8.王子と娼婦、王女と侠客 −1−
「ったく、しょうがねえなあ……姉ちゃんは。
――マール、オレはチビどもの相手してやんなきゃいけないからさ、代わりにそれ、届けてやってくれよ。
姉ちゃんなら、運河沿いを通ってるはずだから」
日も傾き、仕事のために家を出たサヴィナ――。
その忘れ物の、彼女が勉強のために娼館の女将から借りていたという詩集をフレドに託されたマールは、慌ててサヴィナの後を追って駆け出した。
サヴィナたち姉弟の家は、いわゆる〈貧民街〉と呼ばれるような区域にあるが、その中では立地としては比較的良い場所だった。
馬車が通れる程度には広い通りに面し、フレドの言っていた運河沿い、いわゆる大通りまでも大した距離は無い。
マールには想像もつかないことだったが……彼女のような少女が1人、今のような時間にこの辺りを無警戒にお使いに走ったり出来るのも、〈蒼龍団〉が縄張りとして一帯を管理し、治安を飛躍的に向上させたがゆえだった。
それ以前であれば、道端で蹲る酔っぱらいや物乞いの数など今の比ではなく――加えてその中に追い剥ぎや人さらいが潜んでいるのだから、日が傾いてから女を1人で外に出すなど、正気の沙汰ではなかったのだ。
「あ、いた……!」
雑然とした道を何度か折れ、目当ての運河沿いの大通りが視界に広がってすぐ――マールは、欄干寄りを歩くサヴィナの姿を見出した。
だが、早く用事を済ませて戻ろうと思っているにもかかわらず彼女は、呼びかけようとした口を塞ぎ、手を引っ込めて……角に建つ家の陰にさっと隠れてしまう。
原因は――サヴィナが近付く男の存在だった。レオだ。
「……兄様……」
まだ顔を合わせるのにどこか気まずさを覚える彼女は、しかし湧き起こる好奇心には抗えず……物陰から2人の様子を窺おうと、そっと顔を覗かせる。
「レオ君、どうしたの? こんな所で」
欄干に身をもたせかけ、夕暮れから宵闇へと、変化する色彩を映す運河をじっと覗き込んでいたレオ。
近寄ったサヴィナが声を掛けると、レオは珍しく、驚いたように顔を跳ね上げた。
「――サヴィナ?
あ、ああ、そうか、そんな時間か……。今から、か?」
「ええ、まあね。
今日は別に約束が入ってるわけでもないんだけど……少しぐらい早いうちに行って、お客さん捕まえる努力しないと、誰も相手してくれなかったら稼ぎにならないもの」
明るく答えるサヴィナだが、反してレオはどことなく面白く無さそうに「そうだよな」とだけ呟いた。
「……で、あなたは? こんな所で黄昏れちゃって。
――ああ、そうか、マールちゃんを連れ戻しに来たのはいいけど、どう謝って仲直りしようか、それで悩んでるのね?」
「勝手に決めるな……っ!」
あからさまな挑発に容易く乗って、声を荒げてしまうレオ。
それもそのはず、ロウガがマールに計画への協力を頼みに行くのを待ちながら……今、彼が考えていたのは、まさにマールのことだったからだ。
ともあれ、自分の大声ですぐに醜態に気付いたレオは、眉根を寄せた不満げな表情のままに、声の勢いを落とす。
「……大体、どうして僕が謝るのが前提になってるんだ」
「あのね、女の子泣かせたのよ?
