鳥たちの父母
後宮――。
王の妃たちの住まう場所として、あらゆる面が豪奢に華美に飾り立てられたその中にあって……端に位置するその妃の部屋だけは、女官の中にも、貧相、などと陰口をきく者がいるほどに、悪く言うなら地味な場所だった。
だが後宮どころか、王宮そのものの主たる国王ガイゼリックは、むしろその内装を気に入っている。
煌びやかなものも嫌いではなかったが、住人の為人を表す控えめで自然な装飾に、心が落ち着くからだ。
しかし、今は――その飾り気の無さが暗い空気にさらに影を射す気がして、さしもの王も内心愉快ではいられなかった。
「陛下、ようこそいらっしゃいました」
窓際のベッドで上体を起こした女性が、部屋に入ってきた王に向かい深々と頭を下げた。
その淡褐色の長い髪が陽光に透けるさまを、王はこれまでただ美しいとばかり感じていたが……それは儚さを含んでいたからでもあったのだと、今さらながら思い至る。
「このような姿で、おもてなしも出来ず……申し訳ありません」
「わしのことは構わずとも良い。横になっていろ」
ベッド側の椅子にどっかと腰を下ろす王。
彼は決して大柄ではなく、また歳も50を過ぎてはいたが、未だに若々しさもあり……纏う礼服の下からでも、漲る覇気が感じられるほどだった。
「具合はどうだ、テオドラ」
言った通りに横になるのを待ってから王は、彼の、4人目にして唯一、自らが妃にと求めた彼女――テオドラに静かに声を掛ける。
およそ健康的な血色とは無縁な、素人目にも具合が悪いと分かる青白い顔を、それでも微笑みの形に据えて――テオドラは答えた。
「こうして陛下がお顔を見せてくださいましたので、随分と楽になりました」
「……まったく、お前というやつは」
呆れたような、困ったようなため息を一つ吐き……王はゆっくりとした口調で幾つか、政務中にあった他愛もない出来事を、病床の妃に話して聞かせる。
テオドラは穏やかな表情で、それにいちいち相槌を打って返していた。
先の言葉も根っからの世辞などではなく、1人でいるよりもずっと気が晴れるからだろう――その顔色は王が訪れたときに比べれば、いくらか良くなっているようだった。
ならばと長居をしたくもなる王だったが、その王たるゆえの多忙さがそれを許さない。
彼は柱時計でちらりと時間を確認すると、名残惜しさは胸の奥にしまい込み、勢い良く腰を上げる。
テオドラもまた、そのことを充分に承知して、引き止めるような真似はしないつもりだったが……最近胸に抱いていた疑問を、ついつい抑えきれずに口にしてしまった。
「……陛下。バシリア卿について、気になる噂を耳に挟んだのですが」
「何だ?」
幾分険しい顔で、王は振り返った。
「旧アルティナ皇国領に頻繁に人を遣っていらっしゃるとか。
……もしや、あの方は――」
「ロクトールなら、賊の追討調査に明け暮れておるだけだ」
テオドラの言葉を遮り、そんなことか、とばかりに王は鼻を鳴らす。
「先日、あやつの所領で暴れた賊の出所が、旧皇国領のようでな。
賊を放置するわけにもいかぬし、もし万が一にもそれが我が国を逆恨みする皇国の残党であったりすれば、事態はより大事になる。
そこで、あやつの進言通りに追討調査を任せた……ただ、それだけのことだ。
お前が気に病むようなことはない、安心しているがいい」
「そうでしたか……。
申し訳ありません陛下、つまらないことでお手間を」
ベッドの上で静かに目礼するテオドラ。
対して王は、苦笑混じりに手を挙げた。
「気にするな。これでお前の心労が少しでも減ったなら、易いことだ。
――ではな。身体を労り、しっかりと養生しろ」
「ありがとうございます。陛下もどうか、ご自愛のほどを」
テオドラの挨拶を背に受けて部屋を後にする王。
……その眉間には、深い皺が浮かんでいた。
「――お帰りなさいませ」
後宮へ続く渡り廊下を抜け、宮廷へ戻ってきた王に、待ち構えていた侍従の青年が頭を下げる。
王妃が住まう男子禁制の後宮とは言え、王の侍従なら付き添うことも出来たのだが、それでも彼――侍従アスパルは王の心情を慮り、邪魔にならないようにとここに残っていたのだった。
「気を遣わせるな、アスパル」
「恐れ入ります。
――陛下、テオドラ様のご様子は……」
「……あまり良いとは言えんな。
医者には、必要な物があれば何なりと申し出るよう伝えておけ」
「畏まりました」
立派な髭を備えていることもあり、どことなく野性的な力強さをもつガイゼリック王に比べ――対照的に、神経質そうな雰囲気のある細面に痩躯のアスパルは、その細い目を労しげになおも細めつつ、深々と一礼する。
しかし、顔を上げたときには、そうした人情の色は消え……普段通りの凛と引き締まった表情に戻っていた。
「ところで陛下。至急、ご報告したいことが」
アスパルの言葉に、王は周囲に目を配って人気の無いのを確認したあと、自分の耳元を示す。
後宮への渡り廊下近辺は、余計な不義密通の疑いを恐れて、普段から人の寄りつく場所ではないのだが……それでも王宮とは、注意をしてし過ぎることはない、どこで人が聞き耳を立てているか分からない場所だからだ。
一礼して、アスパルは半歩王に近寄り、声を潜める。
「マールツィア様が……書き置きを残して失踪された模様です」
「――何だと……!?」
声量を抑えるよう心がけていたにもかかわらず、あまりの驚きに、王はついつい声を荒げてしまう。
豪胆で聞こえる王の、そんな珍しい表情にも動じることなく――アスパルは小さく折り畳まれた紙片をそっと王に手渡した。
「姫様ご自身の手によるものに間違いありません」
紙片には、これまで世話になったことへの感謝と、勝手に家を出ていくことへの謝罪が丁寧な字で簡潔に綴られていた。
「まさか、あのことを知って――か?
