9.梟が目覚めたとき
「……お見事、殿下。降参です。
これまではほぼ独学であらせられたにもかかわらず、これほどの腕前とは……まったく、目を見張るばかり」
中庭の四阿で、彼と向かい合う痩せぎすな老人は、そう言って楽しげに手を叩く。
――ああ、懐かしいな……オーデル家で世話になっていた頃か。
そんな思い出の光景を、第三者のように見守りながら、レオは目を細めた。
「しかし、このような形でのお相手ばかりしているとあっては、オーデル卿に……いやいや、そればかりか国王陛下に、殿下を盗人にでもするつもりかと、お叱りを受けてしまいますかな?」
「爺やは怒ったりしないよ、他の勉強をきちんとしてればね。
父上は……怒ったりなんてさせるもんか。
怒るっていうなら、ここに来て、自分の口で怒ればいいんだ」
このときは、10歳ぐらいだっただろうか――と、口を尖らせる幼い自分を思い、レオは記憶を辿る。
「……殿下……」
父たる王に対しての、いかにも幼い苦言をもらす彼に――老人は、どこか寂しげな微苦笑を向けた。
……そこに秘められた感情は、今のレオでもはっきりとは分からない。
憶測出来ないわけではないが、もはや確かめる術など無いのだ。
「――それに、さ」
幼い彼は、閂の外れた無骨な錠前を、小さな白いテーブルの上に置く。
「さっきのラフォードの言い方だと、錠を開けることそのものが悪いみたいだけど……そんなの変だ。
それなら、剣の訓練をしている人間はみんな、人を傷つける罪人ってことになるじゃないか。
……要するに、使い方次第ってことだろ?」
「殿下の仰る通りにございますな」
「……なら、何にも問題は無いね。
僕がこうして、ラフォードの見せてくれる色んな錠を外してるのは……色々考えて、色々試して――それで鍵が開くそのときが、すごく楽しいからってだけなんだから。
間違っても、人の物を盗むためなんかじゃないんだから」
――よく言う……。
子供の頃の自らの発言に、レオは自嘲を止められなかった。
それは、10年以上過ぎた今、まさにその『盗み』に自分が手を染めているから――というのももちろんある。
だが、それだけではない。
――会いたい。
この屋敷を脱け出して、会いに行きたい……それこそが、本音だろうに。
彼自身が想った中の、『脱け出す』という単語に反応してか――目の前の光景は徐々に、墨をぶちまけたような漆黒の闇へと塗りつぶされていく。
……そして訪れる、暗闇。
しかし、それは完全な闇ではあっても、無ではなかった。
無限の拡がりとも、窮極の閉塞ともとれない一面の闇――。
そこに、か細い声が……苦しげな息遣いの下に紡がれる、亡者のごとき声だけが、弱々しく波紋を広げていく。
「……逃げてやる……絶対に、脱け出してやる……!
こんな、ところで……っ!」
――ああ……あのときはまだ、こんなにも『視えて』なかったのか。
これが夢である以上、実際に身体を動かしたわけではなく、あくまで感覚的なものなのだろうが――。
レオは、鉢巻き状の眼帯に手をやって横にずらし……視界を担っていた眼を、右目から左の〈梟の目〉に変える。
そうして、瞼を開けば――。
闇は闇として変わらずそこにあったが、その直中に浮かび上がるように……やや色彩には欠けながらも、周囲の光景が鮮明に映し出された。
……そこは、小さな石牢だった。
いや、牢と呼ぶのさえ生易しい――最低限の寝具どころか、窓も、そして一片の光さえも無い、世界から切り離されたような場所だ。
その中で、前方にたった一つ存在する、鉄格子の扉――。
その向こうもやはり同じような黒塗りの闇に沈んではいたが、そこに光射す世界への道を求めてか、一つの影がゆっくりと近付いていく。――少年だ。
ぼろぼろの服を纏い、殴られすぎて瞼が腫れて塞がった右目に、包帯代わりの服の切れ端を巻いた……全身傷だらけの幼い自分。
それは、一度逃げ出そうとして見つかり、徹底的に痛めつけられた結果だ。
そうして、懲罰として閉じ込められた、一筋の光も無いこの真の暗闇の中で。
食べ物も水も与えられず、永遠のようにも感じる時間を過ごすうち――彼の左目は『壊れて』しまったのだった。
それは、度を超した死への恐怖を、抗い難い生への渇望が、力任せにねじ伏せた結果か――。
そのとき、最も必要だったもの――ただ闇のみを真昼のごとく見晴らせる〈梟の目〉へと。
日の光を見ることがかなわなくなる代わりに。
――思えば、このときからだったのかもな……僕が、自らの意志で生き始めたのは。
自らの境遇に、取り巻く状況に……ひたすら絶望に囚われているはずの心を、それでも奮い立たせ、どんなことをしてでも――と。
妄執染みた生への執着を噛み締める、かつての自らの後ろ姿を、静かに見守るレオ。
――なら、あれは差し詰め、現実の世界への扉ってところか――。
脱走に失敗した折檻の際、ナイフでゆっくり深々と一文字に斬り裂かれた、腕の傷口……。
それは、監禁者が彼に、痛みとともに絶望と恐怖を刻み込むためだったのだろうが――彼の生への妄執はそのことすら利用していた。
激痛にのたうった際、傷口を押さえるフリをしながら……その中に自ら突き刺し、ねじ込んで隠していた、針金を。
嗚咽は噛み殺しながら抉り出し、血に汚れた手で曲げ……。
必死の形相で鉄格子に取り付いた彼は、それを格子の隙間から、手探りで錠前へと差し入れる。
――それは、不公平で、不条理で……。
それだけに、ただ生きるということをこの上なく実感できる、この――くそったれな世界への、扉。
やがて、彼の耳元で。
かちりと、小さな音がした――。
「…………」
目を覚ましたレオは……窓から射し込む朝日に、自分の手を透かし見ていた。
手には、つい今しがた解錠を試みたばかりのように……生々しく、あのときの感触が残っている。
随分と昔の記憶のはずが、今でも鮮明に、どうやってあの鉄格子の錠前を開けたか、その手順をはっきりと思い出せた。
……大した鍵ではない。
内側から、さらに手探りで――という条件があっても、それでも手こずるような構造のものではなかった。
そして実際、解錠に大した時間をかけた覚えもない。
だが当時、ただただ生き延びたいと――逃げなければ殺されると、必死になっていた彼にとってその錠前は、忘れられない記憶として、脳裏に深く刻み込まれていた。
その後、いくつも開けてきた、それよりも遙かに難解な錠よりも――深く。
「……そう言えば、今夜も〈仕事〉――だったな」
昨夜オヅノから任された、つい先日盗みに侵入ったばかりの屋敷にもう一度忍び込むという〈仕事〉を思い出しながら、ベッドを降りるレオ。
「やっぱり、まだ寝てるか」
軽く身体を動かしながら気配を探るが……家の中は、彼以外誰もいないかのように静まり返っている。
寝坊の妹が、今日こそはと頑張って早起きして朝食の準備に挑んでいる――などといった様子はまったくない。
「やれやれ……くそったれが」
それが腹立たしいような、そうでもないような……自分でもこうと決めかねる感情を、適当に自分の中で折り合わせながら。
レオはいつも通り――マールを起こすのは後回しにして、朝の準備をすることにした。




