鳩の巣立ち
諦めるか、という青年の問いに、歯を食いしばって力強く立ち上がることで答えとした少女は――。
今度は足を滑らせる原因になった長靴下を脱ぎ捨てて裸足になると、もう一度、さっきまでの経路を辿り、今度こそ書架の上に飛び乗った。
そして、狭く、不安定な書架を、隣り合うさらに背の高い書架へと慎重に渡り歩き、ようやく、目指す採光窓の下枠を目線の高さに捉える。
あとは、部屋の中央に吊り下がっているシャンデリアを経由すれば、向こう側の採光窓に辿り着けるはずだった。
しかしシャンデリアまでは距離があり、不安定な書架の上からでは飛び乗るのは容易ではない。
そこで彼女は、自分が乗っている書架の一番上の棚から重そうな――ついでに読んだときすこぶるつまらなかった本を2冊ほど抜き取ると、シャンデリアに向かって投げつける。
1冊目は目測が外れて上に乗るだけだったが、それも参考にしての2冊目は、上手い具合に端に命中し、シャンデリアを揺らした。
「そろそろ、残り1分になるぞ」
青年の声も聞こえないように、少女はさらにタイミングを見計らって3冊目、4冊目の本をぶつけて、シャンデリアの揺れを少しでも大きくする。
そして、最も自分に近付いたところで――勢い良く飛びついた。
いい加減に限界を訴えてくる腕に必死に力を込めてよじ上り、自分が飛びついたこともあって揺れが大きくなったシャンデリアを、中央の鎖を掴み、ブランコを漕ぐ要領でさらに大きく揺らした少女は、ついに手が届くほどの距離になった窓に――そこにいる青年に向かって、最後の跳躍を試みる。
失敗するような距離ではないし、足も滑らせていない。
だが――皮肉なことに、この一部屋を照らす程度のシャンデリアでは、彼女の体重を支えることはできても、蹴り出す力まで受け止めることはできなかった。
最後の最後、足に込めた力を後方に受け流された少女は……前につんのめるような中途半端な姿勢で、宙へと身を躍らせてしまう。
距離そのものは縮めていたが、圧倒的に跳躍力が足りていない。
伸ばした手は、窓枠を掴むことなく空を切り――完全な浮遊感が全身を包み込む。
(落ちる――!)
そう自覚した瞬間、彼女の脳裏を過ぎったのは……もう少しだったのに、という無念さだった。
落ちればただでは済まない高さにいながら、そのことについての危機感ではなく。
無意識に見上げていた視線は、どうしてか窓に立つ青年の向こう、夜空に浮かぶ満月を捉えていた。
いつも見る月と違いがあるはずもないのに、彼女はそれが、手の届く位置にあるような気がしていた。そこまで上ったような気がしていた。
もう少し、もう少しで掴めたのに。辿り着けたのに――。
そんな悔しさで胸がいっぱいになった。
その瞬間――彼女は、自分の身体が重力に抗うのを感じ。
かと思うと、顔が壁にしこたま打ちつけられ……くぐもった妙な悲鳴が漏れた。
それを恥ずかしいなどと思う暇もなく、鼻から広がる鈍い痛みに目が覚めたように、顔を上げる。
その碧い瞳に映ったのは――彼女が必死に伸ばしていた手を掴み、引き上げようとする青年の姿だった。
「いい覚悟だったな。――まあ、合格だ」
相変わらず淡々としていながら、しかしどこか思いやるような言葉とともに……少女の身体は力強く引き上げられる。
そして、窓を抜け――青年が居た、塔の張り出し屋根の上へと辿り着いた。
……冷たい夜風が、動き回って熱を持った少女の全身を、優しく撫でていく。
いつもよりもずっと清涼に感じるそれを、彼女は胸一杯に吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。
空を埋め尽くすばかりに彩る星々と、煌々と輝く満月に見守られるように――眼下には、ぽつぽつと散らばる灯を抱いて静かに眠る、見渡すばかりに広い都市の姿があった。
――央都ユノ・グランデ。
その地下深くには世界を支える〈一なる柱〉が存在するという、何層、何世代にも渡る広大な遺跡の上に築かれた、世界で最も古く、同時に最も新しい……大国ソフラム王国の首都たる、華やかな大都市。
部屋の窓から見ていた頃、しかしそれは良く出来た絵画と変わらなかった。
まるで本当に存在するかのような、けれど彼女にとっては存在しない世界。
だが、今――その世界は、そこにあった。
絵画でも、幻でもなく、ただ、現実として。
「……にしても、酷い格好だな」
傍らに立つ青年に言われて、はっと少女は改めて今の自分の姿を省みる。
不格好に引きちぎって短くしたスカートはもちろん、間に合わせで結い上げた髪はぼさぼさ、足は裸足。
さらにはドレスの他の部分にも、白い地肌にも、どこかで引っかけたり擦りむいたりしたのだろう、色々な場所に小さな傷がある。
顔も、自身では確認のしようもないが、あれだけ派手に壁にぶつかったのだから、鼻血こそ出ていないものの真っ赤に腫れているだろうことは容易に想像出来た。
……みっともない格好だ。
仮にも、末席ながら王女という地位にある人間の身なりではないと思う。
だが、彼女は妙に清々しい気分だった。
不要なものを切り捨てたから――ではない。
これでもう後戻りは出来ないのだと、迷いや後悔が吹っ切れたからだ。
(……お母様、お父様。それに、お屋敷のみんな。
今まで、本当にお世話になりました)
部屋の方を振り返り、少女は一度、深々と頭を下げる。
そして改めて、青年を見た。
月明かりの下に見る青年は、初めに感じたとおり、背は低くないが、全体的に華奢な雰囲気だった。
色素の薄い赤みのある髪は短めで、同じ色の瞳は、やや鋭い目つきで隠れがちになっているものの、輪郭が骨張っていないせいか男らしさに欠けていて、どこか中性的ですらある。
怪我でもしているのか、鉢巻き状の眼帯で右目を隠しているが、それが無ければそうした印象はさらに強まっただろう。
……そして、少女は、その顔立ちに見覚えがあった。
眼帯こそ異質なものの、『一度でも見たものは決して忘れない』という〈鳩の目〉とも称される彼女自慢の記憶力が、それ以外の全体像から反射的に答えを導くが――しかし同時に、理性はそれを否定する。
「にい……さま? まさか、レオノシス兄様ですか!?
で、でも、そんな……!
兄様は、8年前、亡くなられたって……!」
「――会ったのはお互い幼い頃、一度きりだったはずだけどな。大した記憶力だ」
言って、青年は羽織っていたフード付きマントの留め金を外し、ふわりと大きく翻して、ぼろぼろのドレスを隠すように、少女の体を包んでやる。
「では、改めて挨拶しよう。僕はレオノシス・クラウストラム。
ガイゼリック王と第四妃テオドラの第一子で、王位継承権を持つお前の兄だ。
――元、だけどな」
青年は改めて、いかにも貴人めいた、堂に入った所作での折り目正しい一礼を少女に捧げる。
そして、大きく片手を挙げ……眼下に広がるユノ・グランデを示した。
「ようこそ、マールツィア。
――この、どうしようもなくくそったれな世界へ」