1.元第六王女の賢妻
王宮にほど近く、貴族の屋敷が多く建ち並ぶため、〈貴族街〉と呼ばれる地区――。
そんな、互いの邸宅の豪奢を競い合っているような区画の中にあって……しかしアルダバル邸は、その流れに置き忘れられているかのようだった。
もちろん、庶民の住居などとは比べるべくもないものの……こじんまりとした敷地に、華美とはほど遠い簡素な外観は、ともすれば市井の商人の屋敷よりも慎ましいのではないか、というほどだ。
ただ、これは貴族としての地位から鑑みると、ある意味適切とも言えた。
侍従というのは王に最も近い立場ゆえに、名誉職に近く、実質的な政治権力はほとんど認められていないからだ。
もちろん、その立場から、時の王に気に入られれば富をほしいままにすることも不可能ではないのだが……。
アスパルの前任の侍従であり、父でもある先代当主は、そうした金に飽かせるばかりの貴族趣味を嫌い、勤倹質素を旨として王への忠勤に励んでいた。
そして、その亡くなった父よりアスパルもまた、職務と家だけでなく、教えも正しく受け継いでいたのである。
しかし、富にこだわらないことと、家屋敷の装いに無頓着であることは同じではない。
絢爛でこそないものの、アルダバル邸はその隅々まで手入れが行き届き――文化人からは、古き良き美しさを残すその落ち着いた景観を賞賛される、という面もあった。
そんなアルダバル邸の、まさに家訓を絵に描いたような、余計な人の手を入れることなく緑豊かで自然なままの裏庭――。
そこに面したテラスに、現当主アスパルの姿があった。
まだ夜も明けきらない薄明の時間だというのに、テラスの椅子に腰を落ち着ける彼は、すでに出仕のための正装に身を包んでいた。
その上で、腕を組んで難しい顔をし、唸っては考えてを繰り返す。
彼が頭を巡らせるのは、特に、昨夜の出来事のことだった。
――結局、彼が情報収集の相手として期待していた商人のオルシニは、燃え落ちた屋敷から焼け焦げた死体となって見つかった。
詳しくは後ほど報告されることになっているものの、誰かに殺されたのは間違いないだろうと彼は見ている。
そして、その犯人として最も疑わしいのが、黒装束の二人組だとも。
だが、その黒装束を、警備隊が推測したように、火付けの犯人でもある――とすることには、彼は疑問を抱いている。
単なる犯人側の手違いなのかも知れないが、あれだけ盛大に階下から火を付けておいて、その火に追い立てられるように上階から逃げ出すなど、どうにも奇妙に感じたからだ。
しかもそのせいで、こうして人目に付き、手配をかけられる始末になっているのだからなおさらである。
――そして、もう一つ。
アスパル自身が追いかけ、しかし結果として逆に追い詰められてしまったあの黒装束の片割れが、結局自分を殺さなかったことも気になっていた。
あれがバシリア卿の手の者ならば、あの瞬間は、常に王側に与し、バシリア卿にとっては邪魔者でしかない自分を合理的に消す、絶好の機会だったはずなのだ。
正体すら看破していながら、あと一手というところまで追い詰めながら――なのにわざわざ命を助ける理由が、まるで思い当たらない。
しかも、彼の気を逸らすための咄嗟の行動だったのだろうが、正体を看破したことを彼自身に告げてしまっているにもかかわらず――である。
それは、貴族に何らかの繋がりでもなければ、そうそう気付かないはずの彼の正体を見抜いた――見抜けた、という『手掛かり』になるというのに、だ。
(殺しも、火付けも、オルシニとやらが持っていた情報を消すためなのはまず間違いないだろうが……。
しかし、だとすると、この妙な食い違いはなぜ起こる?
バシリア卿の一派以外に、何者かがこの件に関与しているということか……?)
