海星と人魚の追憶
「屋敷が囲まれておりますな」
六日目の夕刻だった。ハートウッドが青い顔でプールサイドへやってきて、二人にそう告げた。屋敷が暴徒の襲撃を受けている。
居住者を排除してここを占拠し、水と日陰を手に入れようということらしい。
「このだだっ広いところを囲むほど、あの街に人がいたのか……?」
ダンは驚いて訊き返した。ハートウッドの説明は要領を得ないものだったが――どうやら理解できた。不満分子たちは防備のわずかな死角を衝いて防壁を崩し、そこからあの広い庭を隠れ進んで、居館のある区画へ迫りつつあるのだ。ファミリーの構成員のうち、およそ三分の一がフェリクスについて出払っているのが、何とも悪いタイミングだった。
支離滅裂なシュプレヒコールがこの中庭まで届いてきている。彼らの状況には同情を禁じ得ないが、だからと言って無法に殺されるのは許容できない。
「旦那様には緊急に連絡を入れました。予定を繰り上げて、明日朝にはストラルサンドへ海路で戻る、と」
「なるほど、いよいよ俺の仕事が本番って訳か」
少なくとも、ダンにはマンザネラ一家を守って仕事を完遂する大義名分がある。
ダンは家令に、この屋敷で所有する火器の種別と弾薬の残量を尋ねた。結果、あまり思わしくはなかった。機銃弾は十分も打ち続ければ尽きてしまうだろう。
迫撃砲やその他の重火器はさすがにない。大勢の人間をいちどきに無力化できるような、鎮圧兵器の類は――ないことはないが、量はごく限られる。
催涙弾が十数発、摩擦を低減させて人を滑りこけさせるスライム手榴弾が五発ほど。
「この程度の防備では、長時間守り切るのは無理だ」
「そうでしょうな、向こうにも火器はございますし……ということは、脱出を?」
「そうだな。この間の装甲車とか……は、ダメか。人数が乗れん。それに群衆に突っ込んで突破できるほどの馬力もない」
「じゃあ、ヘリがあります」
ミゲル――初日に迎えに来たあの若者が本棟の屋上を指さした。
「民間用に色々削ってますけど、軍用のクルセーダー級輸送ヘリと基本は同じもんですよ」
「なら、空挺戦闘車一台と乗員も一個分隊、およそ八人まで積んで飛べるな。すぐ準備してくれ」
「しかし操縦は誰が? 当家では旦那様しかライセンスを持っておりませんのですが」
「ったく! 恨みを買うような暮らしをしてるんなら、もっと人材を集めとくもんだろが。俺が操縦できるよ。輸送部隊にもけっこう長くいたからな、大抵のものは動かせる」
ダンはそう言うと、いったん言葉を切ってにやりと笑って見せた。
「ただし、恒星船だけは勘弁してくれ」
ヘリには機銃だけを装備し、ダンとハートウッド、ミゲルと、そして農業用の給水タンクに水を満たして、その中にミチルが身を沈めて積み込まれた。残りのメンバーは投降を許されつつ、それでも屋敷に残った。
押し寄せる暴徒たちに催涙弾とスライム手榴弾が放たれ、咳き込みながら敷石の上で無様に滑りこける人の群が現出する。機銃を散発的に撃って威嚇しながら、クルセーダーが上昇を始めた。
「ああ、くそ。冷たいなあ」
苦笑いが漏れる。ミチルの頼みでダンは与圧服を着せられ、その中には首元まで水が注ぎこまれていた。与圧服は一対の細いホースで水タンクと繋がっていて、それを介してミチルの思念がか細いながらも伝わってくる。こちらの知覚と思考も、ミチルに共有されていた。
「大丈夫か」
〈ええ〉
明確な言葉はそれだけで十分だった。水が彼女の安心と、ダンの自信をそれぞれに伝えた。マンザネラ邸が次第に眼下へ遠ざかっていく。このまま洋上へ逃れれば、沖合の島でフェリクスと合流出来るはずだった。
そこへ、不意に管制装置のアラートが鳴った。
――incoming missile(ミサイル接近中)
「なっ――クソッタレが!! そんなものまで」
避けられない。だがダンは必死で足掻いた。ミチルの切迫した思念が頭を塗りつぶすように感じられた。どうにかそれを振り払って外を確認すると、機体左右に一つづつあるローターのうち、左の一基が消し飛んでいた。
「クソ、落ちる……!」
翼面積が不十分だが、ローターのマウント部分が一応は翼として機能する。滑空は可能――だが、まともな操縦などできようはずもない。クルセーダーは尻を大きく振り回しながら、よたよたと海へ向かって這い降りて行った。
着水。突き上げるような衝撃がダンたちを襲い、機内に水が流れ込み始めた。脱出するほかはない。だが、ダンはあのガイダンス映像を絶望とともに思い出していた。水中を泳ぎ回り獲物に群がる、有毒な刺胞をそなえた六本腕のヒトデもどきの群――
こりゃあダメだ。そう思った時だった。
〈ダン、私を出して。タンクから〉
「何を言ってるんだ、バカな! あんたに死なれたら――」
〈大丈夫。類棘皮動物たちには知性はない――明確な脳はない。でも体を動かす神経系はあるのよ〉
「そりゃそうだろうさ! だが――」
それが何に、と言いかけて、脳に直接響いてきた思念が答えを告げた。
〈私の能力で、奴らを制御できると思うの〉
不思議な光景が広がっていた。
救命胴衣を膨らませて、海面を漂う数人の人間と、その周りで壁を作るように固まって、大型生物の侵入や波をさえぎる、アステリスクの形をした小さな生き物たち。
墜落から半日を過ぎたヘリはすでに水面から二十メートル下に着底し、水面を動く波の形に揺れる、光の帯を幾重にもまとわりつかせていた。
その地点へ向かって、一隻の大型クルーザーが、汽笛を鳴らしながら接近してくる――
マンザネラ・ファミリーは解体され、タフランα3の開拓事業はもう少し良心的な別の企業に委ねられた。熱中症の死者は数が減ったものの、それでも相変わらず出続けた。
ミチル・ナカガワ・マンザネラは父と一緒に海洋惑星オンディーヌβ1へ向かい、入植者第一陣の中でいささか特異な地位を占めることになった。
彼女からはダン宛てに時々メッセージディスクが届く。そのラベルに書かれたへたくそな字を見るたびに、ダンはあの巨大なプールの水の冷たさを思い出し、日ごろ愛飲する炭酸水の代わりに、熱いコーヒーを入れるのだ。