理由がどうでも、男が謝るしかないでしょ?」
「そんなの、それこそ女の勝手な理屈だろ」
「そう? むしろ、男の矜持って気もするけど」
まるで動じる様子もないサヴィナに、レオは早くも参ったと言わんばかりに大きくため息を吐き出した。
――出会った頃からこうだ、と、つくづく思い知らされる。
他の人間が相手なら構わず食ってかかるところでも、サヴィナ相手だとどうにも気勢が削がれて、自ら矛を収めてしまうのだ。
「……どうせなら先にお前に謝るよ、サヴィナ。
マールのこと、迷惑をかけてすまない」
「謝ることなんてないし、迷惑でもないわ。
あなたの妹なんだから、わたしたちにとっても兄弟みたいなものだもの。
それにマールちゃん、良い娘だしね……ちょーっとお寝坊だけど」
「それは……その……悪い。いや、本当に」
それこそ自分の責任でもないのだが、レオはなぜか頭を下げずにはいられなかった。
その様子に、サヴィナは穏やかに微笑む。
「……ねえレオ君。改めて一つ、確認したいんだけど。
どうしてマールちゃんを、お屋敷から連れ出したの?」
「ん〜……」
レオたちとは距離があるので、様子を窺うと言っても、2人が何を話しているかは、マールにははっきりとは聞こえない。
今のところ、盗み聞きなどするものではない、という倫理を掲げた理性の命ずるまま、動かずにいるマールだったが……。
純粋な好奇心と、少女らしい睦言への興味とが徐々にその勢力を増してきて、ともすれば内側から彼女を、2人の近くへと引っ張ろうとしていた。
そうした葛藤の中にあったからだろう――。
彼女は、背後に近寄る人影があるのにまったく気付かなかった。
いきなり肩に手を置かれた瞬間――「ひゃっ!」と声にならない声を上げて、文字通りその場で飛び上がってしまう。
「はははっ、そんなところはその辺の娘っ子と変わらねえな?」
「ろ、ロウガさん……? 驚かさないで下さい、もう……!」
頬を膨らませながらも、そこに立つ相手が見知った人間だったことで、ほっと安堵の息をつくマール。
「おう、悪い悪い。今、家に行ったら、フレドがこっちの方へ行ったって言うもんでな。
……しっかし、一体全体こんな所でコソコソと何やってんだ――って、ほう? なるほどなるほど」
マールが向けていた視線の先を追って、そこにレオたちの姿を見出したロウガは……したり顔で頷いた。
「の、覗いていたわけじゃないですよ?
ただ、その……顔、合わせづらくて……」
「ふーん……? いやいや、信じる、信じるさ。
ああ、そりゃそうだよなあ」
不満そうに上目遣いに見上げてくるマールに、ロウガは慌てて愛想を振りまく。
……そもそも、マールに計画への協力を頼みに来た彼である――どう転んでも断られることはないという自信はあるものの、それでもわざわざ機嫌を損ねるような真似はしたくなかった。
「気まずいって点なら、レオの奴も同じだろうしな」
「兄様も……ですか? でも……」
昨夜のレオの剣幕を思い出したのか、俯くマール。
ロウガは、その細い両肩を掴むと……くるりとレオたちの方へ振り向かせた。
「頑固で意地っ張りだからな、なかなかそういうところは見せやしないが――本質的には甘ちゃんなんだよ、アイツは。
……ま、何だかんだでガキってこった」
「……兄様が」
「大体、あれで見限るぐらいなら……。
たった1人で、お前を屋敷から連れ出したりするもんかよ」
思いがけない一言に、マールはロウガを振り返る。
「意外か? 実はな、お前をさらうのに〈黒い雪〉は一切手を出してないんだよ。
――ほれ、お前も知ってるあの詩。あれ、お前のときには残さなかっただろう?」
「それは……正体を隠すためだと思ってました」
「それなら、初めからあんな真似してねえさ。
――ともかく、あの〈仕事〉は、完全にアイツが1人でやったことで、俺は何にもしちゃいない。
……まあ、警備状況やら見取り図やらの、忍び込むための事前情報はウチのオヤジ殿が集めたモンだが……それにしたって、レオから依頼を受けて仕事としてこなしたわけで、善意の協力なんかじゃない。
きちっと金は貰ってるのさ――それなりの額の金を、な」
「兄様……」
マールは視線をレオたちの方へ戻す。
向こうの2人もまた、淡々と何かを語り合っているようだった。
その様子を遠目に見つめたまま……マールは傍らのロウガに尋ねる。
「ロウガさん……。
兄様はどうして、そうまでしてわたしを連れ出したんでしょう?」
マールのその問いに、ロウガは何かを考えているのか――やや間を置いてから、答えを口にした。
「アイツ自身が言ったはずだろう?
お前を束縛から解き、お前自身の人生を返してやるためだと。
……今なら、その意味も分かるんじゃないか?」
「それは……はい、分かります。でも――」
マールは肩越しにロウガを振り返る。
吊り目がちな青い瞳は、何もかもを見透かし、映し出そうとする湖面のように……深く、静かに、どこまでも澄んでいた。
「それだけじゃない……そうじゃないですか?」




