〈酒盗亭〉にて
――5日間続いた〈聖柱祭〉は、つつがなく終わりを迎えた。
初日にこそ、大貴族バシリア卿が妄言を振りかざすという騒動があったものの――それとて、〈貴族街〉という雲の上の世界でのこと。
央都民の多くにとっては、およそ酒の肴にしかならない程度の話であり……4年に一度の大祭と沸き立つ活気に、水を差したりはしなかった。
〈酒盗亭〉も、祭りの最中はとにかく盛況だったが……それが終わり、さらに店も閉める間近の時間となると、残っているのは酒にしがみついて生きているようなどうしようもない酔っ払いばかりで――普段通りの下町の一酒場へと、夢から醒めたように立ち戻っていた。
そんな客をいつものように丁重に追い返し、店じまいに入っていたところへ……新たに1人、ドアをくぐってやって来た初老の酔客。
気付いた給仕の少女は、床を掃除していた手を止め、やれやれまたかとばかりにその客を追い返そうとするが……カウンターの向こうにいたオヅノが、笑顔で少女を制する。
「やあ、ごめんごめん。
言い忘れていたけど、そのお客さんはアタシが約束していた人なんだ。ね。
あとの片付けはアタシがやっておくから、今日はもう上がってくれていいよ。
うん、お疲れ様」
地回りを纏めるオヅノの立場上、こうした事態がままあることは、少女も良く理解しているのだろう。
慣れた様子でそれ以上は客に余計な注意も向けず、手早く掃除道具を片付けると……店主の言に素直に従って挨拶を一つ残し、裏口からさっさと店を出て行った。
少女が去るのを見届けた客は、一人残ったオヅノが示すまま、彼の前の席に腰掛ける。
「ふむ。若い娘に酌でもしてもらおうかと思っていたが……いささか残念だ」
「おや、これは気が回らず。
……お望みでしたら、近所の細工物屋の看板娘にでもお願い致しましょうか?」
オヅノの普段通りの飄々とした笑顔に、客も微苦笑を返す。
「それは勘弁願おうか。後々、何かとうるさく言われそうだ」
「お察し致します。
……で、ご注文の方は?」
「任せよう。そこまで東方の酒肴に詳しくはないのでな」
「承知致しました。では、こちらのおすすめを」
応えてオヅノは、酒盗と清酒を客に供する。
……教えられるまま、拙いながらも小器用に箸を使って酒盗を、そして、珍しがりながら徳利から猪口に注いだ清酒を味わい――客は素直な笑みを口元に浮かべた。
「ふむ、美味いな。クセがあるが、そのクセがまた酒に良く合う。
……そして、この酒だ。
見た目の美しさもさることながら、味も香りもまた美しい。
透き通った鋭さがありながら、それでいて奥深い。面白いな」
「お気に召しましたようで、何より。
……ご子息の方は、そのクセを嫌がられますが」
「それは惜しいな。実に勿体ない」
そう言って、客はもう一度酒と肴を味わう。
「しかし……まさか、こんな場末の酒場に、わざわざ足をお運びいただけるとは思いもしませんでしたよ――陛下」
改めてそう言葉にすると、客――ガイゼリック王も、ニヤリと笑い返した。
「なに……報告を受けて、是非とも一度直に話をしてみたいと思ってな。
遠く東方よりの異邦人にして、義を重んじると評判の地回りを纏める、やり手の頭領とは如何ほどなものなのか――と」
「噂はあくまで噂。
恐れ多くもご覧の通り、ただの冴えない酒場の親父でございますよ」
「ただの親父は、わしの正体を承知してなお、そうして落ち着いてなどいられぬよ。
……いや、そもそも、一目でわしがそうだと看破など出来ん」
言って、王は猪口に酒を注ぎ足す。
「さて――ともかく、まずは礼を言わせてもらいたい。
マールからもさわりは聞いているが、今回の件の解決に力を貸してくれたそうだな。
加えて、これまでレオの面倒も見てくれていたとのこと――2人の父親として、感謝に堪えん。
褒美を取らせたいと思うが……何を望む?
もっとも――残念ながら、お主らが『本職』としている行いを見過ごせ、というのは、聞き入れられぬがな」
王の探るような視線に、しかしオヅノはまるで心当たりがないとばかりに首を傾げる。
「さて……地回りのことでしょうか?
