Б「ニコライII世」
この人物は、生まれながらに『神の代行者の子』などと言う巨大な権力を与えられていたにも関わらず、極めて温厚かつ善良な人格者であった。彼がその人格の真価を発揮したのは、若干23歳の時。
1891年4月、彼は両親の勧めによる世界旅行の真っ最中であった。
彼はウィーンからギリシャへ向かい、エジプト、英領インド、コロンボ(英領セイロン)、英領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、英領香港、大清帝国と旅し、同月27日、長崎に入った。
日本は、国家を挙げてこれを歓待した。
ニコライII世が乗る巡洋艦『バーミャチ・バゾーヴァ』を歓迎する日本軍艦はいずれも満艦飾で、日本側は明治天皇の名代・有栖川宮威仁親王殿下がこれを歓迎した。『国賓』としての待遇であった。
埠頭から長崎知事公邸までの道路沿いは地元住民総出の人垣が出来て、晴れ着を身に着けた老若男女が色とりどりの旗を振り、『ロシア皇太子殿下、万歳』と叫んだ。
続く鹿児島でも同じような有様で、大勢の地元民が巡洋艦『バーミャチ・バゾーヴァ』や宿泊先に押し掛け、心尽くしの地元特産品を受け取ってくれるよう懇願した。
鼈甲の細工品、刺繍、砂糖漬けの果物などであった。ニコライII世はいたく感動し、翌年には彼の父・ロシア皇帝アレクサンドルIII世の署名が入った勲章を贈った。
聖アレクサンドル・ネフスキー勲章及び白鷲大勲章。特に聖アレクサンドル・ネフスキー勲章はロシアの勲章の中でも最高位から四番目に当たる、大変名誉あるものである。
明らかに、この時期の日本とロシアは極めて好意的な関係にあった。
日本国民は同国初の欧州国家皇太子訪問という一大事業に歓喜し、ニコライII世とその旅行団もまた、その好意に好意で応えた。
その、ニコライII世の好意が最高潮に達した瞬間が――――……5月11日の昼前、神戸でのこと。
ニコライII世の一行を警備していたひとりの警察巡査が、人力車に乗っていニコライII世にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。『大津事件』である。
幸い、傷は脳にまでは達しなかったものの、彼の頭蓋骨には裂傷が入った。
凶行に走った巡査は、同行していたギリシア王子・ゲオルギオスと、人力車の車夫によって取り押さえられた。有栖川宮親王殿下以下日本の顔ぶれが蒼い顔で右往左往する中、驚くべきことに、ニコライII世はこう発言した。
「大した傷ではない。この出来事によって、私の日本国民に対する気持ち、日本国民のも提案氏に対する私の感謝の思いが変化することはない。そうした心配を日本国民はしないよう、それだけを望む」
凶行を受けた直後のことである。
駆けつけた有栖川宮親王に対しても、彼は同じ言葉を繰り返した。侍医に応急手当を受ける間、突然の出来事に恐縮し、慌てふためく侍従武漢や両国関係者に、明るい口調で事の顛末を話して聞かせた。
事件を聞いた日本は明治天皇以下国民の一人ひとりに至るまでが恐慌状態に陥り、日本を代表して罪を償うとして自殺者まで出る有様であったが、実際、この出来事が日露関係の悪化の原因となることはなかった。
日露が戦端を開くことになったのは、純粋な地政学的・政治的・軍事的な理由と、後述する腐敗した官僚たちの暴走によるものであった。
ニコライII世は確かに人格者であり、優しい気質の持ち主であったが、彼の人格は、一人の男性としての枠を超えられなかった。
専制君主として一国を従え、数万の将兵の命を左右する戦争の是非を決められるほどの巨大な精神力――もしくは冷徹さ、サイコパス性――を持ち合わせていなかった。
「戦争は起こらない。予がそれを望まないからだ」
ニコライII世はそう考えていたし、ラムスドルフ外相にも、極東総督アレクセーエフにも「私は日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べた。
これに対し、アレクセーエフ総督は「私も戦争を望みません」と答えた。
が、それは嘘だった。彼は戦争を望んでいた。
満州のみならず、朝鮮全土を支配して日本を追い落とし、それどころか日本と一戦交え、東京で講和条約を結んでやろうとすら考えていた。
当時のロシアの対日関係政策は全て極東総督――アレクセーエフ総督、国務長官ベゾブラーゾフ、アレクセイ・アバザ海軍少将の3人と言う、非戦派の元大蔵相セルゲイ・ウィッテの言うところの『圧巻、ごろつき、こすからいアルメニアのじゅうたん商人的な根性の持ち主』たちに牛耳られていて、日露開戦の為のあらゆる工作が進行していた。
日本は、対露の防波堤である朝鮮半島がロシアの版図に飲み込まれないことのみを望んだ。
1903年7月の日露会談では均衡提案――満韓交換論を提示し、「日本はロシアによる満州支配を承認する。その代わり、ロシアは日本による韓国(朝鮮半島)支配を承認せよ」と訴えてきた。
が、悲願である不凍港・旅順を抱える海軍省は、旅順に近い海を日本の軍艦が闊歩するのを嫌った。利権拡大を願うアレクセーエフとベゾブラーゾフは同調した。
実は、ニコライII世は日露会談に先立つ1903年5月時点で、朝鮮について譲歩することを決めていた。そして、国務長官ベゾブラーゾフ宛に『ロシアは、日本が朝鮮を完全に領有することを認める』旨の暗号電報を送らせていた。
が、ベゾブラーゾフはそれを握りつぶした。
ニコライII世は日本との開戦を望まず、その為に朝鮮を諦めることを皇帝として決定した。が、その決定がどのように具体化するかをしっかり見守らなかった。
7月の日露会談で、アレクセーエフは日本に対し、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。
日本からすれば、それは提案でも何でもなく、単なる脅迫であった。
『南半島はロシアの物だ。北半島にも日本は立ち入るな』ということなのである。