12.元王女が得たものは
「……ふぅ……」
城での一通りの勤めを終え、夜、屋敷に帰ったアスパルは――朝と同じように、裏庭に面したテラスの一席に腰を下ろしていた。
こうして一息つくと、いかな彼とて、正装を解いてゆっくりとくつろぎたいという気持ちが頭をもたげるが……。
それよりも先に確認することがあると、彼はそのまま妻がやって来るのを待つ。
やがて――さしたる間もなく、奥から銀のトレイを手に、ユニアが姿を現した。
朝と違っているところは、彼女がトレイに載せているのがコーヒーではなく、葡萄酒ということだ。
「まずは、お疲れさまでした」
労りの言葉とともにユニアは、葡萄酒を注いだグラスを夫に渡す。
一言礼を告げてそれで唇を湿らすと、アスパルは待ちきれないとばかりに勢い込んで、ユニアに首尾を尋ねた。
そう――アスパルが疑いを抱いた、第三王子レオノシス生存の可能性。
そして、その王子が事実生きていたとして、ガイゼリック王と対立するバシリア卿の一派に協力している可能性――。
それらを探ってみてほしいという、朝に託した依頼の首尾を。
「まさかとは思うが……直接バシリア卿の下を訪れてはいないな?」
「それも考えましたけれど……」
夫の硬い表情を解きほぐすように、ユニアはたおやかに微笑む。
「お言いつけ通り、ナローティの方をあたりました。
さすがに、バシリア卿ほど老獪な方が相手では、私も上手く事が運べるか不安でしたから」
「……そうか。君のことだ、最善の結果を得ようと、ナローティよりもバシリア卿を相手に選ぶような真似をしていないか、少し不安だったんだ」
心底ほっとしたとばかりのアスパルに、ユニアはくすくす笑う。
「私も、そこまで自分を過信してはいませんよ。
――ところで、陛下にはどのようにご報告を?」
「陛下やテオドラ様には……殿下のことは、まだお話ししていない。
もしも私の気のせいだとすれば、却って余計なご心痛を被られるだけだろうからな……確証が取れるまではと思っているのだが。
それで――どうだった? ナローティは何かを知っていたか?」
自分の分の葡萄酒を注いだグラスを両手で持ったユニアは、一旦夫から視線を外して夜空を見上げ、大きく息を吐き出した。
そしてそのまま、凛とした声で答える。
「……結論から申し上げれば、彼は何も知りませんでした。
レオが死んだということを疑っていないようですし、少なくとも、レオが生きているとして、彼らの手先となっている可能性は極めて低いでしょう。
あくまで、私個人の見解として、ですけれど」
「君の眼力を信じているからこそ頼んだことだ。
……しかし、そうか、少なくとも殿下は――生きておられたとしても、奴らに協力しているわけではないか……それが分かっただけでも僥倖だ」
ふう、とアスパルも息を吐く。
妻のことに続き、また一つ肩の荷が下りたようだった。
「ともかく、ありがとうユニア。
危険な目に遭わせて申し訳なかったが、君のお陰で――」
「あら? まだ、私の報告は済んだわけではないのですけど」
「……何だって?」
独り言のように夜空に向かって呟く妻を、目を白黒させてアスパルは見やる。
その視線に気付いたユニアは……悪戯っぽい表情で、改めて夫と目を合わせた。
「まだあるんですよ、お話が。
……根拠と言うほどの強い根拠もない、女の勘に基づくものなのですけれどね」
「ふむ……それは、どのような……?」
妻の言う通り、それが本当に勘任せの話なのか、それとも彼女らしい冗談混じりの表現なのかは、アスパルにも判別は出来ない。
ただどちらにせよ、ユニアが報告すると言う以上、それが彼にとって無視出来ないことなのは違いない――そんな確信はあった。
「はい、ナローティの女遊びについてです。
……どうもあの男、最近気に入った娼婦に『鍵を掛けて』いたようですね」
「……む……。鍵を、か」
微かに顔をしかめつつ、アスパルは頷く。
……ユニアの言う『鍵を掛ける』という表現が貞操帯を指していることぐらいは、彼も即座に理解出来た。
実際、名目上の貞操保護というよりもむしろ、一種の嗜好品として使い、そしてそれを憚ることなく他者に語る人間が、貴族の中にも多少なりといて、決して珍しいものでもないからだ。
ちなみにそうした行為について、両者合意の上ならそれも好きずき、とユニアは比較的寛容だったりもするが……アスパルはどうしても嫌悪感を拭えなかった。
頭が固いと言われるのも承知の上で。
「ですが、それを無断で外された、とかで。随分と腹立ちの様子でしたよ。
そう――」
井戸端での噂話に興じるかの如く、どこか楽しげに語るユニアに、さすがにその艶聞がどうかしたのかと問い返したくなるアスパルだったが……。
その瞬間、そんな彼の思考を見抜いたかのように――ユニアは、次の言葉を発するのに口調を強めた。
「……レオ、という名の若者に」
「―――!」
アスパルは一瞬息を呑む。
だがすぐさま、自らを律するように首を振った。