「……ふむ……」
「今日はまた、一段とお早いのですね」
そんな声とともに、屋敷の奥から若い女性が現れたのは……。
アスパルが記憶の中にある彼なりの人名録を紐解きつつ、唸っているときだった。
銀のトレイを手にする、ゆったりとしたドレス姿の彼女は――もとはソフラム王国第六王女であった、アスパルの妻ユニアその人だ。
「――どうぞ。頭も冴えますよ」
ユニアは口数少なく、湯気の立つ陶器のカップが2つ載ったトレイを、側のテーブルにそっと置く。
「ん……すまないユニア。君まで起こすつもりはなかったのだが」
「いいえ、お気になさらず」
たおやかに言って、ユニアはもう一つの椅子に座る。
……そうして、何を言うでもなく、ただただ夫と同じように裏庭を眺めていた。
基本的に彼女は、冗談も言うような朗らかな性格だが……同時に非常に聡明でもある。
こうして余計な口は差し挟まず、ただ傍に寄り添うのも――そうしたいという自分の望みを形にしつつも、昨夜遅くに帰宅して以来、何かを考え込んでいるらしい夫の邪魔をしないようにという、彼女なりの配慮だった。
そして当のアスパルは、こうして妻がただ傍にいるだけで、単なる安らぎだけではない……その不思議な存在感に、安心以上のものを与えられている気がしていた。
加えて――実際に、知性を頼みとする相談相手としても、ユニアは非常に優秀なのだ。
彼女は詩歌や芸術のみならず、政治・経済・外交、果ては戦略・戦術まで、あらゆる知識に精通する抜きん出た才媛であり……。
しかもそれを有効に行使するための思慮深さも持ち合わせていて――父王をして『男子であったならば』と言わしめたという、まことしやかな噂も囁かれるほどだった。
だが同時に彼女は、自らが否とすることには、頑として首を縦に振らない強い自己も持ち合わせており……。
それゆえ、幾つかあった他国の王族との見合い話はすべて――その論理的で巧みな弁舌により一蹴し――2年ほど前、王女の地位などあっさり捨てて、幼少の頃より『彼なら』と認めていたアスパルの下へ、自らの意志で嫁いだのである。
そんな激しい経歴など微塵も感じさせず、物静かに穏やかに、ただ風に吹かれるがままでいる妻の横顔をちらりと見つつ、出されたコーヒーに口を付けたアスパルは……ふとした閃きをもった。
――それは、昨夜彼を追い詰めた、あの黒装束の片割れのことだった。
かろうじてでも彼の攻撃を見切り、身をかわせるほどに、太刀筋を身体に叩き込まれているであろう人物に思い至ったのだ。
(……まさか、殿下……?
レオノシス殿下だと言うのか……?)
アスパルの脳裏に、若い頃、剣術の稽古相手として何度も顔を合わせたことのある、快活な少年の姿が浮かぶ。
10近くも年上の自分を、兄のように慕ってくれた王子――彼ならば、太刀筋のことばかりでなく、警備兵に扮していた自分を見破ることも可能だっただろう。
そして声もまた、年相応のものだった。
加えて、聞き覚えがあるような気がしたことも頷ける。
だが――
「いや、馬鹿な……。
そんなはずがない……あるわけがない」
……その可能性を、アスパルは首を振って否定する。
あの心優しい王子と、闇に紛れ、怜悧な刃を振るう黒装束の姿が、どうしても一つに重ならない。
それに、もう一つ理由がある。
第三王子レオノシスは死んだのだ――8年も前に。
直系の王子のみが持つ短剣だけが、遺品として『発見』され、今も王の私室に安置されていることが、事実であるように。
(……そうだ。そんな馬鹿げた考えよりは、私の剣術を見知っていた何者かが、バシリア卿の一派にいると考える方がよほど現実的だろう。
あとのことは――)
修正した思考に安堵さえ覚えながら、アスパルはコーヒーで一息つく。
――と、彼を見守るでもなく隣で静かにしていたユニアが、唐突に彼を呼んだ。
そして……微笑み混じりに、柔らかな口調で語る。
「……お節介ながら、あなた?
そんなはずがない、と仰っていましたけど……先入観は視野を狭めますよ?
それに、極めて理知的であるがゆえにあなたは、感覚的なものを廃し、最も可能性が高く、そして最も自らが納得のいく答えに思考を落ち着けようとなさいます。
もっとも、多くの場合、それが確かに正解なのですから、決して悪いというわけではないのですけれど――。
どうも今回は、そうした単純な問題をお考えではないみたいですから……もう少し柔軟に向き合ってみてはいかがでしょう?」
「む……」
アスパルは言葉を失う。
……なるほど、妻の言う通りだと思った。
自分の納得出来る――納得したい答えと事実が、必ずしも同じとは限らないのだ。
「まったくだ。君の言う通りだな」
「お役に立ちましたのなら、何より」
涼やかに答え、ユニアは自分のコーヒーにそっと口を付ける。
その楚々とした振る舞いを見つめていたアスパルは、何かを思いついたのか、一度は口を開きかけるものの……すんでのところで思い止まり、その言葉を飲み込んだ。
そんな、夫の珍しく迷いの見える行動に、ユニアはくすりと微笑んで告げる。
「どうぞ、あなた。仰って下さいな」
「ン……そうか。
うん、では……ユニア。君に、頼みたいことがあるのだが」
アスパルの真剣な表情を向けられても笑顔を崩すことなく――。
ユニアは、穏やかに頷いた。
「――ええ。
私で役に立つことなら、何なりと」




