11.梟の時間へ
運河の一筋に架かる、古びた橋の下――。
商人オルシニの屋敷の目と鼻の先であるそこに、長らく住み着いている浮浪者たちの目すら欺くように……。
黒一色の装束の上からさらに真っ黒なフード付きのマントを纏い、夜闇と影の中に潜む、レオとロウガの姿があった。
「うちの奴らが、ギリギリまで集めてきた情報通りと言えばそうだが――」
ロウガが小さく首を動かして、そこから見える運河周りの街路を確認する。
「……意外なほど警備が薄いな」
「一度侵入られたばかりだから却って大丈夫と高を括っているか、人員の増補にかかる費用を出し渋っているのか。
……あるいは、まさかとは思うが――」
レオはちらりと、睨むようにロウガを見る。
「僕らの行動が漏れて、罠を張られているってことは?」
今度はロウガが眼を細める番だった。
「お前がそれを言うかよ。
〈黒い雪〉としての行動に関わるのは、〈蒼龍団〉の人間の中でも特に、俺にとって兄弟同然な連中だけだぞ。
……その兄弟が、身内を売ったとでも?」
「そこまでは言ってないだろ。動きが漏れた可能性を示唆したまでだ」
「漏れるとすれば、一番可能性が高いのは、お前ンところの嬢ちゃんからだと思うがな」
レオは一瞬、そんなことはと反論しかけ――しかし結局は「そうだな」と同意する。
……少なくとも彼は、マールのことを、そこまで愚かだとは軽んじていない。
だが、兄妹としての確かな信用を抱くには、ともに過ごした時間がまだ短いのも事実だった。
結果として、比較すればロウガ同様、彼が『兄弟』と称する〈蒼龍団〉の構成員の方が、彼にとっても付き合いの長い、より信用出来る人間ということになる。
「アイツのことだ。その気がなくても、うっかり口を滑らせる可能性はある――か」
「分かってると思うが……。
もし故意で俺たちを売るようなら、お前の妹だろうと、俺は容赦なく殺すぞ」
ロウガは何食わぬ顔で、さらりとそんなことを言ってのけるが……。
それが偽り無い真意であることを、誰よりレオは良く分かっている。
ロウガにとって、血は繋がらなくとも、むしろ血よりも濃い絆で結ばれた家族と言うべき〈蒼龍団〉。
それを守るためなら、他人はもちろん自らの命を犠牲にすることも辞さない――ロウガとは、そういう根っからの侠客なのだ。
そして、だからこそ――本来なら何に縛られることもない無頼漢と呼ばれるような連中が、命を賭して彼に従うのである。
「好きにしろ……と言いたいが。
もしそうなら、お前に任せずに僕自身の手で引導を渡す。
――それが、スジってものだろう?」
腰に提げた黒塗りの短剣に手を遣って答えるレオに、ロウガは満足げに鼻を鳴らした。
「……ま、安心しろって。
少なくとも今回は、故意かどうかにかかわらず、あの娘から漏れたわけじゃねえだろ。
これが罠だとして、ウチの情報網に引っかからず、これだけ手際良く動くなんざ――昨日今日のこっちの動向を知ってからじゃ、どう考えたって不可能だからな」
「……もっともだ」
言って、レオは夜空を見上げる。
――折しも、這うように広がってきた黒雲が、月を覆い隠そうとするところだった。
「良い頃合いだ。そろそろ――仕掛けるか」
辺りが闇に染まっていくのに合わせて、レオは眼帯を右へとずらし――。
闇のみを見透す〈梟の目〉を、ゆっくりと開いた。
* * *
「おや、〈シロガネヤ〉はもう店じまいかい?
今日は早いねえ、マールちゃん」
まだ深夜というには早い時間だが、同じく母屋の軒先で露店を開いている他の並びの店よりも、一足早く片付けを始めたマール。
その姿を見て、近くの商家で下働きをしている馴染みの女性が気さくに声をかける。
「あ、おばさん、こんばんは。
――はい、今日は兄さん、何だか調子が悪いらしくって……ちょっと様子を見ていてあげようかな、って」
「へえ、そりゃ感心だ。
……まったく、こんな良く出来た妹さんを郷里に残したままにしてたんだから、レオも薄情だよねえ」
「あはは……。
で、でもあの、兄さんも、自分の生活で手一杯だったんだと思いますし……」
「なーに言ってンの! レオったら、しょっちゅう〈酒盗亭〉に入り浸っててさ〜。
その酒代ガマンすりゃ、アンタ一人の面倒見るぐらい、どうとでもなったろうに。
――まあねえ、女や博打にまで見境無いウチの亭主よりは、まだマシだけど……でもレオだって、いつそっちに転がるか分かったもんじゃないんだから。
マールちゃんも、もっと真っ当な男見つけるなりして、さっさと見切りを付けちゃった方がいいわよ?」
「あ、あはは……。
ご親切に、どうもありがとうございます……」
精一杯の愛想笑いを浮かべたマールは、その後も矢継ぎ早に、ロクでもない男について散々にまくし立てる女性の勢い――それを物理的にいなすかのように、くるくると片付けに動き回る。
「……あらあら、ごめんなさいねえ、すっかり片付けの邪魔をしちゃって!」
そうして、結局女性がそう締めくくったときには――既に片付けはほとんどが終わっていた。
「それじゃ、あたしは行くけど……いい、マールちゃん?
兄妹だからって甘やかしてちゃダメよっ?」
「あ、はい、覚えておきますね。――おやすみなさい」
手を振りながら立ち去っていく女性に手を振り返し、しばらく見送ってから……マールは大きく息をつく。
疲れたのは確かだが、片付けに疲れたのか、会話に疲れたのか……彼女には今ひとつ分からなかった。
「あっはっは! いやあ、災難だったねえ」
そんなとき――不意に投げかけられた笑い声に、マールは弾かれたように顔を上げる。
そこで、人懐っこく、何とも愛嬌のある笑顔を浮かべて立っていたのは……背の低い太った男だ。
「あ……! こ、こんばんは、オヅノさん」
「やあ、こんばんは。
――しかし、ご婦人というのは何とも逞しいよ。ね。
アタシも、あの勢いにはいつもタジタジになってしまうんだ」
「そ、そうなんですね……。
あ、えっと、あの……お店の方はどうなさったんですか?」
「ん? ああ、お店はね、優秀な給仕さんたちがキチンと切り盛りしてくれるから。
実は、アタシが居なくてもあんまり問題ないんだ。ね。
――だからアタシは、ほら、いつもお世話になってる常連さんをお見舞いしようかな、なんて」
――オヅノが、盗賊としての兄やロウガの首領にあたることは、マールも知っている。
つまり、兄が〈仕事〉のために家を空けているのを承知の上でこうして訪ねてきたということは、自分に用があるのだろうと察し……。
マールは差し障りのない挨拶がてら、母屋の方を示した。
「わざわざすいません。
コーヒーでもお出ししますから、どうぞ」
「ありがとう。それじゃあ、ちょっとお邪魔するよ。ね」




