10.妃の憂いを憂う王
――後宮にある第四妃テオドラの居室から宮廷へと戻ったガイゼリック王は、静かにため息をついた。
この王にしては珍しい、しおらしいともいえるその所作は、見る者がいれば随分と目を引いたことだろう。
だがその場にいるのは、そんな彼の苦悩も良く知る侍従のアスパルただ一人だった。
「……うなされておったよ、テオドラは。
うなされ、うわごとに詫びていた……。
果たしてそれが誰に対してだったのかは、わしにも測りかねるが……な」
「――陛下……」
「あれは非常に聡明で、冷静で、忍耐強い……母としての激情すら抑え込めるほどに。
だが、わしも一目置くその才気ゆえに、あの日のことを未だに悔いているのだとすれば……不憫でならん」
聞かれる前に自ら、見舞った病床の妃の様子を、そしてそこにあるであろう後悔の念を吐露する王の姿に……アスパルは何を言うことも出来ず、ただ深く頭を垂れる。
その様子に気付いた王は、小さく首を振って苦笑した。
「すまぬ、弱音など吐いている時ではなかったな。
……わしも歳を取った、ということか」
王の、自己の切り替えの巧みさはさすがだった。
刹那の間に、先まであった沈痛な面持ちは気配とともに姿を消し、普段と変わらぬ強さと威厳を身に纏う。
「いえ。――お察し致します、陛下」
王の意を汲み取れば、余計な気遣いを口にすべきではなかったのかも知れない。
しかしアスパルは、そう労らずにはいられなかった。
――彼にも、ユニアという妻がある。
ガイゼリック王の第三妃セレスの娘で、その地位を捨ててまでアルダバル家に嫁ぐ前は、第六王女だった女性だ。
引いては、王は彼の義父にもあたるわけだが、そうした意識や忠誠心は別にして――。
その妻を、王と同じくただ女性としてだけでなく一人の人間として敬愛する彼は、そんな相手が病の床で弱りゆく姿を見る辛さは、想像するだに胸が締め付けられる……と、心を寄せずにはいられなかったからだ。
「お前の気遣い、素直に受け取っておこう。
……ところで、ユニアの方は問題ないか?」
王もまた、妻という繋がりからその名に思い至ったらしく――アスパルに問いを向ける。
「お陰様で、息災に。
――そう言えば、よろしければまた、テオドラ様をお見舞いさせていただきたいと申しておりました」
「……そうか。あれは、実の母もかくやと言うほど、テオドラに懐いておったからな――テオドラも喜ぼう。
王女の位を捨てたとはいえ、わしの娘であることに変わりはないのだ。好きなときに訪うがいいと伝えておけ」
「ありがとうございます。
その際には、陛下へもご挨拶に伺うように、と」
アスパルがそう言うと、王は困ったように眉尻を下げた。
……その表情はどこか、叱られる前の腕白な子供のようにすら見える。
「わしのことはいい。
……あれには昔から敵わんのだ、延々と説教などされてはたまらん。
むしろ、議会で古狸どもと化かし合いでもしている方が、よほど気が楽というものだ」
豪胆で豪気、豪腕でもあるガイゼリック王は、政策面でも革新的であるため、旧来の大貴族には受けが悪く、対立することも少なくないが……反面、民衆の間では非常に人気が高かった。
それは、民の生活環境を改善し、その地位も向上せんとする施策を積極的に行ってきたこともあるが――同時に、こうした子供のような、どことなく無邪気で親しみやすい一面も備えているからだろうと、アスパルは思っている。
そして、そうした面に好感情を持っているのは、彼もまた同じだった。
心なし表情を和らげて、王の冗談とも本気ともつかない苦言に調子を合わせる。
「心得ました。
陛下は政務でお忙しいゆえ、くれぐれもお邪魔をしないようにと伝えておきます」
「……余計なことは言わずともよい。
あれのことだ、却って何をか察して、飛んで来ないとも限らん」
王の要望に、アスパルは一礼して同意の言葉を述べようとしたが……その視界の隅に、通路をこちらへ駆けてくる兵士の姿を認め、口を結んで向き直る。
近付いてきた兵士は、まず王に跪いてから、改めて指示を求めるようにアスパルを見上げた。
「――陛下」
確認するように目を向けてきたアスパルに、王は頷く。
「お前の使っている諜者だな。
……構わん、そのまま申せ。今なら他に聞かれる心配もあるまい」
王の命令に一礼し、兵士は控えめな声で告げる。
「つい先程、報せがありました。
ラーベ運河の13番荷揚げ所に、細工師アッカドの死体が揚がったとのことでございます」
王とアスパルはどちらからともなく、目を合わせた。
そして、アスパルが重ねて兵士に問う。
「死体の状況は」
「主だった傷は見当たらず……警備隊は、発見された場所からしても、酒に酔って運河に落ちた挙げ句の溺死と見ておりますが」
「……アスパル、どう思う」
「警備隊の見立て通りという可能性もあるでしょうが……やはり、気になります」
アスパルの意見に、王も神妙な顔で頷く。
「うむ……時機が良すぎる。
もしもロクトールが絡んでいたなら、あのことを聞き出しているかも知れん――だとすれば厄介なことになるな」
「――陛下。ここは一度、私自ら調査に向かいたいと思いますが……」
「任せる。後手に回っていたとしても、手をこまねいているよりはマシだろう」
「はい」
答えて、アスパルは部下の兵士を振り返った。
「聞いての通りだ、私も現場へ調査に向かう。
――ただ、一介の細工師の死を調べに王付きの侍従が直接出向いたとなれば、余計な問題が増える。
警備隊の一員として潜り込めるよう、下準備を頼む」
「心得ました。――直ちに」
深く頭を下げた兵士は、足早にその場から立ち去っていく。
「……マール……」
遠ざかる兵士の背を目で追いながら、王がぽつりとその名を漏らすのを、アスパルは逃すことなく聞き届けていた――歯を、強く噛み締めながら。




