Ӑ「ロシア帝国と言う国」
西暦1917年3月15日(ユリウス暦3月2日)、一羽の鷲が地に伏した。
鷲は、名を『ロシア帝国』と言う。
1917年3月(ユリウス暦2月)に起こった『2月革命』により、ロマノフ朝最後の皇帝・ニコライII世は退位し、皇位譲渡先たる皇弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公がこれを拒否した為、ロマノフ朝は終焉を迎えた。
時間を巻き戻してみよう。
200年近くの時を遡った鷲は、若々しくも力強い翼で、空を羽ばたくことであろう。
鷲が生まれたのは西暦1721年のこと。大北方戦争を勝利したロマノフ家のピョートルI世が、皇帝――『全ロシアのインペラートル』を名乗ったのが始まりである。
鷲は、寒がりだ。鷲はいつも、温かな風を求めて南へ南へと足を延ばそうとした。海洋進出に乗り出していながらも、大英帝国に圧倒的な差を開けられていたロシアにとって、凍らぬ港は国家的悲願だった。その、痛々しいまでの欲求が明確な形になったのが、18世紀後半、エカチェリーナII世の治世でのこと。
1768年、第一次露土戦争においてチンギス汗の末裔たるクリミア・ハン国――クリミア半島の盟主にしてオスマン帝国の保護国――をオスマンの楔から切り離したロシア帝国は、10年の計略を以てこれを併合した。以来『クリミア半島』は2021年現在に至るまで、ロシアと国際社会の大きなしこりなっている。
話を、18~19世紀に戻す。
クリミア半島。
黒海にぽっかりと浮かぶ半島であり、ロシア帝国にとっては悲願であった『凍らぬ海』の、その入口。しかしその海――黒海は、依然としてオスマン帝国が制していた。
この海の航海権を得るべく、オスマン敵国とエジプトとの戦争――1833年第一次エジプト・トルコ戦争――で疲弊したオスマン帝国を支援したロシア帝国であったが、ロシアの地中海への進出を嫌ったイギリス・フランス・オーストリアの干渉により、その計略は失敗した。
ロシア帝国の敵は、いつもイギリスであった。
クリミア戦争の時も、同戦争の失敗後、20年を掛けた近代化を終え、万全を期したはずの露土戦争においてすら、英・独ら列強の邪魔を受け、成功し得なかった南下政策。インド洋への突破を図った英露グレートゲームもまた、イギリスに阻止された。
その、200年以上にも渡る鬱憤の発露が、意外な場所で露わとなった。
――――旅順。
大陸の、東の果て。
猿どもの国・日本と国益を接する海である。
1904年。列強の一角・神に愛されし偉大なるロシア帝国と、極東の小さな小さな島国が戦端を開く。
日露戦争。
同戦争は、この戦争をけしかけた当人たる英国ですら意外に思ったほどに、小国も小国たる日本が連戦連勝を重ねた。
『連戦連勝』……海戦においては――過分に天が日本に味方したとは言え――事実かも知れない。が、陸戦においては事実とは異なるであろう。
ロシアは伝統的に、敵の三倍以上の歩兵戦力を以て強大な陣地を築き、敵を広大かつ凍った自陣に招き入れ、兵站が伸び切ったところでこれを絶ち、包囲殲滅するという戦略を好む。
ナポレオンが相手だったときは、これで破った。
アドルフ・ヒトラーが相手のときですら、これで進軍を阻止した。
が、この時代は大英帝国が世界を支配していた。
『電信』。
大英帝国が世界中に敷き詰めた海底ケーブル。それによって構成されるイギリスの、イギリスによる、イギリスの為の巨大な世論は、国際的正義を、国際的な『正解』をイギリスの手で以て決定せしめるという無限の力を同国に与えた。大英帝国は、勝利の前の仕込みたるロシア陸軍の撤退を、全世界へ『ロシアの連戦連敗』と喧伝せしめた。世界はそれを信用し、日本の国債を買った。
ナポレオンの時代には存在しなかった、遠距離を一瞬で結びせしめる情報戦。ヒトラーの時代には、どの国も当たり前のようにやっていた情報戦。それが、この時代にあってだけは、イギリスの独壇場であった。
結果として日本は首の皮一枚を繋いだ状態で戦争を戦い抜き、『日本海海戦』――ロシアでは『ツシマ海戦』と呼ばれる同海戦を以て日本の圧倒的勝利を国際世論に知らせしめた。
斯くしてロシアは、ロシア自身を含む大多数の国の予想を裏切り、嘘のような大敗北を喫した。周辺諸国を武力によって併合し、『民族の監獄』とすら呼ばれた帝政ロシア――ツァーリによる専制体制は、強大な軍事力によってのみ、その秩序を保っていた。その軍事力の脆弱さが露呈した時、溜まりに溜まった民衆の不満が『ストライキ』や『デモ』――――……そして『革命』と言う形となって噴出した。
1905年、『血の日曜日事件』に端を発した革命は、長い時間を掛けてうねりを帯び、1917年の2月革命へと至る。
皇帝ニコライII世は帝位を弟・ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に譲り、しかし同大公がこれを拒否したが為に、300年続いたロマノフ朝は幕を閉じた。
ニコライII世は民衆から軽蔑とともに「ニコライ・ロマノフ」と呼ばれる立場となり、家族とともに幽閉生活を送った。同生活のうちに、帝国はボリシェヴィキが実権を握り、今や専制君主主義は滅び去り、社会民主主義――マルクス主義が国家の主流を握る形となった。
翌年7月17日午前2時33分、ニコライII世とその家族(アレクサンドラ元皇后、オリガ元皇女、タチアナ元皇女、マリア元皇女、アナスタシア元皇女、アレクセイ元皇太子)は、エカテリンブルクの館にある暗い半地下でボリシェヴィキの手により銃殺された。
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本作はフィクションです。実在の国・組織・人物を下地にしておりますが、登場人物の言動は全て、作者の想像または創作によるものです。
また、作中における日付は以降全て太陽暦で表記します(ロシア帝国では旧暦を使用していました)。
(歴史モノは)初投稿です。どうぞよろしくお願い致します。