9章84話 謎の声
ヒマーラヤ越えした人狼は、すごい勢いで走り抜け、南方連合軍ととうとう接触する。
そこからは南方連合軍が崩壊するまで一瞬だった。
ヒマーラヤ越えした人狼は、南方連合軍を後ろから攻撃していき、対処に遅れた南方連合軍は瞬く間に、人狼に蹂躙されていった。
先ほどまで戦っていた人狼の部隊は、ヒマーラヤ越えの別部隊に気づき、衰えていた勢いを増していく。そして、南方兵をどんどん押していき、包囲しようとする。
南方軍の指揮官はまずいと危機感を感じ、
「このままだと包囲される!撤退だ!!南に迎え!!」
と全軍に大声で伝える。
だが、兵の多くは混乱し、その場に呆然と立ち尽くしてしまうか、我先に逃げようと慌てて包囲の抜け口を目指す。そのせいで、包囲の抜け口がごった返し、
「どけよ!!俺が先だ!」
と仲間内で争ってしまう。
グローも例に漏れず、その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
その時ばかりは、彼も何も考えられず、頭が真っ白になっていた。次第に視界も白くぼやけいき、ついには辺りが真っ白な空間に取り残される。
彼は辺りを見回すが、何も無い。音も刺激も無い。「無」の世界だった。
「そうか、ここは天国か。」
彼は何かを悟ったように呟く。
ここでは、悲鳴も聞こえない。痛みも感じない。何も苦しまなくていい。そう何も苦しまなくていいんだ。
彼は「何も無い」ことにほっと胸をなでおろす。
すると、次の瞬間、
「ここが天国だと?」
とどこかから声が聞こえてきた。
「誰だ?」
グローはその声の正体を探り、辺りを見渡すが、どこを見ても誰もいない。だが、声の主は続けて、彼に語りかける。
「俺のことはどうでもいい。それよりも俺の質問に答えろ。ここは天国か?」
声の主はお構いなしに、彼に問いかける。
グローは一瞬ムッとするが、不思議と心が安らぐような声だった。その声の安らぎに免じて、彼は質問に答える。
「だって、そうじゃないか。ここには、痛みも苦しみも無い。幸せそのものじゃないか。」
彼がそう言うと、声の主の姿は見えていないのにも関わらず、明らかに落胆している様子が伝わってきた。
「はぁ、お前の幸せはそんなもんだったのか。お前の決意はそんなもんだったのか。がっかりだよ。」
そう溜息をつきながら言われ、グローは黙ってられなかった。
「お前に何がわかるんだ。このままだとどうせ死ぬんだ。だったら、痛みを感じず、死んだ方がマシに決まっている。それに、これからだって苦しみがあるんだろう?」
グローがキレて逆に声の主に問いかけると、
「お前はわかっていない。何も無いがどれほど辛いことなのかを。確かに、苦しむことは無いかもしれない。だが、逆に楽しみも幸せも感じられない。ここは天国じゃない。地獄そのものだ。それに、仲間はどうなる?お前を信じて付いてきてくれた仲間を見捨てるのか?」
声の主がそう問いかけると、鈍化していた仲間への心配が、彼の中で増大する。
「でも、あんな状況ならあいつらだって、もう死ぬだろ。」
グローは諦めたように、そう呟くと、そこに声の主が一喝する。
「勝手に決めるな!それに、死ぬんじゃない、死なせないようにお前が守るんだ!」
その言葉でグローはハッと気づかされる。
「そうだ、お前は仲間思いだ。それは誰よりも俺がわかっている。そして、同時に仲間もお前を慕っている。だから、…」
「「こんなところで諦めるな、グロー!」」
脳内と耳に同じ言葉が二重で響き渡る。グローはそこでようやくハッと正気を取り戻す。
後ろにはマリアやイトゲル、カーズィムがいた。そして、イトゲルが彼の目を覚まさせるように、背中をバシバシと叩いていた。
次第に、ジンジンと背中への痛覚も戻る。
「いって!」
その彼が痛がる様子を見て、彼女らはホッと安心する。そして、マリアは冷静に、
