオも、微笑混じりに「そうか」と頷いた。
「お前の計算通りになったな。
……正直、あの祭り初日の夜、あれだけ苦労して揃えた鍵まで使って開けた箱が空っぽだったときは、どうしたものかとさすがに焦ったが」
「僕は……まあ、マールの正体が気付かれていたって時点で、なんとなく想像もついていたしな。
で、バシリアはともかく、利に聡い商人のナローティは、上手く脅してやれば必ず転がり込んでくると思ったんだ」
「……ふーん……?
詳しくは分からないけど、あなたたちの顔を見る限り、ようやくこの騒ぎも本格的に片が付いた――ってところなのかしらね?」
「概ね、な。
……あとはほれ、レオには、オフクロさんの見舞いって大仕事が残ってるが」
サヴィナが向けてきた視線をそのまま受け回すように、レオを見るロウガ。
当のレオは、何とも言えないような顔で、大きな音を立ててコーヒーを啜った。
「レオ君……まさかこの期に及んで、行かない、なんて言わないわよね?」
「――さて、ね……」
掲げたカップで顔を隠すように、素っ気なく応えるレオ。
その様子に、もう少し突っ込んでみようかと、サヴィナが言葉を選び始めたそのとき――。
「ただ今戻りましたー」
玄関の方から明るい声が響いてきたかと思うと、居間のドアを開け、見知った少女の顔が覗いた。
――それを見たレオは、思わずガチャンと乱暴にカップを置く。
「マール!? お前、なんで――」
「なんで戻ってきた、ですか?
でもそれを言うなら、兄様はどうしてお戻りにならないんです?」
「馬鹿。僕は公には死んだ人間なんだぞ? むしろ戻らない方が普通なんだ。
その点お前は、そもそも、屋敷を出ていたことすら世間には知られてない。
それに、出生に関する問題も一応の片が付いて……もうこちら側にいる理由もないはずだろう?」
早口に捲し立てるレオに、しかしマールはどこ吹く風で答える。
「理由ならありますよ? 色々と。
それで、その内の一つは、兄様のお目付役ということで……お父様から直々に仰せつかりました。
ですから、屋敷に居ない理由も、地方の神殿に神官としての修行に行った――とか、いかにもなものをお父様が用意して下さるそうなので、問題ありません」
「……まったく……何考えてやがるんだ、あの馬鹿親父は……!
くそったれ……!」
天を仰いだ顔を覆って、絶句するレオ。
そんな2人の様子に、思わず顔を見合わせて忍び笑いを漏らしていたロウガとサヴィナだったが……やがてまずはロウガが、簡素な挨拶を残してこの場を去って行った。
続けてサヴィナも席を立つが――彼女はすぐには去らず、マールにそっと顔を寄せる。
「マールちゃんが側に居るのなら安心ね……色々と」
「――え?」
耳元で小声で告げられた言葉の真意が理解出来ず、目を瞬かせるマール。
そんな少女に、サヴィナは悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
「牢屋に居るとき、わたしが内緒でした話、あるでしょ?
さっきレオ君に、王宮に戻る気が無いって聞いたとき、あれれ、って思ったんだけど……マールちゃんが側に居るって聞いて、逆に何か納得しちゃったわ」
「え? え?」
「きっとこれも、後々のために、取るべくして取る道の一つなんだろうな――ってね。
それと、マールちゃんの中の、きっといくつかある『理由』のうちの一つ……同じ女のわたしには、何となく分かるから」
その発言の真意を悟った上で戸惑っているのか、それとも混乱しているだけなのか……。
複雑な表情で目を白黒させるマールの赤らんだ鼻先を、サヴィナはちょんと指で突っつく。
「おい……さっきから何をヒソヒソと話してるんだ?」
「あら。女の子の内緒話に首を突っ込むものじゃないわよ、レオ君」
不機嫌なレオの問いかけをさらりと受け流すと――「じゃあね」とひらひら手を振って、サヴィナも立ち去っていった。
それを見送り、改めてレオと2人で向かい合ったマールは、しばらく所在なげに目を泳がせていたが……やがてふと閃いたように、
「あ、あの、コーヒーでも煎れましょうかっ?」
と、提案するも……レオはカップを片手に冷ややかに拒否する。
「……僕に何杯飲ませる気だ?」
「あ、そ、そうですね……」
「まったく……戻ってきたときは堂々としていたかと思えば、何だいきなり。
一体全体、サヴィナの奴に何を言われたんだか……」
怪訝そうに言って、レオはずずず、とわざとらしく音を立ててコーヒーを啜っていたが……。
やがて、ふうとため息を一つつくと、マールを呼ぶ。
そして、手を出させると――
「ま……戻ってきたのなら、これを渡しに行く手間が省けたってものか」
いつもの調子でぶっきらぼうにそう言って、懐から取り出した物をそっと押しつけた。
「あ……これ……!」
マールは、手の中に目を落とす。
……そこで美しく輝いていたのは――水の雫を捧げ持つ2人の人魚を象った、あの銀の首飾りだった。
「念を押しておくが、それは複製じゃない、本物の方だぞ。
お前が付けていた傷、僕が確認のためにもう一度付けた傷……と、何かと傷だらけだったんでな。
『大事な部分』をきちんと隠す必要があったし、あれじゃあ……まあ何というか、見栄えも悪いしな。修復しておいた」
「あ……でも……」
どこか戸惑いを見せるマール。
その手を取ると……レオはぎゅっと、首飾りを握らせた。
「持っておけ。
それは他の誰でもない、お前こそが持つべき物だろう?」
「……兄様……」
マールは、一度レオの顔を見返した後――。
「はい……はい! ありがとう、ございます……!」
改めて……満面の笑顔とともに力一杯、その宝物を胸に掻き抱いた。