「いや、待て――レオという名だけ見れば、央都には無数にいる。
それに、今は別の名を使っていらっしゃるかも知れないのだ。
そう都合良く、殿下本人のことだとは――」
「ですから最初に、女の勘に基づくものだと、お断りしましたでしょう?」
夫の表情の変化を楽しむように、ユニアはくすりと笑う。
「もっとも――その『鍵』には、最近ナローティ自身が異国より仕入れたばかりの、小型ながら精緻で複雑な錠が取り付けられていて……。
そう、街の一般的な鍵師などでは、おいそれとは外せないものだそうです。
けれど、稀代の錠前師ラフォードの手になる、解錠不可能とまで言われた〈時転錠〉――あれなどに比べれば、決して難しいものではないでしょうね」
……また、アスパルの顔色が変わった。
だが、笑顔のままのユニアの姿に、それも予期されていたのだと悟ると……気恥ずかしそうに一つ咳払いをして。
表情を、執務中の取り澄ましたものに意識して切り替える。
職業柄、宮中にいるときなどは特に極力無表情であるよう努め、そしてそれが出来ていると一応の自負もあったものの……改めて彼は、妻には敵わないと実感させられていた。
「……なるほど。
幼少のみぎり、オーデル家に滞在していたラフォード殿から直接教えを受け……。
しかも、かの〈時転錠〉すら独力で解錠した実績をもつ殿下であれば、難解と言われる錠をも外すことが出来るはず――か」
「もちろん、他の腕の良い鍵師かも知れません。
いえ、単純に可能性だけで言えば、そちらの方が高いでしょう。
ですが……」
「そうだな、調べてみる価値はありそうだ。
――それで、他に手掛かりは?
さすがに、関係者が娼婦というだけでは……」
「もちろん、〈麗紫商会〉の召使いなどにもそれとなく話を聞いておきましたよ。
……ただ、彼女らが言うところには、ナローティは女遊びへ出向く際にはお忍びで、供も信用のおける者数人しか連れていなかったようで……残念ながら、目当ての娼婦の名前や、住まいまでは分かりませんでした。
けれど、ナローティ自身の嗜好、そして発言から――その娼婦が央都では珍しい、東国生まれの女性であることは明らかです。
そして、召使いたちの噂する、屋敷を出てから帰るまでの時間や、馬車の方角などから予測すれば……。
ナローティが通っているのは、央都中心部からそうは遠くない場所――恐らく、フェリエ地区あたりではないか、と」
淀みなく語られるユニアの言葉に、アスパルは頷く。
「……もとより歓楽街として賑わっているあの辺りなら、忍んで遊びに出るにはうってつけだろう。
逆を言えば、娼館も娼婦も数が多いが……しかしその中で東国の女ともなれば、さすがにそういないはず。
――これなら、何とか少人数で、秘密裡に調べ上げることも出来そうだな」
「お役に立てましたようで、何より。
……とはいえそれも、徒労に終わってしまう可能性もあるのですが」
「何も出来ないよりはずっといいさ。
――では、私は早速部下に指示を出してくる」
力強く立ち上がった夫を見上げ、ユニアはつい「今からですか」と尋ねてしまう。
……事態が急を要しているのは彼女も承知の上だが、働き詰めの夫の身を案じる気持ちも、彼女にとって決して小さなものではなかったからだ。
「……〈聖柱祭〉まで幾日もない。
もし殿下が生きておられて、我々とは別の方向から、今回の件に関わっているのだとすれば――。
直接お話を伺えれば、あるいはバシリア卿がマールツィア様をどこへ隠したのか、一息に突き止めることも可能かもしれないのだ。ぐずぐずしてはいられない」
「……はい。
ごめんなさい――つい、愚かなことを口走ってしまいました」
「何を馬鹿なことを」
今度は自分の番だとばかりに、アスパルは頬を緩めた。
「愚かしくなどあるものか。
出たのは私のこの身を案じる言葉、それも、思慮深い君が、珍しく感情に任せて口にしたものだ。
余所では見られない、私を前にしたがゆえのその様……むしろ、男冥利に尽きる」
夫のそんな言葉に、ユニアは呆気に取られたように目を丸くした――かと思うと、いかにも嬉しそうに微笑む。
「……まったく、あなたという人は。
朴念仁かと思えば、聞いているこちらまで恥ずかしくなるようなことを平気で口にされるのですから……。
読みやすいようでいて、何とも読めない困った人です」
「なに、私も含めて男など、概ね単純なものだろう。女性には及ぶべくもない」
答えて、アスパルは残っていた葡萄酒を一気に呷った。
「さて、では行ってくる。
――まだ私自身が直接動くことはないだろうが、上がってくる情報次第では今後の段取りも詰める必要があるかも知れない。
帰るのがいつになるかは分からないが……」
「私のことなら、どうかお気になさらず。お役目に注力なさいませ」
自らも立ち上がり、ユニアは夫を送り出すべく深々と一礼する。
アスパルもそれに応え、留守は任せる、とだけ言い置くと……颯爽とテラスを立ち去っていった。