まあ、確かにお国のお墨付きをいただいて活動しているわけでもなし、賭場の仕切りやら、娼婦の取りまとめやら、あまり胸を張れないようなこともしておりますが……。
お国の目の届かない所の秩序を守るためにも、必要悪な一面もあるのではないかと」
「ふむ、地回りについてはそうだろう。
本来なら、国が遍く目を配るべきなのだろうが……なかなかそうもいかぬゆえ、そうした民間の自発的な行動が秩序の構築に一役買っているという点については、わしも認める。――が、わしが申しているのはそうではない。
単刀直入に聞くが……オヅノとやら。
お主らこそが、昨今巷で話題になっているという盗賊団〈黒い雪〉ではないのか?」
「ほう、これはこれは……。姫様がそう仰いましたか?」
何気ない様子の2人の視線が、ふっとその一瞬、交錯する。
「あれは存外したたかで賢い娘だ、恩人に後足で砂を掛けるような真似はせぬよ。
……が、あれが何も言わずとも、我々が知る限りでのレオたちの働きや、そもそもマールを屋敷から連れ出した際の見事な手際などを鑑みれば、そうした考えも出るというもの。
もっとも、それだけでは盗賊という単語に行き当たる程度――〈黒い雪〉とまで断定したのは、今こうしてお主と話してみた感触からの、わしの勘によるところが大きいのだがな」
王はちびりと猪口に口を付けながら、オヅノの様子を窺う。
確証など無いにせよ、さすがにこれだけのことを言われれば少しは動揺を見せるだろうと予測するも……。
オヅノはやはりまったく変わらぬ様子で、大きな腹を揺らして朗らかに笑った。
「なるほど。
……して、〈黒い雪〉が見つかれば、いかがなされるおつもりで?」
「いかな『義賊』といえど、盗みを働く者を放っておくわけにもいくまい。それなりの処置を施す必要はあろう。
例えば、これまでの罪の贖いに、国のために奉仕させる――そんな具合の『処置』をな。
――で、だ。
わざわざそんなことを確認するということは、大人しく認めるのか?」
「……さて、いかがなものでしょう。
陛下がそうだと信じられるのなら、そこに私ども自身の認否など、差し挟む余地はありませんので」
飄々とした調子で、しかし真っ向からそんなことを言ってのけるオヅノ。
「……ふむ。
では、これより警備隊を呼び、徹底した家捜しをさせても構わぬかな?」
早くも扱いのコツを掴んだのか、掲げた箸を器用に鳴らして告げる王。
だがオヅノは一寸の戸惑いも見せず、大きく頭を下げた。
「お望みとあらば、どうぞご随意に。
天地神明に誓い、逃げも隠れも致しませんので」
王はなおも、しばらくそんなオヅノを眺めていたが……。
やがて、観念したように苦笑混じりに息を一つ吐き出した。
そして――
「……なるほど、その程度の事態、常日頃より想定済みというわけか」
誰にも聞こえないような声で小さくそう呟くと、大きく首を横に振った。
「――分かった、悪かった。子らの恩人に対し、悪ふざけが過ぎたようだ。
珍しい酒肴に、年甲斐もなく気分が高ぶったのであろう――済まなかったな、赦せ」
「いえいえ、滅相もない。恐縮にございます」
「ふ……いや、まったく。
思っていた以上に食えぬ男よな……お主は」
一転して素直な笑みをこぼしながら、王は小さいが重みのある革袋をカウンターに置いて立ち上がった。
袋の口からは、金貨が覗いている。
「失礼ながら陛下、それほどのお代は頂戴出来ませんが」
「受け取ってくれ。
我が子が、これからも世話になる迷惑料も込みというやつだ」
「おや……殿下は、王宮に戻られるのではないので?」
オヅノの問いに、王はどこか茶目っ気を含んだ仕草で肩をすくめる。
「無論、わしとしてはそうしてほしいところだが……まあ、今しばらく戻る気はないであろうよ。
あるいはマールの方も、そう申すかも知れんしな」
「よろしいのですか?」
「どちらも、言い出したら聞かん頑固者だ……好きにさせるとも。
市井の身でなければ学べぬことも多かろうしな。
……もっとも、お主の為人によっては、再考の余地もあったのだが……」
もう一度目を細めてオヅノを見据えた後、王は小さく首を振る。
「どうやら要らぬ心配だったようだ――今しばらく、お主らの世話になるのも悪くはあるまい。
――おっと、それはそれとして、だ。
忘れるところであったが、先にした褒美の件……望みはないのか?」
「滅相もございません。
我ら、生まれは異国なれど、今は陛下の民の一員としてこの国に身を置く者……。
それが、及ばずながら陛下の一助となれたのならば、それ自体が僥倖というもの。
この上重ねて褒美など賜るわけには参りません」
迷い無く、深々と一礼して答えるオヅノ。
ふむ、と頷く王は、そのオヅノの辞退の真意を探っているかのようでもあったが……特にそれ以上の追求はしなかった。
「……分かった。
ならば、その献身の姿勢に甘え――これからも、子供らのことのみならず、お主らを何かと『頼り』にさせてもらうとしようか。
……構わぬな?」
「ありがたき幸せにございます。
正式なものでないとはいえ、陛下のお言葉とあれば、私どもで助けになることならば微力ながら力添えさせていただくこと、誓いましょう。
もっとも――。
陛下が、その王道を違えぬ限りは……ですが」
「……忠言、しかと心しておこう」
微笑を口元に、満足げに一つ頷くと、王は踵を返してドアへと向かう――かと思いきや。
ふっと、何かに気付いたように立ち止まり、振り向いた。
「――もしやとは思うが、オヅノよ。
お主、今回の一件、こうしてわしの言質を得んがために……」
「さてさて。何のことでございましょうか」
子供のような無邪気さで小さく首を傾げるオヅノ。
そのさまに、王はやれやれと首を振り――
「ふ――まったく、タヌキめが」
どこか愉しげに、そう一言言い置くと……今度こそ〈酒盗亭〉を後にしていった。
「では差し詰め、そちらもやはりタヌキと言ったところですか。ね。陛下」
ぽつりとそう呟くオヅノも……王の背中を、普段のそれとはどこか違った、物静かな微笑みをもって見送っていた。