「早く包囲を抜けて、逃げましょう。」
と伝える。
彼らはコクリと頷き、包囲の抜け口を目指す。
「接近している人狼は安心しろ。俺が弓矢で牽制しておく。」
イトゲルはそう言い、人狼が迫っている方角を見つつ、弓矢で近づかないよう牽制する。彼らは、そうしてごった返す人混みの波を掻き分けていき、ようやく出口を抜け出す。そして、南へと敗走していった。
「…そうだ。とにかくひたすら前へ進め。走って、走って、辛い過去も置き去りにするくらいに。俺はお前を見ているからな。」
先ほどの謎の声の主が、遠くからそう呟いた。
グローたちは敗走していく最中、家族に会いたがっていた例の兵士二人の姿が見えた。ただ、それは地面に横たわった死体として…。
「…くそ。」
グローは二人のことを思うと、無念で、悔しくて堪らなかった。彼は悔しさから下唇を歯で噛み締める。
本当は彼らを埋葬し、遺品を自慢の家族へと届けたかった。しかし、無慈悲にも人狼はグローたちを追いかけてくる。
そのため、今の彼には逃げるという選択肢しか残されていなかった。今は死んでいった彼らを見ないように、前だけを見て逃げていった。
逃げ終わるころには、口から鉄と塩の味がした。
その日、南方連合軍は人狼に敗北を喫し、生き残った兵士は南へと敗走していった。
人狼からある程度距離を取った所で、南方連合軍は休憩しつつ、状況を整理する。
負傷者、約8千人。死亡者、約3千人。甚大な被害だった。この残された兵数ではまともに人狼と戦えないので、各国から追加の増援部隊を申請した。
しかし、増援が来たとて、生き残った兵はまともに戦えるのか不安だ。
「ぅぅ…。」
「い…た…い。」
多くの兵が体を怪我で負傷し、包帯をまるでミイラかのようにぐるぐるに巻かれていた。それでも、体から流れ出る血は止まらず、包帯が赤く滲んでいく。一応、法術使いと思しき人物が、怪我人を見て回るが、治療が追い付かない。それに、怪我がひどいため、法術でも治せないことも少なくなかった。
怪我人の悲痛なうめき声が、南方連合兵の不安と絶望を増幅させる。
「おしまいだ…。もうだめだ…。」
兵士はすっかり戦意が折れ、字のごとく頭を抱え、ブツブツとそう呟いている。
最悪な空気だった。だが、そんな空気を壊そうとする挑戦者が現れる。
マリアは大きく息を吸い込み、
「一回の戦いで負けたくらいで、何弱気になってんの!」
と一喝する。
彼女の声が辺り全体に響き渡り、その声に反応し、兵士はマリアの方に視線を向ける。
「一回の戦いで負けただけじゃない。家族の命や故郷がかかっているんでしょ!皆がやらなくてどうするの!?」
さすがマリアだった。マリアは故郷を失っているだけあって、その言葉には重みがあった。
その彼女の迫真の言葉に押され、しばらくの間、シーンと静まり返る。だが、一人の兵士が声を上げる。
「…確かに、あんたの言う通りだ。俺らがここで諦めて逃げ出してしまえば、家族も故郷もこれまでの思い出も全て無くなってしまう。あんな犬畜生どもから逃げれば、それこそ俺は畜生以下になってしまう。」
彼の思いに乗じて、他の兵士も声を上げる。
「そうだ。俺も家族に必ず帰るって言ったんだ。こんなところで死んでたまるか!」
マリアに勇気づけられた人が、他の兵士を鼓舞していく。そして、その鼓舞された人が、また別の人を鼓舞していく。そうしてできた勇気の連鎖は、兵全体を絶望から救い上げた。
やはりこれが、傭兵との違いだろう。傭兵であれば、金銭ありきの契約であるため、勝てないとわかってしまえば、平気で逃げてしまう。しかし、市民兵は家族など背負っている重荷が違うため、相手がどんな強敵でも逃げ出すことができないのだ。
とはいえ、その上がった士気は一時的でしかない。問題は敵を目の前にして、どこまで持つかだ。