いや、だがそれにしても、マールだけでは……」
「はい。警備も行き届き、万一のためにと内向きの施錠も万全なあの屋敷から、姫様お一人で、家人の誰にも気取られることなく抜け出されたというのは考えづらいかと」
アスパルの指摘に、しかしなぜか王は苦笑を漏らした。
「似たような前例がある、絶対にとまでは否定出来んがな――しかし、確かにマールでは難しかろう。
まさかとは思うが……皇国の残党が?」
「決してありえないとは申せませんが、可能性としては限りなく低いかと。
それよりも陛下、現状では――」
「ロクトールめの可能性の方が高い、か」
アスパルは小さく頷く。
「これだけの強攻策に出るなどと、あまりバシリア卿らしくありませんが……姫様がお一人で、あるいは皇国の亡霊の仕業によるもの、と考えるよりは、はるかに現実味があるかと思われます。
――対応は、いかがいたしますか?」
アスパルの問いに、眉間に皺を寄せた王はしばし考えてから、重々しく口を開いた。
「委細を調べ、直ちに行方を探れ。ただし、人を絞り、慎重にな。
失踪についても、公表はせず、屋敷の者にも口止めした上で、今まで通り生活するよう指示しろ」
「僭越ながら、陛下――それでは真にこの一件がバシリア卿によるものであった場合、恰好の攻め手を与えてしまうことになるのでは……」
「……いや、さほど変わるまい。それならば、あやつの仕業でない可能性も視野に入れて、下手に騒ぎ立てない方が得策だろう。
それにもし公表すれば、手に入れた札をすぐに切ってくる可能性があるが……事態を秘していればあやつのことだ、自らの手が一番効果的になる時機を待つに違いない。
つまりは、そのときまでこちらにも猶予が生まれることになる」
「失踪を活かす、となると――やはり来る〈聖柱祭〉でしょうか」
「恐らくはな。
それまでに何とか、事態を打開する方策を見出さねばならん――」
苦虫を噛み潰したような顔で、王は顎髭をいじりながら、再度紙片に目を落とした。
「……アスパル。失踪した娘の身を案じるより先に、政治的な考えを以て事にあたろうとするわしを、酷薄な父と思うか?」
アスパルは即座に小さく、しかししっかりと首を横に振る。
「いえ。それは王たる者の宿命であると心得ております。
……それに私は、陛下が姫様にも正しく愛情を傾けていらっしゃることを、よく存じ上げているつもりです」
「……そうか」
小声で呟きながら、王は紙片を折り畳む。
一瞬、僅かに垣間見せた、私人としての表情は既に消え失せていた。
「しかし――だ。あの屋敷に忍び込み、家人に気取られることなく人を一人連れ出すとは――ロクトールの手の者かそうでないかはさておき、相当の手練れらしい」
「……そのことですが……陛下。
屋敷の裏門にかけられていた〈時転錠〉が解錠されていた模様です。
破壊、ではなく」
紙片を懐にしまおうとしていた王の手がぴたりと止まる。
「ご存じのように、稀代の錠前師ラフォードの手に成る、かの〈時転錠〉は、こじ開けることは絶対に不可能とまで言われた物でありますのに……」
「いかに〈時転錠〉とて、人が造ったものである以上、真に絶対ということはない。
この広い央都だ、それが可能な者はいくらもいよう。
現に、我らは――」
王の口元が笑むように小さく歪む。
様々な感情が見え隠れするその仕草の奥は――少なくとも今のアスパルでは、これと読み解くことが出来なかった。
「過去に解錠した者を、少なくとも1人、知っておるではないか」