戦争の最中に書かれた作品
言及したいもう一点は「細雪」が戦争中に書かれた作品だという事だ。
最初に言ったように、自分は谷崎潤一郎という作家を、世評ほど尊重していない。感心もしていないのだが、にも関わらず「細雪」には心惹かれる。それはどうしてかと言うと、これが戦争中に書かれたという事実と関係しているのではないかと勝手に推測している。
考えてもみてほしいのだが、どっちかと言えば細々とした生活を描く「日常系」な作品を、谷崎は戦争中に書いていたのである。戦争というのは太平洋戦争だから、日本が破滅するか否かという大戦争だったわけで、谷崎の私生活については僕はよく知らなくて、もちろんそれなりに富裕だし恵まれてもいたのだろうが、それでも時局が真っ暗な状態でこういう作品を黙々と書くのは大した作家魂というか、変態もここまでくれば清潔な意志に変わったと言っていいかと思う。
戦争というのは、どうやら文学者にとってはあまりありがたいものではないようで、優れた戦争文学もあるが、僕の感じでは、文豪はみんな戦争を心の中では回避したように見える。戦争、特に二十世紀の戦争などは大雑把な現実であり、人間はただの数単位となって、大きな政争の中に巻き込まれる。政治学の本を読んでいると、領土を取るとか取らないとか、でかい話ばかり出てくるので、細やかな人間の内面なんてどうでもいいし、不倫だ恋愛だのを細かく書いている文学なんて馬鹿馬鹿しいという気持ちになってくる。しかし、些細な内面に固執しなければ文学は存在できないし、一般に、人間そのものも中身のない機能人間になってしまう。
谷崎は戦争の「恩恵」を受けたと言うべきだろうか。少なくとも、僕のような読者にとっては、谷崎が戦争という巨大な現実の中で、細かな生活に固執したというのが、良かったようだ。「細雪」は時局に合わない、と官憲に言われたそうだが、大抵傑作というのは時局に合わないものである。
バッハは「奇妙な演奏をする」と上の人間に言われたそうだが、現在の我々にとっては、彼が奇妙な演奏に固執しなかったら、バッハでもなんでもないものになってしまう。我々は常に何らかの形で闘う必要がある。良いものは大抵、時局に合わないからだ。「細雪」はそんな作品として、僕らの目の前に現れた。僕はこのほのぼのしているように見える作品の背後に、谷崎が描かなかった巨大な現実がある事を思うと、彼が描いた以上のものが作品の中に存在していると想う事ができる。
この路線から、古くも新しい次の文学を続ける事は可能だろう。現在の現実も、戦時とよく似ていて、吹き荒れている大衆の意見や広告、人間の数量化に汚染されている。我々は取りようによって、古典を、どのような状況にあっても新しいものとして読む事が可能だろう。